春休みの過ごし方
心配していた春休みだったが、優花の思ったほど気詰まりするようなことはなかった。
土日は数馬も佳代もいるので、二人きりになることもなかったし、平日になると、竜は四月から勤める会社に行って早めの研修をしに行ったり、優花は家事の合間に高校から出された宿題をこなさなければならなかったりだったので、あっという間に初めの一週間が過ぎていった。
竜のいる生活に少しだけ慣れ始めた、春休み二週間目に入った時だった。その日、竜は会社に行く用がなかったらしく、朝からずっと家にいた。でも、優花は普段通りに過ごせた。数馬と佳代を見送ってから自分の担当場所の掃除をし、一休みの後、宿題をし始めた。先週と変わらぬことができて、優花は少しほっとしていた。
「なんだ、この問題集。高校生は大変だな」
リビングで宿題をしていると(小学生のころからの習慣で、優花は自分の部屋で宿題をしない)、後ろから竜がのぞき込んでくることはあったが、それ以上の邪魔はしてこなかった。竜は少し離れた場所で数馬の漫画を読んだり、時には小さな音でテレビを見たりして静かに過ごしていた。こうして一緒に過ごしているうちに気づいたのだが、竜は余計な場面では調子に乗らない。優花は宿題をしながら、時折竜の横顔をちらりと見る。そんなとき、竜はいつも真顔でいる。漫画を読んでいても、テレビを見ていても、笑わない。面白くないのだろうか、とも思う。いや、本当にちゃんと読んでいるのだろうか。ちゃんとテレビを見ているのだろうか。それすらもわからない。何にも考えていないようにも見える。
「なに? 俺の顔、何かついてる?」
優花の視線に気づいて、竜が振り向いた。
「べつに」
慌てて視線を宿題に移した。うっかり長い時間見つめてしまっていたらしかった。
「俺の顔に見とれていたとか?」
竜は楽しそうに言った。むっとなって視線を上げると、にやにやと笑う竜と目が合った。
「違う。そんなんじゃないから」
「またまた。正直に言ってくれていいよ」
「どうしてあんたなんかに見とれなきゃならないの」
「だって、俺、芸能界でも通用する顔だと思うんだけど」
自分の顔を指さしながら、いけしゃあしゃあと竜は答えた。優花は頭を抱えたくなった。確かに、竜は今テレビに映っているアイドルグループの男の子たちと並んでも遜色ない。しかしそれを他人が言うか自分で言ってしまうかには大きな違いがある。
「それなら、芸能界行きなさいよ。売れたらすごい稼げるじゃない」
「えー。やだよ。なんか、めんどくさそうだしさ。俺は堅実に働いて稼いだほうが向いてる」
それよりさ、と竜は真面目な顔になってじっと優花の顔を見つめた。
「優花のほうが芸能界で通用すると思うんだけどな」
「は?」
「その辺の何とかっていうアイドルグループの女の子って、可愛いっていうか……まあ普通じゃん。優花はあの中にいたら一番に目を引く顔してると思うなあ。というか、目立ちすぎるくらいだろうな。センター間違いなしって感じ。あ、むしろソロのほうがいいかも。他のメンバーがかすんじゃうだろうから」
「……もう、やめて」
優花は再び宿題に視線を落として、問題文を読み始めた。でも、頭に入ってこない。自分の顔の話題は聞きたくなかった。竜は褒めているつもりなのかもしれないが、ちっともうれしくないのだ。
「優花はさ」
しばらくの沈黙の後、竜が真面目なトーンでつぶやいた。
「自分の話をされるといやがるよね。そんなに自分のこと嫌い?」
突然、竜は核心をついてきた。思わず優花は固まってしまった。
「もったいないよ、そんなにいいもの持っているのにさ」
その言葉に、猛烈に腹が立った。何を知っていて、ずけずけとものが言えるのだろう。人の気も知らないで、どんな思いをしてきたかも知らないで。
「いいものって、なによ」
自分でも驚くほど、震えた声が出てきた。
「何にも知らないくせに……勝手なこと言わないで」
悲鳴のような声になった。優花は視線を落したまま立ち上がった。もうここには居たくなかった。竜に背を向けて、リビングを出た。そのまま階段を駆け上がり、自分の部屋に逃げ込んだ。
「ごめん、優花。言い過ぎたよ。ごめんな」
ノックの音と一緒に、竜の声がドア越しに聞こえてきた。でも、優花は耳をふさいでしゃがみこんだ。誰の声も聴きたくなかった。放っておいてほしかった。
しばらくノックが響いていたが、やがて竜はあきらめたらしい。何も聞こえなくなった。優花はその場にしゃがみこんだまま、深いため息をついた。
(なんで、こうなっちゃうかな)
聞き流せばいいものを、こうしていちいち反応してしまうのも嫌だった。普通の女の子だったら、これを喜ぶのかもしれないが、優花はどうしても素直に受け入れられなかった。この顔で、散々嫌な目に遭ってきたから。中学の時は、本当にひどかったから。
ふと、棚にある卒業アルバムが目に入った。もらったものの、一度も開いていない。クラスごとの個人写真の一覧の後にある、いろいろな行事の写真たち。その中に、優花は一つも写っていないはずだ。基本的に一人でいたので、誰かと仲良く楽しそうに写るなんてことはなかった。仮に写っていたとしても、アルバム委員の女の子たちが選ぶはずがない。特に、委員長の女の子は優花を目の敵にしていた。それは中一の時、優花が中三の先輩からの告白を断ったことが発端だった。その先輩は学校で人気のあるサッカー部のキャプテンだった。確かに、見てくれは良かったと思う。でも、優花に告白してきたとき、絶対に断られるはずがないという自慢たらしい態度をとっていた。その横柄な態度に腹が立って、その場で断った。その先輩のことを好きだった委員長の女の子はそのことを知って、腹いせに優花の悪い噂を振りまいた。悪い噂は人の口に上りやすい。優花は当時から目立っていたこともあって、根も葉もない噂はあっという間に広まってしまった。人は、その噂が真実かどうかなどどうでもいいのだ。面白いほうに飛びつき、それに尾ひれをつけて話を広めてしまう。最初のうちは、友達がかばってくれたが、しだいにその子たちもターゲットになってしまい、中二になるまでには一人、また一人と、自然と優花から離れて行ってしまった。最後まで一緒にいた友達が離れていった時の言葉が、いまだ忘れられない。
「優花といると、私はいつも引き立て役で、いいことなんてない。男子は、私のこと優花の付属品みたいにしか見てないし、女子は、優花の味方する邪魔な存在としか見てないし。かわいそうだから一緒にいてあげたけど、もう限界」
泣きそうになっていた友達に、優花はこう言い放った。
「一緒にいてあげたって、なによ。かわいそうだからって、勝手に同情して、やさしくしたんでしょ。それってただの自己満足じゃない。それなのに、結局私のせいにするの?」
友達は、かっと頬を赤くして、唇を震わせた。そして、何も言わずに優花に背を向けて走り去っていった。遠ざかる背中を、優花は突っ立ったまま見送った。
(私、あの時と同じまんまだ)
再び、優花は深いため息をついた。
つい反応してしまうのだ。一つ一つの言葉に。言い返さなければ、済む話なのに。言い返すにしても、もっと言葉の選びようがあったはずだ。それなのに、思ったままの言葉が口をついて出てきてしまう。あの時の友達にも、追い詰めるようなことを言ってしまって、あとでものすごく後悔したのだ。優花も傷つけられたが、傷つけた側にもなっていた。
優花はしばらく膝を抱えて顔を伏せていたが、思い切って上を向いて立ち上がった。このまま昔のことをあれやこれやと振り返って、くよくよするのも嫌だった。ドアノブに手をかけて、勢いよく開いた。
(竜は……謝ってきていた。だから、私も謝ればいい)
中学の時は、友達に謝る機会がなくて、そのまま卒業してしまった。せめて、同じ間違いだけは繰り返したくない。
恐る恐るリビングに入ると、こぽこぽとケトルのお湯の沸く音が聞こえてきた。がさがさと袋をいじる音したと思ったら。
「ああっ!」
竜の叫び声とともに、何かをぶちまけた音が響いた。
「なに!?」
慌てて優花が飛び込んでいくと、竜の足元に紅茶のティーバッグが散乱していた。どう落としたのか知らないが、全種類のティーバッグが箱から飛び出している。
「ごめん、お茶ぐらい、いれられるかなと思ったんだけど」
気まずそうに竜は頭をかいた。
「どうも俺はこういうことに向いていないな」
ものすごく落ち込んだ様子で竜が肩を落とした。眉がハの字になって、叱られた犬のように見える。
「まあ、ティーバッグなら拾うだけだし……」
竜の様子に怒るに怒れなくて、優花はとりあえずティーバッグを拾って箱に片づけ始めた。竜も神妙な顔をして一緒に拾い始める。二人は、黙々と片づけを進めていき、すぐに元通りになった。でも竜はまだしょんぼりしているように見えた。
「お茶が飲みたいなら、いれるけど、何がいい?」
優花はマグカップを用意しようとした。そのとき、すでにマグカップがテーブルの上に置かれているのに気付いた。竜のと、優花のと、二つ。
「いや……。俺じゃなくて、優花に差し入れようかなと思ってたんだけどさ。ついでに俺も飲むかなあと思ってたらこのざまだ」
「差し入れ……?」
「だから、ごめん、と思って」
優花は一瞬きょとんとなった。そして、理解した。思わず、竜と、マグカップを二度見した。
「ごめんな、優花。嫌な気分にさせて。そんなに嫌がると思わなかったんだ。でも俺、もう言わないから。約束する」
竜は真っすぐに優花の顔を見つめて謝った。あまりにもストレートな言葉に、優花はかえって困惑してしまった。自分が謝ろうと思っていたのに、先を越されてしまったのだ。その場合、自分はどうしたらいいのだろう。
「……私も、ごめんなさい。変に、怒ったりして……」
さすがに、目を見ては言えなかった。ティーバッグを二つ取り出して、マグカップに入れながら小声でつぶやいた。
「お茶は、私がいれてあげる」
ケトルから、竜のマグカップにお湯を注ぎ入れた。お茶の色が、じんわりと広がっていくと、湯気の中から香りが開いた。少しずつ、気持ちがほぐれていくのを感じた。
「それなら、一緒に飲もう」
竜は白い歯を見せてにかっと笑うと、優花のマグカップにお湯を注いだ。また、新しい香りが広がったのを感じて、優花は自然と口元に笑みを浮かべた。
「あ、笑った」
竜が声を弾ませた。
「初めて、笑ったところ見た」
「あ……」
慌てて優花は口元に手をやったが、遅かった。竜はますます笑みを深くして優花の顔を覗き込んだ。
「やっぱりね。笑ってるほうがいいよ、優花は」
「だから、そういうこと言わないでよ」
「はいはい。ごめんなさい」
二人は向かい合って座り、熱いお茶をゆっくり飲んだ。特に会話はなかったが、気まずくない。不思議と、落ち着いた気分になれた。
(ちゃんと、ごめんなさいが言えたから、かな)
ちょっとしたことだけれど、大きな一歩のようにも思えた。優花はすっきりした気分で、また宿題に取り掛かった。竜はまた邪魔にならぬよう、離れたところで漫画を読み始めた。こうして、二人の春休みは過ぎていった。