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動揺の裏側

 家の扉を開けると、赤ん坊の泣き声が響いていた。そのままリビングに向かうと、泣いている愛実を抱っこしてあやして立ってる佳代がいた。佳代の顔は心なしか赤く、目が潤んでいるように見える。また熱が上がってるのかもしれない。

「お姉ちゃん、休んでて。私が寝かせておくから」

 優花は急いで手を洗って、佳代から愛実を受け取る。赤ん坊の体がずっしりと腕に乗っかってくる。生まれたころの華奢な感じがなくなり、ふっくらとしてきた愛実は、やはり以前より泣き方が強くなっていた。

「でも、着替えてきたほうがいいんじゃなの?」

 佳代に言われたが、優花は気に留めなかった。

「大丈夫だよ。寝たら着替えるから。お姉ちゃんはとにかく休んで」

「……じゃ、少しだけいいかな」

「いいから早くベッドに行ってて」

「おっぱいはもう飲んだの。だから、もう眠るかなと思うんだけど」

「大丈夫だってば」

 半ば追い立てるようにして、佳代を寝室へと促す。その足取りはどこかおぼつかない。佳代が寝室のドアを閉めたのを確認して、優花は泣く愛実を抱っこしながらリビングを歩きまわった。

(もうちょっとで眠りそうなんだけどなあ)

 少し泣き声が収まってきたかと油断すると、また泣き出す。しばらくは眠ってくれなさそうなので、あきらめてリビングを出て廊下を歩いたり、階段を上り下りしたりした。そうこうしているうちに、三十分以上は過ぎただろうか。愛実の泣き声はいつしか寝息に代わっていった。

(でも、ここでベッドに寝かせたら、また泣くんだよねえ)

 赤ん坊の背中にある不思議なスイッチと優花は呼んでいる。だから、眠ったと思ってもまだしばらくは抱き続けていないと危ない。

 気づけば、外は暗くなってきていた。夕食の準備を全くしていないが、この状態でできるはずがない。もう少し首が座ってくれば、抱っこひもを使いながら料理もできるかもしれないが、それはそれで大変そうだと考える。肩に赤ん坊の重みをずっしりと感じながら火を使って料理するのは普段の何十倍も気を遣いそうだ。世間一般では、母親はさらに洗濯やら掃除やらを並行してやる。それは一日だけでなくて、毎日続く。そのループを想像するだけで、いっぱいいっぱいな気持ちになってきてしまった。

(そりゃ、世の中のお母さんが大変なわけだよねえ)

 高校一年生にしてそれを実感する。赤ん坊を抱えているのに誰も協力してくれる人がいなかったら、鬱にもなるのかもしれないと思った。

 そこに、玄関の扉が静かに開く音がした。時計を見れば、すでに一時間は愛実を抱っこし続けていた。

(竜が帰ってきたのかも。竜が……)

 優花はしばらく考えた。そして。

(……って、ど、どうしよう? どうしよう⁉)

 さっき気づいてしまった自分の気持ちを、まだうまく処理できていなかった。気づいてしまったはいいものの、そのあと竜と会ったときどうすべきかなんて考えていなかった。

(えっと……普通に、普通に接しなきゃ! 変な態度、とらないように!)

 密かに意気込んだところで、リビングのドアが開いた。予想に違わず、竜がそこにいた。

「愛実、寝てる?」

 ひそひそ声で竜が言う。

(やばい、なんか、どうしよう。変にドキドキするし)

 動揺を悟られないように、優花は愛実をあやしながら歩き回る振りをして、竜から目を逸らしながらうなずいた。

「やっと寝た」

「そっか」

 と、竜が優花のほうへ近づいてきた。そしてそのまま愛実の寝顔をのぞき込む。

(近い! 近いってば)

 下手すれば息がかかるくらいの距離で、竜は愛実を見ながらにこにこする。

「子どもの寝顔って見てて飽きないよなあ。なんでだろうな」

「そ……そうだね……」

 いつもの会話だ。竜は愛実が眠っているのを見るたびに同じことを言う。そして優花はただ「そうだね」とうなずく。いつも通りのはずだ。なのに、いつも通りにできている気がしないのだ。

「俺、着替えてくるから。そしたら優花も着替えて来いよ。あとは俺が愛実を見てるから」

「うん、お願い……」

 優花がうなずくと、不意に竜が顔をあげて優花を見つめた。そして、にっと白い歯を見せて笑った。どきどきと鳴っていた心臓がより一層早く動き出す。

 また静かにリビングを出ていく竜の背中を見送ってから、優花は思わず力が抜けてソファーに座り込んでしまった。全身のエネルギーを心臓に持っていかれている感じだ。

(どうするの……こんなんで一緒に生活していけるの?)

 数馬や佳代がいるときはまだいいけれど、二人きりの時だって結構あるというのに。そんなとき、今まで通り接することができるだろうか。というよりも、今まで通りとはどんな感じだっただろうか。それすら今はわからない。

(とにかく、夕食の支度しながら考えよう……)

 愛実の頭をそうっと撫でてみた。やわらかい髪の毛が指先に触れると、ほっとした気持ちになる。愛実に癒されながら、今後の対処を考える優花なのだった。



 竜が愛実を見ている間に優花は夕食の用意を急いで行った。夕食の準備が整う頃には数馬も帰ってきた。みんないつもより帰りが心なしか早いのは、それだけ佳代のことが心配だからだ。

 数馬が佳代の様子を見に行ったら、よく眠っていたらしい。このままよく休んでもらって、早く治ってもらえればいいと話しながら、三人で夕食を食べた。だが……。

(あまり意識したことなかったけど、竜はいつも私の隣で食べてるんだった)

 数馬と佳代が横並びで座るので、結果として優花の隣はいつも竜だった。いつもそういうものだったから、席順に関して何か考えたことはなかったし、特別な感情もなかった。

(でも、案外近かったんだ……)

 触れるほどの距離でもないけれど、学校の隣の席より近い。当たり前だけれど、同じテーブルを共有しているというのも余計に近さを感じる。

「優花」

 隣から声がかかって、びくっと体が跳ねた。

「なんだよ、食欲ないのか?」

「え」

「あんまり箸が進んでない感じがするけど」

「そ、そうかな」

 気づけば、茶碗のご飯も味噌汁もあまり減っていなかった。

「もしかして佳代の風邪がうつったのか? 大丈夫か?」

 前に座る数馬の表情が気づかわしげになった。

「大丈夫だよ。元気だから」

 慌てて目の前の味噌汁を飲んで見せた。

(食欲があるとは言えないかも。食べたい気持ちが起こらない)

 味はいつも通りで問題ないけれど、うまく食べるほうへ意識が回っていかない。隣の竜のことが気になって仕方がない。

(変な態度とらないようにって思ってるのに、難しい)

 ともかく、目の前の夕食をどうにか食べなければならない。できる限り、普段通りに。意識しすぎで、何が普段通りかわからなくなってきたころ、夕食は終わった。

(今は、テスト勉強しよ……)

 変な気を遣いすぎているのか、なんだかぐったりした気分だった。でも、勉強しなければならない。優花はリビングのテーブルに英語の参考書とノートを広げた。百合たちが作ってくれたノートも出した。

 しばらく問題を解いているうちに、少し気持ちが落ち着いてきた。こうして集中している何かがあれば、気がまぎれるのかもしれない。少しだけこの気持ちへの対処法がわかった気がする。そう思っていたのに。

「優花はなんで自分の部屋で勉強しないんだよ」

 目の前に竜が座った。ドキンっと心臓が跳ね上がった。それを合図に、全身の血管がいやに速く脈打ち始める。

「小学生の時から、ここでやるのが普通なんだもん」

 どうにか答えた。声は震えていなかった、と思う。

「テレビの音とか、俺が食器洗ってる音とか、気になんない?」

「ならないよ。静かすぎるほうが、いやだなっていうか……」

「そういうもんなのかなあ」

 不思議そうに首をかしげながら、竜は優花が広げていた参考書を手に取ってぱらぱらとめくり始めた。

「ホントだ。高1英語は中学英語に毛が生えたくらいだ」

「え?」

 急な話題の変わり方についていけず、ぽかんとしてしまう。

「中三の時の英語の先生が言ってたんだよ。中三の時って言っても、二学期に転校したから最初の方の先生なんだけどさ」

 参考書を優花に返しながら竜はぽつぽつと話す。

「いろんな中学に行ったけど、その先生だけが俺に対する対応が違ったな。他の先生は、何となく俺と関わらないようにしてたっていうか、触らぬ神に祟りなしっていうか、そういう感じでさ」

 特殊な状況の生徒に関わるとろくなことがないとでも思われていたのだろうか。また孤独だったころの竜の一面が垣間見えて、優花の胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

「その英語の先生が言ってたんだ。高校一年生の英語は、中学の英語に毛が生えたもんだって。中学の英語をちゃんとやっておけば、あとは単語をしっかり覚えれば高校行っても大丈夫だって。でも、俺は高校行くっていう選択肢があると思ってなかったから、聞き流してた。なのに、しつこくてさあ。俺の英語のテストで平均点以下をとるのは許さんとか何とか言って、放課後俺だけ残して特別授業を受けさせられた」

「そんなに成績悪かったの?」

「どうせ高校行かないから勉強やっても無意味だって思ってたんだよ。その先生にもそう言ったんだけど」

 そこで竜が言葉を切った。少し遠くを見つめるような眼差しをして、ふっと笑った。

「この先の人生、勉強ができなくて困ることはあっても勉強ができすぎて困ることは一切ない。英語を使う使わないじゃなくて、知ってるだけで価値があるんだ……って言い切られた」

「ふーん……?」

 意味がわかるようなわからないような。優花はあいまいな相槌を返す。

「だよな。理解できるような気もするけど、よくわからないよなあ」

 優花が考えていたように竜が言って、少しびっくりした。同じことを思っていたと知って、妙にうれしい。

「俺もそんな反応だったから、先生がまた言ったんだ。俺が言ったことは大人になったあとで理解すればいいから、今はとにかく英語やれって。そのあと恐ろしく英語を叩き込まれたよ。おかげで、英語だけは何とか平均点取れるようになった。そのあと転校してからも、英語だけはマシだったな」

 竜があまり話したがらない過去の話だ。あえて聞こうとも思っていないけれど、こうして何かのきっかけで聞けると、不謹慎かもしれないが嬉しいと思う。竜のことを少しでも知れて、よかったと思う。

「じゃ、これから私と一緒に英語の勉強する?」

 え? と、竜がきょとんとした顔をした。数拍おいて、優花はハッと気づいた。

(私、何言っちゃってるの⁉)

 一瞬のうちに、かあっと全身が熱くなっていった。

(今、こうして少し一緒にいるだけでも動揺してるのに、一緒に勉強とかって、何をこの口は……!)

「あー……えっと……」

 言ってしまった言葉のフォローを入れようと思ったが、どうつないでいいかわからない。以前までの自分だったら、こんな発言をしただろうか。したとして、どう対応するのだろう。もう、自分でもわけがわからない。

「そうだなあ。また勉強してみるのも面白いかな」

「え……」

 思わぬ言葉が返ってきて、しばし呆然となる。そんな優花に気づきもしないで、竜は無邪気に右手を出した。

「じゃ、英語の教科書貸して。どんなもんか読んでみる」

「あ、はい、どうぞ……」

 その右手に、ぼんやりしたまま教科書を渡す。竜はパラっと最初の方のページを開いて、顔をしかめた。

「うえ。知らない単語ばっかじゃん。優花、辞書ない?」

「え、辞書? 部屋だけど……」

 わからない単語は、とりあえず教科書か参考書の索引を使うので、辞書は一応あるがほとんど使わない。代わりに電子辞書が欲しいと思っているところだ。

「あ、そうだ。俺の部屋の本棚にあった気がする。たぶん数馬さんが使ってたやつ。ちょっと取ってくる」

 言うが早いか、竜はいそいそとリビングから出て行った。優花はその背中を黙って見送ってしまった。

(なんか……勉強一緒にすることになったらしい。どうしよう)

 どきどきしている胸に手を当てて考える。そこで、妙にうれしくなっている自分の気持ちに気づく。

(一緒にいると動揺はしちゃうけど、でも……一緒にいるとうれしい、みたい)

 そんなことに気づいてますます動揺するも、その心の裏では竜が戻ってくるのを待っている。優花の頭も心もいっぱいいっぱいで、これから英語の勉強ができる気が全くしないのだった。

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