胸底の言葉
「おおおおおお! そこにいるのは橘さんじゃないかああ!」
優花が体育館をのぞいてすぐだった。とんでもなく大きく響く声が広い室内のあちらこちらから反響し、耳の奥がキーンと音を立てた。
「宮瀬、声デカすぎ」
長谷部がため息交じりに言った。
「団長ですから」
苦笑いで答えたのは河井だった。優花はまだ耳の中で反響する音から抜けきれなくて、どかどかと駆け寄ってくる長ラン姿の宮瀬をぼんやりと眺めていた。
「いったいどうしたことだ? もしかして長谷部に会いにきたとか?」
距離が近づいてなお、まだ声の大きい宮瀬だった。
(会いに来たわけじゃないけど……)
むしろ今は会いたい気分ではなかったとは口が裂けても言えない。
「俺が買い出しから帰ってくる途中で偶然そこで会ったんですよ。荷物、自転車に少し乗せてくれました」
河井が状況を説明してくれた。
「それを俺も一緒に運んできた」
片手に持っていた大きなレジ袋を長谷部が得意げに見せた。その表情が子どもっぽくて、少しドキッとする。
「どうせお前はすぐそこから運んできただけだろうが」
すかさず宮瀬の突っ込みが入るが、長谷部は意に介した様子は全くない。これが普段の二人の会話なのだろう。やっぱり仲がいいなと改めて思う。
「ともかく、河井、お疲れさん。みんなでこれ分けながら休憩しよう」
河井に指示を出してから、宮瀬は他の応援部の面々に休憩の号令をかける。応援部の男子生徒たちがちらちらとこちらをうかがいながら、河井の買ってきた飲み物やら食べ物やらを分けている。その視線が居心地悪くて、思わず息をつめた。
(早いところ帰ろ……)
そう言うタイミングを計っていると。
「橘さんも一緒に食べる?」
宮瀬がくるりと振り返って優花を見た。
「い、いや。いいです。大丈夫です」
慌てて首を振りながら断った。あの中に、しかも私服の状態で入るのは相当な胆力が必要だ。
「あのむさくるしい中に橘さんを入れられるわけないだろ。危なくって」
長谷部が優花の肩を持って、宮瀬から遠ざけた。こうやってさりげなく触れられると、どうしていいかわからなくて固まってしまう。
「危ないことないだろ。みんな橘さんは『長谷部の彼女』って思ってるし」
長谷部の彼女、というワードにギクッとする。ここは学校だ。そういうことになっている場所だ。でも今はそれを認識したくなかった。
「それでもあんな感じだぞ。さっきからこっちばっかり見てさ」
「あーそうかい。他のヤツにじろじろ見られるのがいやってことか」
「いやに決まってるだろ」
「わかったわかった。じゃ、お前は橘さんを送ってこい。じゃ、ごゆっくり」
宮瀬は二人から背を向けると、片手をひらひらさせて去っていった。体育館の入り口に、長谷部と二人で残される。
「じゃ、行こうか」
長谷部がさわやかに笑った。
どういうわけか、優花は長谷部と一緒にいることになってしまったらしい。優花はため息を押し殺しながらうなずいた。
土曜日の学校は結構にぎやかだった。文化祭の準備もあって、生徒たちが結構集まっている。そのみんなはちゃんと制服を着ているので、私服の優花は浮いていた。校門までの短い道のりが、果てしなくも思えた。
「そういえば、今日はどうしたの? 花崎さんのうちに行ってたとか?」
「……そんなところです」
「あれ、なんか含みのある言い方だね。違うの?」
違うといえば違う。優花は直接百合に会ってはいないのだから。でも、百合がらみの用事であったのは事実だ。百合、というよりは、圭輔のと言ったほうが正確か。
(圭輔の話題を、先輩の前で出していいのかな)
長谷部と圭輔が幼い頃の知り合いだった事実を知ってしばらく経つが、二人からその話題が出たことはない。圭輔はあんな感じだから、自分から話そうとも思っていないのかもしれないし、長谷部は「あの話はなかったことにして、学校では普通にしていてほしい」と言っていたから、自分から話題にすることもないし優花から触れようとも思っていなかった。
(とりあえず、圭輔の告白を覗いていましたとは言えないかなあ)
「それが、いろいろ、あって……」
優花は、話題を濁すことにした。
「あんまり話せない感じ?」
「……はい」
「じゃあ、聞かないことにするよ」
長谷部は優しく微笑んだ。そのタイミングでちょうど校門の外に出た。
「さて、これからどうする?」
「え?」
「宮瀬がせっかく『ごゆっくり』と言ってくれたから、ちょっとどこか行く?」
「え? え?」
「どこかって言っても、そんな遠くには行けないしね。あ、公園でもちょっと散歩するとか」
「いや、それは!」
優花は思わず大きな声を出してしまった。
長谷部の言う公園は、あの公園のことだ。今、百合と圭輔が一緒にいて、たぶんまだ竜がそこにいて……。
「ん? なにかまずい?」
「えっと、その……」
言い淀みながら、優花は焦っていた。まずいなんてものではない。どちらにも鉢合わせるわけにいかない。竜には先に帰るって言ってしまったのに。よりによって長谷部と一緒にいるところを見られたくない。
ふむ、と長谷部はわざとらしく手を顎に当てて優花を見つめた。
「どうも、その公園に『話せない理由』になることがあるみたいだね?」
「う……」
言葉を詰まらせた優花を見て、長谷部はニヤッと笑った。
「当たりだね」
「わ、わかってて『公園』なんて言ったんですか?」
「いや? 取り急ぎ一緒にいられそうなところが公園しか思いつかなかっただけだよ。そしたら面白い反応するから、もしかしてと」
「面白いって……」
「ほめてるんだよ?」
優花の言葉を遮るようにすかさず言ってから、長谷部は楽しそうに、でもちょっと意地の悪そうな感じでにこにこと笑っている。
「じゃあ、公園はやめて、君の家の途中まで送っていこうかな。ついでに何があったかも話してもらっちゃおうか」
「聞かないって言ったじゃないですか」
「ここまで話題にしておいて、話さないのもひどいんじゃ?」
「えーそんなぁ……」
「ま、話せる範囲でいいよ。教えてね」
そう言いながら、長谷部は優花の家のほうへ向かって歩き出す。
(話さなきゃ、ダメかなあ)
少し遅れて、優花も歩き出した。すると、長谷部は肩越しに振り返ってにっこりとほほ笑んだ。その笑顔を見て、優花は逃げられないことを悟ったのだった。
「そっかあ。花崎さんと圭輔がねえ」
結局、うまい具合に尋問されて事のあらましのほとんどを話すことになってしまった。圭輔の名前を出してどんな反応をするのかとちょっとびくびくしていたのだが、長谷部は思いのほかあっさりとしていた。
「まだガキの頃の印象しかないから、なんか結びつかないな。そういう話が圭輔と」
「圭輔とは……会ってないんですか?」
思い切って聞いてみた。長谷部の反応を見ていたら、少しくらい質問しても大丈夫だと思えたのだ。
「会ってないよ。紗百合さんは、気が向いたら連絡してって連絡先はくれたけど……なかなかその気になれなくて」
「そうですか……」
圭輔たちと一緒にいたころの記憶は、幸せだった頃の思い出でもあり、辛い過去の記憶にも結び付いている。その複雑な心境は優花には量れないものだった。
「うまくいくといいね、その二人」
「そうですね……」
「あれ? あんまりうまくいってほしくなさそうな感じ?」
その言葉にびっくりした。
先ほど、竜とも似たような会話をしたばかりだった。そして、竜に素直な気持ちを話した。大丈夫だよと言われてうれしかったけど、そのあとすぐに、おかしな会話の流れになってしまって……。
その時のことがよみがえって、再び心が重くなる。
「そんなふうに見えますか?」
聞き返してみた。長谷部は探るような眼で優花を見つめている。
「んー、なんとなく。友だちとられちゃう感じで嫌とか?」
胸の中がざわっとした。まさかとは思うけれど、この後に続く言葉は。
「そんなことにはならないと思うけどさ、もし、花崎さんが圭輔のところに行っちゃってあまり遊んでくれなくなっちゃったら、俺に連絡してね。俺は一応、君の『彼氏』だし。すぐに会いに行くよ」
優花は息をのんだ。そして、竜の言葉が頭の中で繰り返される。
優花にはあの先輩がいてくれるから、大丈夫だろ。
(竜の言ったとおりだね……)
優花は束の間目を閉じてから、長谷部に向かって微笑んで見せた。
「そうですね。大丈夫ですね」
一瞬、長谷部が驚いたような表情を見せた。けれどすぐに「そうだよ」と優しく微笑んだ。
(でも本当は、本当は……)
優花は、続きの言葉を必死に胸の奥底のほうへ詰めこんで隠した。言葉にしてしまったら、いや、思ってしまったら、ただただ辛いだけだ。思わなかったことにしたほうが良い。
本当は、竜がいればそれでいい。
それを自分だけが思っていても空しいだけだ。優花は微笑みを顔に張り付けたまま、そう思った。




