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文化祭2日目~校舎の裏で

 それから一時間ほどして、宮瀬が当番を終えて戻ってきた。想像したより長引かないで当番を切り上げてきたところを見れば、宮瀬の優先順位では詩織が一番なのがよくわかった。

「じゃ、ここから別行動で」

 優花と長谷部、詩織と宮瀬に分かれて、ここはお開きになった。別れ際に、詩織が連絡先を交換しようと言うので、いいのかな、と思いつつも素直にうなずいた。断る理由もなかったのだ。

 満面の笑顔で大きく手を振る詩織に小さく手を振り返して、優花は長谷部の横を歩き始めた。

「詩織ちゃんに大分気に入られたようだね」

 長谷部が困ったような嬉しいような複雑な笑顔をしてそう言った。

「いい子なんだけど、やっぱり宮瀬の彼女だよね。いい性格してるんだよ」

 最初の「いい子」と次の「いい性格」の意味合いは違うのだろう。特にそこには触れずに、優花は曖昧に微笑んで見せた。

「でも、初めて会った頃はあんな感じじゃなかったんだ。ピリピリしてるって言うか、周りの様子を警戒してる小動物みたいな感じだったな。最近はだいぶ本性見せるようになってきた気がする」

 先ほどの詩織と、ピリピリとした感じの詩織が結びつかなかった。彼女は始終笑顔を絶やさなくて、ちょっと長谷部をからかってみて面白がっている、愉快なお姉さん(宮瀨を待っている間の話の流れで、詩織は聾学校に通う高校二年生だということを知ったのだ)という印象だった。

「それもこれも、宮瀬が頑張ってるからだろうな」

 宮瀬は、地元のボランティアに参加しながら手話を学んでいるらしい。受験生である今でも、勉強の合間を縫って積極的に行っているというのだから、感心させられてしまう。

「なかなかできることじゃないですね」

「動機は、世の中の役に立ちたいとかじゃなくて、好きな女の子ともっと話したいっていうことだけどね」

「動機はなんだっていいじゃないですか。詩織さん、きっとそれが嬉しいですよ」

 優花が力を込めて言い返すと、長谷部の瞳が優しい色に変わった。

「いつだったか、彼女が言ってた。家族じゃない誰かが私のことを理解してくれようとしてくれるだけで世界が変わるって」

 家族じゃない誰か。そのキーワードが不思議なほど優花の心に響いた。その理由を探ろうとしていると、長谷部がしみじみとした口調で言った。

「彼女にとって……俺にとっても、たぶん、世界を変えるきっかけになったのは宮瀬だったと思う。あいつは、すごいよ」

 素直に宮瀬を褒めている長谷部が、まぶしく見えた。それだけ、宮瀬との出会いは長谷部にとって大きかったのだと思う。

(じゃあ、自分にとってそれは誰だろう)

 それは百合かもしれない、と思った。優花にとって最初は通うだけでよかった高校が、今は高校にいること自体が楽しいと思える。百合がいてくれたから、少しずつ学校の世界を広げられた。あのとき、思い切って声をかけようと思ったのは大正解だった。

(でも、どうして声をかけられたのだろう)

 ふと、疑問がわいた。

 中学までの優花なら、一人でいる百合を見ても、声をかけようという発想にならなかったと思う。流れに任せて、適当にグループが組み合わせられるのを待っていたはずだ。あのとき、優花を突き動かしたものはなんだったのだろう。

(家族じゃない、誰か)

 そのキーワードをもう一度心の中で繰り返して、ぱっとひらめくように一つの絵が頭の中に浮かんだ。

 それは、真っ直ぐに優花を見つめながら「ごめん」と謝ってきた竜だった。

 途端に、心臓の脈打ちが速くなる。冷静になりたくて深呼吸しようとしたけれど、うまくできない。

 数馬と佳代がいればそれでよかった自分が、少しずつ変化したきっかけ。

 竜がまだ橘家に来て数日しか経っていなかったあの日。本当ならあのとき、自分から謝らなければいけなかった。自分が勝手に怒ってしまっただけなのに、竜の方から謝ってきた。竜から、歩み寄ろうとしてくれた。だから、自分も素直に謝ることができた。

(ちゃんとわかってくれる人もいるんだって、あのとき思った。自分も一歩を踏み出せば、人と関わることができるって、わかったんだ)

 自分が抱えていたもやもやも、ギスギスしていた感情も、マイナスな気持ちも、竜は許してくれたのだ。だから、自分は――。

「どうしたの?」

 長谷部に声をかけられて、物思いから急に現実に引き戻された。

「いきなり黙っちゃって、何かあった?」

「あ……ごめんなさい。その……ちょっと、考え事しちゃって……」

「確かに、心ここにあらずって感じだったね」

 長谷部の口調の中に苛立つような気配を感じて、優花は思わず目を伏せてしまう。しばらくの間、気まずい空気が二人の間に流れた。何か言わなければと思うほど、思考が空回りして何も言葉が出てこなかった。

 ふうっというため息が聞こえたと同時に、長谷部に右手をぎゅっと掴まれた。ビクッと体が反応して、反射的に腕を引いた。でも、つながれた手はほどけなかった。

「行こうか」

 手をつないだまま、長谷部は歩き出した。優花の方はほとんど見ずに。

(怒ってる……?)

 引っ張られるような形で、優花も少し後ろを歩いた。長谷部の表情をうかがおうとしてみたけれど、ちょうど見えない角度になってしまっていて、よくわからなかった。

 しばらく、無言で歩き続けていた。二人が手をつないで歩いているのを見てショックを受けているような表情を見せる女子や、あからさまにがっかりした様子を見せる女子たちと何人もすれ違う。

(見せつけてるってこと? わざと? 先輩が何をしたいのかわからない)

 相変わらず、長谷部の感情は読めなかった。でも、ちょっと優花をからかって遊んでいるような、いつもの長谷部の様子とは違った。プラスかマイナスで言えば、マイナスの感情を抱いて優花の手を離さないでいるような気がした。

(どうしよう。結構強い力で掴まれてしまっているから、離そうにも離せない)

 このままどこに連れて行かれるのだろうか。そんな不安を感じ始めていたときだった。

 人の多く行き違う廊下の向こうから、竜と麗が並んで歩いてくるのが目に入った。麗はその腕をしっかりと竜の腕に絡ませて、ぴったり寄り添うように歩いていた。

 どくん、と嫌な音で心臓が脈打った。一瞬、目の前の景色がすうっと暗くなったように思えた。

 竜も優花に気づいた。でもすぐに視線をそらした。そのまま声をかけることもなく、優花と長谷部の脇をすっと通り過ぎていった。

(なんで、何も言わないの。別に、ちょっとくらいなにか言っても……)

 胸の奥が苦しい。うまく、息ができない。指先が震える。周りの人たちの声が頭に反響してうるさい。眼の奥が痛い。何をどう処理していいのか、わからない。

「今の、あの彼だよね」

 長谷部が独り言のように言った。

「知り合いって、女の子だったんだ」

 そうです、と言おうとしているのに、声が出なかった。小さな息が切れ切れにもれただけだ。

「明らかに無視したけど、けんかでもしたの?」

 違う。けんかなんてしていない。

 でも、長谷部の言うとおり、竜は優花を無視した。確かにこちらを見たのに。

 途端に、目頭が熱くなる。

(だめ。こんなところで、泣いちゃだめ)

 必死で涙をこらえた。こらえようとすると、唇が震える。一瞬、長谷部の表情が切なそうにゆがんだのを見た。

「君、さ。もしかして――」

「いた! 優花!」

 長谷部の続きの言葉を遮って、百合の声がはっきりと耳に届いた。

 振り返ると、百合が必死な様子で駆けてくるところだった。その後ろを追いかけるようにして圭輔がやってくる。

「百合……」

 どうしたの、と優花が言う前に、百合は長谷部の方に怖い顔をして近づいていった。

「先輩! ちょっと優花を借りますね!」

 百合は長谷部に向かって叫ぶように宣言すると、すかさず優花の左手をとった。その瞬間に、右手から長谷部の手が離れた。

「その間、圭輔の相手、お願いします!」

 勢いのままに百合は優花を引っ張り、呆気にとられる長谷部と今ひとつ表情の読めない圭輔を置き去りにして早足で歩き出した。

(百合も……なんだか怒ってる)

 優花は何が何だかわからないまま、百合に引っ張られるまま歩いている。

 どこまで歩くのだろうと思い始めた頃、百合は校舎の裏までやってきた。誰もいない校舎裏は日陰になっていて、空気がより一層冷たかった。

「百合、あの……」

 やっと声をかけられると思って呼んでみると、百合がくるりと振り返った。その表情を見て優花はぎょっとした。百合が目を真っ赤にして泣いていたからだ。

「優花、ひどいよ。なんで話も聞かないでどこか行っちゃうの」

 最初は怒っているのだと思った。口調も非難がましかった。でも、すぐに違うと思った。怒っているだけではない。百合は、悲しんでいるのだ。

「どうしたのかちゃんと話してよ。私の話も聞いてよ。私は優花のこと大事な友だちだと思ってるよ。友だちだから何でも話せるってものじゃないとは思うけど、私は聞いてあげたい。聞いてほしくないなら、話さなくてもいいの。思ってることと全然違う話でいいから、気を紛らわせてあげたり、側にいてあげたいって思うよ。優花が何だかとても辛そうなのに、一人にしたくないんだよ」

 そこまで一気にまくし立てると、百合は肩で息をしながら優花を見つめた。

「……ごめん」

 自然と口から言葉が出てきた。同時に、涙が両目からぽろぽろとあふれ出てきた。

「ごめんね、百合」

 優花は涙を両手で拭いながらつぶやいた。涙は、拭っても拭ってもあふれてきて止まらなかった。

 泣き止まない優花を、百合がそっと抱きしめた。

「大丈夫だよ。だって、私たち親友だもんね」

 百合がぽんぽんと優花の背中を撫でながら言う。優花はただただうなずくことしかできなかった。



 優花と百合は、並んで校舎の壁に背中を預けて、ぼんやりと空を眺めていた。泣きすぎて頭がよく働かない優花は、ただ流れていく雲を見ているだけだった。

「あのさ、間違ってたら違うって言ってくれていいんだけど」

 百合がおそるおそる尋ねてきた。

「優花は、竜のこと好き?」

 来るかなと思っていた質問だった。聞かれたらどうしようかと思っていたのに、いざそのときになったら、案外素直にうなずくことができた。

「やっぱりそっかあ。前から何となくそんな気がしてたんだけど、確信がなかったんだよね」

「そんな気がしてたって……いつから?」

「んー、夏休み前かな?」

「そんなに前?」

 自分の気持ちを自覚したのはつい最近だったというのに。気づかないうちに態度に出ていたということなのだろうか。優花は顔に手を当てて考えてしまう。

「ほら、球技大会の時。優花、怪我したでしょ? あのとき、竜が迎えに来たけど、いろいろあってすぐに帰っちゃったじゃない。竜を見送ってる優花を見てたら、何となくそう思ったの。でも、すぐわからなくなっちゃった。だって、長谷部先輩ともいい感じに見えたから」

 あの頃は、長谷部にちょっと惹かれ始めているときでもあった。でも、なぜかそれにブレーキがかかっているような気がしていたのも事実だ。それは、無自覚の中でも自分が竜のことを好きだったからなのだろうか。

「でも、さっきは明らかに優花が変だったから。やっぱりそうなのかもって、思えたの」

「ごめん、話せなくて。私、自分の気持ちに気づいたのがわりと最近で、どうしたらいいか、わかんなくて……」

「わりと最近って、先輩と付き合うフリを始めた前? あと?」

「……あと」

「それじゃ、余計に言いづらいよね。それに、私が圭輔のこと相談したりしたから、言い出しにくかったんだよね」

 百合がそうやって慮ってくれるから余計に罪悪感にさいなまれる。優花は首を横にふるふると振ってうつむいた。

「そうじゃないよ……。どう言葉にしていいのかわからなかったし、自分がずるくて、いやだったから……」

「ずるい?」

 首をかしげる百合に、小声でつぶやくように話した。

「だって、先輩と付き合うフリ決めたのは、結局自分の保身のためだし……」

「それは、先輩から提案があったからじゃない」

「そうだけど、決めたのは自分だし……」

 優花はうつむき、両手をぐっと握りしめた。

「私は、先輩の好意を利用しているの。なのに、心の中では竜が好きって思ってるの。でもね、さっき、お昼ご飯食べてるときは普通に先輩と普通に話していたの。笑って話せていたの。このまま、先輩のこと好きになっちゃった方がいいんだろうなって思った。でも、できないのもわかってるの」

 言いながら、自分勝手で支離滅裂なことを言っていると思って嫌になる。こんな自分勝手なことを話すのがいやで、自分は今まで一人で抱え込んでいたのだ。

「いいんだよ、それで」

 百合がきっぱりと言い切った。

「いっぱい考えれば、きっと答えが出るよ。私もどうしたらいいか正直わかんないけどね。アドバイスできるような経験なんてないから。でも、考えなきゃだめなんだよ。自分がどうしたいとか、どう思ってるとか。私も、圭輔とのことまだ考えてる。まだ答えはわかっていないの。でも、考えなきゃだめなんだよ……」

 言葉の最後は、優花にというより自分に言い聞かせているようだった。百合もまた、悩みの最中さなかなのだ。でも、優花に寄り添おうとしてくれているのだ。

「そうだね。ちゃんと、考えなきゃね……。このままでいいと、思えないし……」

 うんうん、と百合は大きくうなずいた。

「さて、どうする? 先輩のところ戻る? それとも私と文化祭見て回る?」

 私と、という言い方が引っかかった。そこに、圭輔が含まれていないのだ。

「圭輔はどうするの?」

「長谷部先輩に任せちゃおうかな。それに今頃、昔話でもしてるんじゃないかな」

 百合はにっこりと笑って見せた。

「この間、圭輔に聞いたよ、昔の話。びっくりしちゃった。二人、知り合いだったんだね」

 そうか、聞いたのか。それを知って、少しほっとした気持ちになった。これで、百合に話していないことのもう一つが無くなったからだ。これは長谷部の過去のことなので、部外者である優花が、同じく部外者である百合に話すことはためらわれていたのだ。でも当事者の圭輔が話したのであれば、問題なかった。

「意外と世間は狭いんだね。なんだか、不思議な縁がつながってる感じ」

「そうだね」

 優花はしみじみとうなずいた。優花がこの高校に入ったのは、ただ近かったという理由だったし、百合もたまたま似たような理由で入ってきたし、長谷部がこの高校に来たのは親への反発心からだったし。優花と百合が長谷部と同じグループになったり、百合の幼なじみが圭輔だったりするのは、全然関係ない事柄のはずなのに。どこかで見えないつながりがあって、知らぬ間に結ばれている。

 優花はえいっと壁から背中を離した。

「先輩のところに戻る。文化祭は一緒に見ようって約束していたし……、ちゃんと、向き合わなきゃだめだから」

 わかった、と言って百合も壁から離れた。

 百合が圭輔に電話して、今どこにいるのかを聞いた。さっきの場所から動いていないということだったので、二人はゆっくり戻り始めた。

「百合は、圭輔と二人になっちゃったけど、大丈夫だったの?」

 気持ちに余裕が出てきたからか、周りが少し見えてきた。人のことを考えないまま自分勝手に行動していたのだと改めて気づいたのだった。

「それどころじゃなかったよ。優花のことが心配で」

 百合がいたずらっぽく笑うので、優花もつられて笑った。

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