振りの始まり
付き合っていることにする。そうなってしまってから一週間。変化したことがいくつかあった。
それは、朝の風景から始まる。
「俺と一緒にいると、また変な誤解されるかもしれないだろ」
優花の高校と竜の職場はほど近いところにあるため、いつも途中まで二人で一緒に行っていた。でも、あの日を境に、竜が先に行ってしまうようになった。玄関を出るところまでは一緒にいるのだが、竜だけ自転車にまたがってさっさと行ってしまう。その背中をいくらか見送ったタイミングで優花が出る。
(確かに、そうなんだけど。そうなんだけど……)
長谷部以外の男の人と朝から一緒にいれば、それを高校の近くで見られてしまえば、変に勘繰られるに違いないだろう。以前、商店街で竜と一緒にいるところを夏葉に見られたときも「彼氏?」と誤解された。無用なことは避けたほうがいいのはわかっている。わかっているけれど、優花の心はどこか寂しさを覚えてしまう。
そんな気分のまま一人で自転車を走らせて、校門前に着く。登校中の生徒が学校に吸い込まれていく流れの中で、一人立ち止まっている、背の高い人がいる。その人が優花に気づくと、さわやかな笑顔で手を挙げた。
変化したことのもう一つに、校門前で待つ長谷部の姿があった。
「せっかくなら、朝から一緒にいるところを見せたほうがいいかなって。待ち合わせてる感じがいいよね」
楽しそうに長谷部が提案してきたとき、優花はほとんど自棄になって「好きにしてください」と応えた。そして大概、長谷部の方が先に来ているので、彼の出迎えを受けることになった。
「おはよう、優花」
長谷部は名前を呼んで近づいてきた。これもまた変化の一つだ。
「付き合ってるのに『橘さん』じゃおかしいから、学校では名前で呼んでいい?」
これに対しても「好きにしてください」と応えた。そこまでこだわらなくても、と思う反面、「付き合っている」ことにした以上、不自然だと思われることは避けたほうがいいということは理解できたのだ。
「おはようございます、先輩」
対して、優花からの呼び方は変えなかった。ここは変えなくても不自然ではない。それは二人の間で一致した意見だった。
「今日の帰りは何時くらいになる?」
二人で校門を通り過ぎながら、何気ない会話を続けていく。
「今日は学校終わったらすぐ帰ります」
「あれ? テスト勉強会やっていかないの?」
二学期の中間考査間近のこの時期。一学期の時に恒例となっていた、百合たちとのテスト勉強会を今週の月曜日から始めていた。しかし。
「義姉が、体調崩しちゃって。今日は私が夕飯作ろうと思ってるんです」
季節の変わり目のせいなのか、ここにきて子育ての疲れが出てきたのか、佳代の体調がよくなかった。一応、今日の昼間は佳代の母親が来てくれて、愛実の面倒などを看てくれることにはなっていたが、夜までいることはできないという。起き上がれなくもないので、勉強してきて構わないと佳代は言ってくれたが、そんなことができるはずがなかった。
「そっか。心配だね」
「本当は、今日学校休もうかと思ったんですけど、さすがにそれは止められました」
「そりゃそうだよ。そこまでさせられないって普通は考えるから」
少し苦笑しながら長谷部が答える。
「俺に手伝えることがあったら言ってね。勉強なら役に立てるから」
「ありがとうございます」
こんな関係になってから、長谷部は文系でもなく理系でもなく、オールマイティに勉強をこなせることを知った。なんでもそつなくこなしそうだとは思っていたけれど、思っていた以上だったのだ。一年生のテスト勉強会の終わり際に顔を出したとき(優花を迎えに来たのだ。一緒に下校できるときは一緒に。これも変化の一つ)、四人で行き詰っていた問題をあっさり教えてくれたのだ。しかも、教え方が上手だった。それが数日連続で続いたので、さすがにみんな感心してしまったのだ。
「先輩って、教えるの上手ですよね」
素直に感想を言うと、意外そうな顔をして長谷部は振り返った。
「そうかな?」
「みんなわかりやすいって言ってましたよ。先輩、もしかしたら先生とか向いてるんじゃないですか」
「俺が先生かあ。確かに、楽しそうだけどね」
そこで、長谷部は何も言わなくなった。ややあって、優花は自分の失言に気づいた。
(そうだ……先輩は、大学を選べないんだった……)
長谷部は自分の家の会社を継ぐために、養子にもらわれてきたのだ。そのための大学を受けて、勉強して、就職する会社も決まっている同然で。長谷部に選択肢はほとんどないのだ。
「先輩って、何の教科が好きとかあるんですか?」
話題を少し変えようと思って、質問してみた。
「教科?」
「ほら。先輩、なんでもできるから。得意とかじゃなくて、好きな教科とかあるのかなあって……」
長谷部は少し上を向いて考えている。そして、上を向いたまま少し笑った。
「生物、かな」
「生物?」
「子どものころ、動物園とか、水族館の飼育員になりたかったんだ。だから、短絡的だけど、生物が一番好きかな」
子どものころとは、養子になる前の話だろうと思った。きっと、幼いころの夢だ。現実的に考えていたわけではないのだろうけれど、今の長谷部はそれをかなえる術どころか、道もないのだ。
(また、地雷ふんじゃったかな……)
優花が黙り込んでしまったのを見て、長谷部は優しい微笑みを返した。
「いいよ。そんな気を遣わなくて」
心を見透かされたような気がして、かえって何も言えなくなった。
「君は、俺の事情を知ってる数少ない人だからね。だからいいよ、気にしないで。それにさ」
そこで自転車置き場について、優花は自転車を停めた。一連の動作が終わるのを見てから、長谷部は独り言のように言った。
「こういう人生でなかったら、きっと君とも出会えなかったんじゃないかと思えば、今も悪くないと思う」
そんなことを言われたら、ドキドキするしかない。優花の心臓が高鳴っていった。
(無意識なのかなあ。計算なのかなあ。こんなセリフをさらりと言えちゃうのは)
普通の女の子なら、ここで恋に落ちたって不思議ではないのかもしれない。それなのに、優花の心はどこかブレーキをかけている。いや、ブレーキは違う。落ちるのを止めているわけではないのだ。どちらかというと、何かが引っ掛かっている。傾きそうになる心に引っかかる何かが。
「だから、映画も動物のが観たかったんですね」
ドキドキから目をそらしたくて、また少し話題を変えた。
「そうだね。そうかもしれない。テレビってあんまり観ないほうなんだけど、動物物のドキュメントとか、うっかり観てることがあるね。やっぱ、今でも好きなんだろうね、動物」
他人事のように話す長谷部が、なんだか健気に思えてきた。優花は、今自分が将来何がしたいとか、何になりたいとかそういうものを持っていない。長谷部は、無意識の中にそういうものを持っている。なのに、それを大っぴらに言うこともできないとは、どういう気持ちでいるのだろう。どういうふうにこの先のことを見ているのだろう。
「将来、動物関係の仕事の何かを見つければいいじゃないですか」
不思議そうな顔で長谷部が振り返った。
「飼育員とか無理でも、何か動物に関わりのある仕事って、私たちが知らないだけでいっぱいあるんだと思います。好きなら、いつかどこかで見つかりますよ。何か、関われることに」
自分で言っていて、なんて希望的観測なのだろうと思う。何か関われることなんて、曖昧すぎる。けれど、何か言ってあげたくなった。この先、好きなことに一切関われない人生なんて、辛すぎるではないか。形は違っても、好きなことに道はつながっていると信じたい。今の優花は、自分の好きなものが何なのかすらわからないけれど。
「……かなわないなあ」
長谷部の驚いた顔が、困ったように、クシャっとした笑顔になった。
「君には、かなわないよ」
何が、という優花からの問いに、長谷部は答えなかった。ただ、いつも以上に柔らかな微笑みを浮かべて優花を見つめていた。




