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不意の目覚め

 自転車のパンクをさせられてから、優花自身に何か起こってはいなかった。これが長谷部と一緒にいるようになった効果なのかどうかはわからない。けれども、ひそひそと話されている気配は一層増したように感じている。陰で、だけではない。優花にわざと聞こえるように話しているような場合もある。更衣室の中、女子トイレの中は露骨だった。

 これは、確かに長谷部と一緒にいるようになった効果・・なのだと思った。言われるだけなら、気にしないように努めて過ごせばいい。言い返したいのをぐっとこらえて、振り向きもせず、平静を装う日々が続いた。

「優花。今日も早く帰る?」

 テスト一週間前の火曜日のこと。朝、教室に来てから百合が話しかけてきた。

「うん。まだ、お姉ちゃんの調子が良くならなくて」

 先週から佳代の体調は改善されなかった。週末にはできる限り休んでもらおうと頑張ったのだが、ここ最近の愛実が哺乳瓶を受け付けなくなってしまい、授乳だけはどうしても佳代が行わねばならなかった。泣き出した時も、数馬と優花、そして竜と一緒にあやしてがんばってみるのだけれど、これがうまくいかない。泣き声が聞こえると、佳代も気になって仕方ないのだろう。結局起きだして、一緒にあやしてしまい、思ったように休んでもらえなかったのだった。

「そっかあ……心配だね」

「病院は行ったんだけど、ただの風邪らしいんだよね。かといって、母乳だから薬もそんな飲めないし。ちゃんと休んでもらえればすぐ直るんだろうけど」

「お母さんはなかなか休めないんだねえ」

「そうなんだよね……」

 今日も本当は「テスト勉強してきてかまわない」と佳代に言われている。けれども、こんなときだからこそ、一緒に住んでいる人ができることをしてあげなければいけないと思うのだ。数馬も竜も働いていて、思うように早く帰ってこられることが少ないが、学生の優花は一番時間の融通が利く。勉強は、効率は落ちるかもしれないが、自分一人でもできる。ここで少し成績を落としても、期末で挽回するチャンスがあるのだ。

「あのね、優花。役に立つかどうかわかんないんだけど」

 そう言いながら、百合は一冊のノートを優花に差し出した。

「高山くんと河井くんと勉強してるときに作ったの。今回のテストの要点をまとめたノート。たぶん、今日も優花は来られないんじゃないかって話して……」

 ぺらぺらとめくってみると、それぞれの字でそれぞれの得意分野に関してのポイントがまとめられていた。字は性格が出るというが、まさにそうだと思った。高山の字は、小さいけれど字の一画一画が丁寧だ。河井の字は筆圧が強くて、罫線いっぱいの大きな字。百合のは少し丸くてかわいらしい。みんながみんな、ポイントを詳しく解説している。それぞれの字から、優しさを感じて胸がいっぱいになった。

「これ、大変だったでしょう? こんなにいっぱい書くの」

「ううん。そんなことないよ。自分でまとめて書くから、かえって自分の勉強にもなったし。わかんないことあったらいつでも聞いて。優花も、時間があるときでいいから世界史教えて」

「わかった。本当にありがとう」

 優花はギュッとノートを自分の方に引き寄せた。自分のためにと考えて作ってくれたこのノートが純粋にうれしかった。そのために時間を割いてくれたことに、たくさん感謝したかった。この気持ちを、ただ「ありがとう」だけに詰めるのはもったいない気がした。でもそれ以外の言葉を優花は知らない。だから、精いっぱいの笑顔を返した。百合は何も言わないで、ただ微笑んでうなずいた。



 放課後、優花は荷物をまとめると百合たちと軽く話をしてからすぐに教室を出た。靴箱で靴を履き替えていると。

「橘さん」

 突然、声をかけられた。顔を上げて、優花は思わず息をのんだ。

「えっと……飯田さん?」

 そこにいたのは、以前長谷部のことで優花に詰め寄ってきた女生徒だった。思いつめたような眼差しで、優花のことを見つめている。

「はい。六組の、飯田桃子いいだももこです。ちゃんと名乗ったことなかったですね」

 確かに、自己紹介をされた記憶はなかった。彼女の名前は、新菜が呼んでいたという記憶から探り出したものだった。

「今、少しだけいいですか?」

 緊張したようなぎこちない動きで優花に近づいてくる。優花は引き下がりたいのをこらえて、彼女を見返した。優花は、彼女が自転車をパンクさせたのではないかと疑っている。何の証拠もないけれども。

「すぐ帰らなきゃだから、あまり時間かからなければ」

 そう返すと、彼女は「わかりました」と言って、優花を中庭の隅の方へと誘った。そこは、以前桃子や夏葉たちが優花を糾弾してきた場所だった。でも、今は優花と桃子以外の人はいなかった。

「もう一回同じことを聞きますが、橘さんは長谷部先輩と付き合ってるんですか?」

 何の前置きもなく、彼女は唐突に言った。

(この話題かなとは思ってたけど……)

 ダイレクトに聞かれたのはこれが初めてだった。優花としては付き合っている「振り」だけれど(振りだと知っているのは、竜と宮瀬以外には百合と高山と河井だけだ)、ここでは本当のことにしておかなければならない。優花は無言でうなずいた。

「そう、なんですか」

 ショックを受けたような様子で、桃子の声がしぼんでいった。その表情を見ていたら、本当のことを言いたくなってきてしまった。こんな嘘で、彼女を傷つけてしまっているのだ。でも言ってはいけない。目の前の彼女が犯人かもしれない。いや、別かもしれない。どちらにせよ、すでに始めてしまったことを覆すような真似をするのは得策ではなかった。

「この間は、付き合う気なんかないような感じだったのに、なんで? やっぱり、体育祭での借り者競争があったから? あれ、やっぱり噂のカードだったっていうことなの?」

 桃子の言うことはあながち間違っていなかった。桃子でなくとも、誰が見ても体育祭がきっかけだと思えるだろう。これに対しても、優花はただ黙ってうなずいた。

「なんで、橘さんなの? だって、橘さんには他にも付き合ってる人いるって噂じゃない」

 また噂か。優花は思わずため息をついてしまった。相変わらず、根も葉もない噂は広まっているらしい。

「それが本当って、誰が言ったの?」

 口調も知らず知らずとげとげしくなってしまった。桃子はぐっと言葉を詰まらせた。が、すぐに持ち直したようにこぶしに力を込めた。

「この間、夏葉なつはが見たって。男の子と橘さんが歩いているの」

 商店街で、竜と一緒にいるところに、クラスメイトの遠野夏葉と偶然会ってしまった時の事だろう。確かに、疑いの目で見られてはいたようだけれども。

「親戚だって、遠野さんには言ったはずなんだけど」

「そんなふうには見えなかったって」

 すかさず桃子が返してきたので、優花は再びため息をついてしまった。やはり、夏葉は信じていなかったようだ。

「そんなふうに見えなくても、親戚は親戚だから、これ以上どうしようもないよ」

「どういう親戚なの」

「どういうって言われても……」

 普通に説明してしまえば、竜は他人である。いろいろな事情が絡んだ結果、橘家に来た。でも、それを彼女に説明する義理はあるだろうか。それに、一緒に住んでいるなんて知られたら、それこそ何を勘繰られてしまうかわからない。

「いいよ、桃子。一人で対峙しなくても」

 優花が何を言うか迷っている時だった。声をしたほうを振り向くと、遠野夏葉と他二人の女子がつかつかと歩み寄ってくるところだった。

(あー、結局前と同じ)

 一対一であれば、まだマシだと思っていたのに。優花は再び数人の女子に囲まれる格好になってしまった。

「無理しないでいいよ、桃子。一人でがんばったね」

 夏葉のかけた言葉に、桃子が涙目でうなずく。

(何なの、その友情……)

 かけた言葉だけ聞けば、素敵な友情なのだと思う。でも、やっていることが素敵かどうかは疑問である。本当の友情ならば、こんなことを結託してやるだろうか。

(百合だったら……)

 頭の隅で考えてみた。でも、全く想像できなかった。もし、優花が彼女たちのようなことをしていたら、諫めてくれるような気がした。百合は常々「何があっても優花の味方だからね」と言ってくれるけれど、こういう種類の「味方」ではないと思った。

「あの後で思い出したんだけど」

 夏葉がきりっと優花をにらみながら言う。

「あの時一緒にいた男子って、一学期のテストのとき迎えに来てた人じゃない? あの、作業着の」

 一学期の中間、期末考査前、学校で遅くまで勉強する優花を心配して数馬が迎えに寄越したのが竜だった。校門前で待っていた竜を目撃した人は多かったと思うから、その中に夏葉がいても不思議ではなかった。それに、作業着姿だったから、竜が余計に目立っていたことも確かだ。

「そうだよ。でも、遠野さんたちが考えているような関係じゃない」

 きっぱりと言ってみたけれど、彼女たちが信じた様子は少しも感じられない。何をどう言ったところで信じてもらえるとは思わなかった。彼女たちの中にはすでに根拠のない答えがあるのだ。優花と竜は付き合っていて、そのうえ長谷部とも付き合っていると。

(だったら、竜と付き合ってることにしたほうが良かったのかな)

 不意にそんな考えが優花の中に生まれた。それと同時に。

(でも、竜と付き合ってる振りなんて、いやだな)

 そんな思いも沸いてきた。

(振りじゃなくて……)

 そこまで考えが至って、突然、心臓がずんと重く大きく音を立てた。

(振り、じゃ、なくて……?)

 何ならいいというのか。振りでないなら、振りではないならば。いったい、どうしたいというのか。

 走馬灯のように、竜と出会ってからの今までが優花の脳裏を駆けていく。

 すると、体の内側から小さな震えが起こった。それは電気のように体中を駆け巡り、あっという間に指先に到達した。震える手を抑えようと、思わずスカートのすそを握った。同時に、目頭が熱くなっていく。瞼が、震える。胸が詰まって、息が思うようにできない。

(私……私は)

 そして突然理解した。今までわからなかった、この感情の正体を。

(私、竜が……)

 その時だった。

「いた。優花」

 その声に、その場にいた全員が振り返る。慌てた様子で駆けてくる、長谷部だった。

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