文化祭の前
「なんだよ優花。先に帰るって言ったくせに遅かったな」
優花はびっくりした。帰宅すると、リビングには竜がいて、すでにマンガなんて読んでいるのだった。
「竜こそ、早いね。……で、どうだったの?」
平静を装いつつ、百合と圭輔の事の成り行きを聞こうと思ったのだが。
「さあ」
肩をすくめながら、竜は視線をマンガに戻してしまった。
「さあって……」
「俺も、あの後すぐ帰ったから。一人でのぞいてても、つまんないし」
(つまんないって)
自分で言いだしたことのくせに、と思ったけれど、優花はそれを言葉にしないでため息に変えた。
「お兄ちゃんたちは?」
「帰ってきたときにはもういなかった。買い物かどこかに行ってるんじゃないかな」
「そっか」
買い物か、それとも佳代の実家か。孫の顔を見せるために、月に二回は行っているのではないだろうか。佳代の実家に行くたびに、数馬が若干やつれた雰囲気を見せることを思い出す。今日もやつれて帰ってくるのだろうか。
とりあえず、紅茶でも飲もうかとケトルに水を入れてお湯を沸かした。竜も飲むというので、こぽこぽという音を聞きながら、二人分のマグカップやらティーバックやらを用意していると。
「で、優花はどこ行ってたんだよ」
不意に竜にそう言われて、ギクッと肩が震えた。別に隠すようなことではないのに。あったことを、そのまま話せばいいだけなのに。
「それが、途中で河合くんに会っちゃって」
お湯を注ぎながら、平静に答えた。
「河合?」
「ほら、クラスメイトの。竜も会ったことあるじゃない。えっと、そうだな……眼鏡かけてないほうの」
「ああ、あの丸いやつか」
優花が飲み込んだ言葉を、あっさりと竜が言ってしまった。
(竜も丸いって認識してるんだね。河合くんのこと)
河合には悪いけれど、あまりにぴったりな形容詞なのだ。悪口のつもりではないけれど、あまり良い言い方でもないとも思っている。
「河合ってやつは、あの辺に住んでたんだっけ?」
マンガのページをめくりながら、竜が尋ねてくる。優花は一つのマグカップを竜の前に置きながら「ううん」と首を振った。
「部活で学校来たんだって。もうすぐ文化祭だから、その練習で」
「練習って、何か発表でもあるのか?」
うなずきながら、次の言葉を言おうか迷う。
応援部は、長谷部がいる部活で、長谷部はついさっきまで一緒にいた。優花の中では、応援部と長谷部はどうしてもつながってしまう。けれど、竜に長谷部の部活のことまで話した記憶はない。
「河合くん、応援部なんだよ。文化祭のオープニングで演舞があるんだって」
「へえ」
竜は特別な反応は見せず、ただ相槌を打った。優花はひそかにほっとした。竜と長谷部のことを話さなくて済みそうだった。
(竜は、先輩の話になると、なんだか冷たくなる。突き放してくるというか、遠ざかっていくというか……)
さっきもそうだったけれど、今までのことを振り返ってみてもそうだ。竜はなぜか、わざわざ長谷部の話を持ち出してくる割には、妙に態度が寒々しくなる。それが悲しくて、優花はできるだけ話題にしたくないのだ。
「文化祭って、俺も見に行けるの?」
「え? まあ、行けなくもないけど……」
金曜、土曜と二日間ある文化祭のうち、土曜日は一般公開されるので、学生に限らず誰でも行くことができる。優花も去年、兄と一緒にちょっとだけ見に行ったことがある。自分が受験する高校の文化祭くらい少し見ておけ、と兄に言われたのだ。あまり気乗りしないまま行って、にぎやかな校舎内を何となく見ながらぐるっと一通り回ってすぐに帰ったせいか、内容をよく覚えていない。
「圭輔が暇なら一緒に行こうかな。面白そうじゃん」
その言葉に、優花は少し唸って考える。
「圭輔を誘うのはどうだろう……?」
「なんでだよ」
「だって、百合ともし付き合うってことになってるなら、百合と一緒に見て回るんじゃない?」
今日の圭輔の告白の結果次第だけれど。その可能性は大いにあると思っている。
「お邪魔になっちゃうよ、竜が」
「それは嫌だなあ。かと言って、優花と一緒に見て回っても、また変な誤解されそうだな。優花がまたよくわからない標的にされても嫌だし」
ドキン、と心臓がはねた。嫌な感じではない。むしろ、ふわふわとした、幸せな感じ。
(竜が、私のこと考えてくれている)
ただ、それだけのことだけれど。ちょっとしたことだとは思うけれど。そういうふうに考えてくれることが嬉しい。
「数馬さんと一緒に行くとか」
「お兄ちゃんと行くっていうのもなんだか変な感じだけど……」
「でも一人で行くのも変だろ?」
そこまで話したところで、玄関のドアが開く音がした。どうやら数馬たちが帰ってきたようだ。
「ただいま」と言いながらリビングにまず入ってきたのは、愛実を抱っこした佳代だった。愛実は起きているようで、少しあたりをきょろきょろしながら首を動かしている。
「ちょっと荷物を取ってくるね」
愛実をベビーベッドに寝かせながら、佳代が口早に言った。佳代が離れて行っても、愛実はご機嫌な様子で手足をばたつかせていた。最近は、機嫌が良ければ少し放っておいても大丈夫なのだった。
佳代と入れ替わりに、数馬が荷物をいくつか抱えて入ってきた。察するに、買い物に出かけていたようだ。数馬がやつれていないから、佳代の実家には行っていないと思われる。
「数馬さん、優花の高校の文化祭、一緒に行きませんか?」
荷物の整理を手伝いながら、唐突に竜が言った。数馬は一瞬首を傾げた。
「そっか、もうすぐなのか。でも、優花は何かやるのか?」
何かやるかと言われても、実は当日そこまでやることはない。せいぜい、クラス出し物の占いカフェで、ウェイトレス役を当番で回ってきた時間にやるだけだ。優花はポスターを描く係だったから、しなければいけないことは終わってしまっている。そのことを素直に話すと。
「それなら別に行ってもなあ。特に見るものなさそうだぞ」
特に興味のなさそうな反応だった。妹が何かをするというなら、何をおいても来るのかもしれないが。
「えー。ちょっと付き合ってくださいよ。俺、行ってみたいんですよ、高校の文化祭ってものに」
「それなら、あの圭輔って友達を誘えばいいじゃないか」
「ちょっと事情があって。……俺じゃない子が一緒のほうがいいかなって」
「……なるほどね」
なんとなく事情を察してくれたようだった。
「俺も、一緒に誘えるような子がいればいいんですけどねー」
カラッと明るく言った竜の言葉に、ドキッとする。今度は、嫌な感じの胸騒ぎだった。
「あ、そうだ。この際だから、一人で文化祭行って、そういう子を探すっていうのもありですね」
ドクン、ドクンとさらに嫌な感じで体中を血が巡る。
「そういう不純な動機で行くのはどうなんだ」
呆れた顔で数馬が言う言葉が、妙に遠く聞こえる。
「まあまあ、堅いこと言わないで。何なら、数馬さんも一緒に探しますか? 新しい出会い」
「馬鹿なこと言ってるんじゃない!」
「あはははは。冗談ですってばー」
「お前ひとりで探して来い。俺は知らん」
「はーい。そうします」
「というか、彼女ほしいのか?」
「そうですねえ。いたら楽しいかなって思いますけど」
すうっと心の奥底が暗くなっていくのを感じた。
(そっか。彼女ほしいんだ)
よく考えれば、それは普通のことかもしれない。竜がそんなことを思っているという考えに至らなかったことがおかしいのかもしれない。竜だって、自分と同じ年なのだ。普通、同じ年ごろの男子であるならば、彼女がほしいと思うのは当たり前なのかもしれない。
(それなのに、竜が自分の事考えてくれているなんて、それでうれしくなったりして……馬鹿みたい)
きっと、その「彼女」の対象に自分は入っていない。そうでなければ、新しい出会いなんて言い方をしない。
(もしも、竜が他の女の子と付き合うなんてことになったら……?)
その時、自分はどうするのだろう。
ぎゅうっと締め付けられる胸をごまかしたくて、優花は紅茶を一口飲んだ。熱さだけが伝わって、味がしなかった。




