後ろめたさの表側
火曜日のお昼過ぎ。今日は学校の先生たちが、教育ナントカ研修会(優花たちはよくわかっていない)というものに参加するため、学生たちは午前の授業だけで解放されていた。でも、学生は基本忙しい。午後になれば、大会を控えた運動部員たちは練習に勤しむし、文化祭開催も間近なので、文化部などはその準備に追われている人もいる。
優花は、そのどちらでもない。部活には相変わらず入っていないし、ポスターが完成した今、文化祭の準備ですることはほとんどない。中間テストも終わって、佳代の体調も良くなって、ぽっかり空いた時間になった。なったはずだった。
「テスト、全部返ってきた?」
優花の隣には長谷部がいた。ニコニコと微笑みながら、長谷部はポテトをつまんでいる。二人は、駅前のファストフード店に来ていた。長谷部に誘われたが、断る理由もなく、百合と宮瀬の強力な後押しもあって、優花はここにいる。
「今日、全部そろいました。先輩は?」
「俺も。結果はまあまあだったかな。橘さんは?」
「思ったよりは大丈夫でした」
一学期の時よりは確かに少し落ちたけれど、気になる程ではなかったので、安心していたところだ。
「何が一番良かった?」
「英語でした」
「橘さん、英語が得意だったんだ?」
「いや、そういうわけではないんですけど、たまたま……」
結果的にそうなったのだ。
あの日から昨日の夜まで、竜と一緒にリビングで勉強するのがいつの間にか習慣になっていた。竜は英語の教科書の本文をノート(後日竜が自分で買ってきた)に写してひたすら和訳している。竜いわく。
「先生が言うには、英語は単語と構文が重要だって。文法も大事だけど、文の組み立てさえわかってればあとは単語量次第なんだってさ」
受験しないのなら、細かいことにこだわらず英語が読めるようになればいいというスタンスだったのかもしれない。確かに、そのほうが知識としては身につくし、実用性もあるような気がする。
それでも、文が長くなってくるとある程度の文法力は必要になる。竜が和訳に行き詰まるとそのたびに優花が教えてあげた。優花は他の教科を勉強している最中だったりしたけれど、それがかえって一学期の復習にもなり、結果、英語の点数に結びついてしまったようだ。
(自分で言うのもなんだけど、あまりに単純でしょう、私)
テストが終わった今も、優花が予習をしている横で竜がノートを広げている。普段から一緒の空間にいるけれど、一緒に何かをやるということはあまりない。一、二時間程度の時間だけれど、最近はその状況に慣れてきて、実は密かにこの時間が楽しみになってきている。
「ねえ、橘さん。テストも終わったから、どこか遊びに行かない?」
「え……」
思わず、言葉に詰まった。長谷部の表情をうかがう。ちょっと微笑んで、優花の返事を待っている。その瞳を探ったが、その奥はうまく読み取れない。それがかえって不安になった。
(今こんな気持ちで、先輩とどこかに行くなんて、できる?)
正直なところ、今だって心の奥がひどく重い。こうして長谷部が隣にいることが嫌なわけではないけれど、彼から向けられている気持ちに今の自分は応えられない。応えられないのに隣にいる自分は、いったい何がしたいのだろう。このままでいいとは、思えない。
「その、あまり今お小遣いなくて……」
咄嗟に出てきた言葉はこれだった。
「どこかに遊びに行くのは、ちょっと難しいかなって……」
苦しい言い訳に聞えただろうか。不安にドキドキしながら長谷部の言葉を待った。
「そっか。それならしょうがないか」
思いのほかあっさりとした返事で、少し拍子抜けした。
(気にしすぎなのかもしれない……)
普通だったらなんでもない一言や行動が言い訳がましく感じてしまう。もっとスマートに対応できたらいいのに、と思う。
「そうだ。じゃあ、文化祭を一緒に見て回ろうか」
「文化祭?」
うん、とうなずいて、長谷部は微笑んだ。
「それなら、お金かからないし。特に、後夜祭が盛り上がるよ」
「後夜祭なんかあるんですか?」
「あれ? 聞いてない?」
長谷部いわく、二日目の文化祭のあと、夕方から体育館で後夜祭が行われる。昼間にも体育館の舞台で軽音部やダンス部などの発表は行われるけれど、それは結構真面目なものであって、正統派なものだという。しかし、後夜祭は違う。むしろこちらのほうが本番といった雰囲気になる。
「強制参加じゃないから、文化祭が終われば帰っちゃう生徒も多いし、あまり告知もしないから知らない子もいるかもね。でも、せっかくだから参加しよう。最後、花火あがるよ。もちろん、そこまで大きいものじゃないけど、業者に発注するんだって」
「花火って……結構力入れてるんですね」
優花たちの高校は行事には力を入れるので、盛り上がるだろうことは大体想像がついていたけれど、そこまでやるのは知らなかった。
「大きいイベントだと、これが高校生活最後のイベントかな。だから、文化祭も後夜祭も一緒に回ろ?」
ダメ押しのように長谷部の笑みが深くなって、優花は思わずドキッとしてしまった。その裏側で複雑な思いが駆け巡る。
長谷部と文化祭を一緒に見て回る。周りの雰囲気から、優花と長谷部は付き合いだしたのだということが公然と広まっているのは察していた。文化祭でも一緒にいれば、それはきっと決定打になるのだろう。
「楽しそうですね」
「うん。今年は橘さんもいるからもっと楽しいだろうな」
あまりに明け透けなセリフに、思わず戸惑った。そんな優花を見て長谷部は微笑み、コーラを飲む。優花もアイスティーに口をつける。
そうだ。話を聴けば、楽しそうではないか。もっと気楽に、深く考えずに、初めての文化祭を楽しめればいいのだ。
そう言い聞かせながら飲むアイスティーは、あまり味がしなかった。
今朝もまた長谷部は校門前で待っていて、一緒に昇降口まで話しながら歩いた。短い距離だけれど、心はずんと重みを増す。重いのに、自分は案外普通に装えてしまっている。そんな自分がますます嫌になっていった。
(こんな気持ちを、どう整理したらいいのだろう)
思い切って、百合に聞いてもらおうかとも思った。解決しなくても、話したら何か糸口くらいは見つかるかもしれない。今回のことは、佳代には相談できなかった。竜は佳代の身内で、同じ家に住んでいる。気まずすぎて、とてもではないが話せない。
(でも、百合に話すにしても、どうやって話せばいいものなの?)
振り返ってみても、優花はこんな自分の相談を誰かにしたことがない。ましてや、恋の話なんて。どう切り出せばいいのかもわからない。
結局、どうしたらいいのかわからないまま教室の前まで来てしまった。
(もう少し、整理してみてから話してみようかな……)
ドアに手をかけて、教室に入る。自分の席に向かおうと、一歩足を出した時だった。
「優花……っ」
突然、あいさつもせずに百合が優花に向かって駆けてきたのだ。百合のあまりに思いつめた表情に、優花はびっくりして思わず目を丸くする。
「えっと……どうしたの?」
「あのね、聞いてほしいことがあってね。今日の放課後、時間ある? 先輩と約束とかしてる?」
優花の言葉にかぶせるように問いかけてくる。いったいどうしたというのか。戸惑いを隠せないまま、優花はぎこちなくうなずいた。
「特に何もしてないけど……?」
「そっか。よかった」
ほっとした表情のあと、百合は「あ」と何かに気づいたように声をあげた。
「ごめん、おはようって言ってなかった。おはよう」
一転して、百合はふわっとした笑顔になった。戸惑いつつ、優花もあいさつを返したが、なんだか調子が狂う感じだった。
(わざわざ放課後に時間をとってほしいなんて、なんだろう?)
疑問だったけれど、百合が「放課後に」と言う以上、今聞くわけにもいかなかった。百合はそのあと何事もなかったかのように過ごしていた。いつも通りにおしゃべりして、いつも通りにお昼ご飯も一緒に食べた。優花もいつも通りにしていたけれど、頭の中にはずっと疑問符が引っ掛かっていた。
そのまま、放課後になった。その時も百合は普段通りで「一緒に帰ろう」と誘ってきた。
(何だろう、ホントに)
不安のような、ちょっとだけわくわくするような、不思議な心地で優花は百合のあとに続いて歩くのだった。




