お付き合いのきっかけ
「何してるの? こんなところで」
いたって平静な態度で長谷部が近づいてきた。街灯の下まで来て、その表情がよく見えたけれど、やはり平静だった。それなのに、なぜか優花の心はざわざわと嫌に騒いだ。
「先輩も、どうしたんですか? こんなところ、通らないですよね?」
ここは駅へ向かう道ではない。普通であれば、長谷部たちが通る道ではないのだ。
「この近くに友だちん家があって、ちょっと寄ってたんだよ。で、帰ってたら、公園から橘さんの声がするってこいつが言うから来てみたらさ」
長谷部ではなくて宮瀬が説明した。
(こんな偶然……あるのかな)
今しがた、長谷部の話題が優花と竜の間で出ていたところだった。噂をしているところに当人が出てくると、本人が知らなくても気まずい。
「優花の自転車がパンクしたんで、直してるんです」
竜は再びしゃがんで、修理の続きをし始めた。その横顔が急に素っ気ないものに感じられて、優花の心がずきんと痛んだ。
「パンク?」
長谷部が訝しげに首を傾げた。竜はチューブをタイヤに戻しながら、少しイラッとした表情を見せた。
「あんたのせいみたいですよ、どうも」
「ちょ、ちょっと竜」
優花は慌てた。今、優花が竜に語った原因はあくまで今までの状況からの推測だ。もしかしたら、長谷部のことなど何も関係ないのかもしれないのだ。もともと、優花のことをよく思っていない人は他にもいるのだから。
「まだ、そうと決まったわけじゃないのよ」
「そうだけどさ、一番可能性高いんだろ?」
「だからって……」
今ここで言わなくても。そう言おうとしたときだった。
「俺が原因なの?」
長谷部が二人のやり取りの間に割り込んできた。長谷部の態度は冷静に見えた。でも、瞳がわずかに揺れているように感じた。その表情を見ていられなくて、優花は思わず視線をそらした。そこで、竜の盛大なため息が聞こえた。
「優花。俺が話すぞ。いいな?」
それは、問いではなかった。確認という名の、念押しだ。優花はうなずきもしなかったが、竜は冷然と話し始めたのだった。
極めて事務的に、竜は優花の状況を語った。先ほど優花が話したこと以上のことは語らなかった。
「それが刺さってたやつだよ」
竜が視線で二つの画鋲を示すと、長谷部が息をのんだ。抜いてしまっていいのかどうか判断できなくて、刺さったまま優花はここまで自転車を持ってきた。結果的に、どこに穴があるのかわかりやすくて修理するにはよかったらしい。でも、こんなことになるならば抜いて捨ててしまったほうがよかったのかもしれないと思えてきた。
「ありえなくもない話だな」
と言ったのは宮瀬だった。
「ここのところのお前の行動を見ていたら、起こっても不思議じゃない。女子の嫌がらせは陰湿なところがあるから」
「だからって、画鋲でパンクさせるか? しかもなんで橘さんにやるんだよ。俺が勝手にやってることなのに」
心底不思議そうな顔をして言う親友に、宮瀬は頭を抱えて首を振った。
「お前、モテるくせにそういう女心わかってないよな。女子は好きな男子には何もしないもんなの。こういう場合、橘さんのほうが悪者になっちゃうんだよ。今までお前に近づいてきた女子たちを見ていてもそうだったぞ。女子の敵は女子なんだよな」
以前、同じようなことを妹の新菜にも言われていたことがあったけれど、長谷部はどうも理解していなかったらしい。逆に、宮瀬のほうがよく理解しているところを見ると、相当いろんな場面に出くわしてしまっていたことがうかがえた。
「ともかく、そういうことだから。また優花に何かあっても困るから、もう優花に近づくのやめてくれないか?」
後輪のチューブの修理をしながら、竜が冷たく言い放った。
(そんなことまで、言っちゃうの?)
びっくりしてしまって、優花は言葉が出なかった。驚いた感情の裏になぜか感動まで覚えていて、優花は動揺した。
(なんで、喜んでるの、私……)
再び、感情の奔流が巻き起こった。もう少しで、この正体がわかりそうなのに。わかりそうなのに……。
「それは、できない相談だな」
にっこりと、あまりにさわやかすぎる笑顔を浮かべて長谷部が応えた。その笑顔を見たら、奔流がしぼむように消えていった。
「同じ学校に通ってたって、学年が違うと会いに行かなきゃ会えないんだ。俺は彼女と少しでもいいから会いたいし話したい」
「だから、こういうことが起きるんじゃないか。あんたが中途半端に会いに来なきゃ、とりあえず事態は収まるかもしれないんだぞ」
竜が立ち上がって抗議した。長谷部のほうが背が高いので、竜が下から睨み上げる格好になる。
「あんたは、優花のことより自分のしたいことを優先するのかよ」
わずかにその声が震えているのを優花は感じ取った。竜が怒っている。滅多に表さない負の感情だ。少し怖いと思いながら、自分のために怒っているのだと思うとぎゅうっと胸が締め付けられた。
「そんなこと言ってないだろ。確かに、俺の不用意な行動が招いたことかもしれないけど、俺が会うのをやめたからって収まるかどうかわからないだろう」
対して、長谷部はひどく冷静だった。余裕な笑みすら浮かべているように見える。
「それに、俺が会うのをやめちゃうと、他のことが起こるよ」
他のこと? 竜が眉をひそめた。優花も首を傾げた。長谷部が何を言っているのか理解できなかった。
「橘さん、気づいてないかもしれないけど」
言葉を挟んできたのは宮瀬だった。
「橘さんが入学してから、君のこと狙ってる三年生結構多かったんだよ」
急な話題の切替に頭がついていかず、優花は思わず竜の顔を見た。竜もわけがわからないというような表情をしている。
「でも、誰も君に声をかけようとして来なかっただろう? あれ、長谷部がいたからなんだよ」
「どういうことですか……?」
宮瀬はちらりと長谷部を確認するように視線をやった。長谷部は肩をすくめただけで何も言わなかった。
「『あの長谷部じゃかなわない』っていう暗黙の認識みたいなのがあるんだよな。うちの学年の男子が女子に告白したんだよ。それはまあ普通なんだけど、そのあとが問題なんだ。『ごめんなさい。私、長谷部くんのことが好きなの』と言われてフラれるんだ。そんな男子が十人に八人くらいの割合でいる」
それは話を盛りすぎじゃないか、と途中で長谷部が口をはさんだが、宮瀬は首を振って話を続けた。
「実物はこんな女心のわからないやつなんだけどさ、誰よりもモテるんだよ。だから、こいつが橘さんを狙ってるんだと周りが気づいてからは、誰も君に近づこうとしなくなったんだ。最初から勝てないことはしないって感じで」
「俺、誰にも彼女を狙っているとかそんなこと言ったことないんだけどな」
「言わなくったって態度でバレバレなんだよ。明らかに今までと違ったからな。ホントに自覚なかったのかよ?」
宮瀬のうんざりした言葉に対し、そうだったのかなあ、とのんきな様子で長谷部が頬を掻いた。
優花はそのやり取りをただ茫然として聞いていた。思い返せば、確かに一学期の間、長谷部とのこと以外では男子との間で何も起こらなかった。中学の時孤立した原因は、次から次へと男子に言い寄られていたからだった。それをよく思わない女子から反感を買い、それがいやで男子たちをことごとくふると更に女子から反感を買ってしまい、しまいには変な噂を流されて、友だちは一人もいなくなった。高校に入ってからは、本当に平和だと言い難い部分もあったけれど、比較的無事に過ごせていたのだ。百合をはじめとする友人ができたおかげだと思っていたけれど。
(それだけじゃなくて、先輩が自然と防波堤みたいになってたんだ)
意図したことではなかったのだろうが、結果的に優花にとって無用な争いごとを起こさずに一学期はすんだのだ。そして何とも皮肉なことに、これが原因で今度は女子からにらまれる事態になっているのだが。
「つまり、あんたがいなくなったら、優花に他の男が寄ってきて今度は違うトラブルが起こるってことか?」
忌々しそうに竜は目をすがめた。
「なんだその理論。結局、あんたがいてもいなくても、優花の安全は保障されてないじゃないか」
「ま、確かにそうだね。君の言うとおりだ」
あっさりし過ぎるほどに、長谷部は何の気負いもなくうなずいた。
「だったら、もう優花には近づくな。それでこの事態が収まるんなら、それでいいだろ」
しばらく、竜と長谷部はにらみ合っていた。足元を冷たい風が通り過ぎていき、鳥肌が立った。寒さのせいなのか、この空気のせいなのか、優花には判別できない。
「君も話が分からないやつだな。それはできない相談だと言っただろう」
「なんだと」
竜の背中から、ピリッとした空気が発せられた。優花は思わずびくっと体を強張らせ、息をのんだ。それに反比例するように、長谷部は最高にさわやかな笑顔を見せた。
「これを解決するには、一つしかないと思うんだ」
その表情のまま、長谷部はパッと優花の方を見た。
「付き合ってることにしようよ、俺たち」
「……はい?」
間抜けな声が出たと思った。ぽかんとしたまま、長谷部の笑顔を眺めていた。何を言っているのか、さっぱり頭に入ってこない。
「要は、俺が橘さんに言い寄ってるっていう中途半端な状態だから、女子からあらぬ因縁つけられるってことなんだろう? だったら、付き合ってるってことにすればいいんじゃない? そうしたら、誰も文句言えなくなる。他の男も寄ってこない。橘さんも安全。万々歳じゃないか」
その説明がわかるような、わからないような。理解が追い付かず、何も言えなかったし、反応することもできなかった。
「言われてみれば、お前が誰かと付き合ってる間、その彼女が何かされたとかは特になかった気がするな」
宮瀬がうなりながらうなずいた。しかし。
「でも、ただ単に付き合う期間が短すぎたから何もなかったんじゃないか?」
「それはそれだろ」
何でもないことのように長谷部は宮瀬の言葉を受け流した。
「大事なのは、付き合っていれば、俺が直接彼女を守る口実になるってことだ」
だから、と長谷部が一歩優花に近づいた。
「俺と付き合ってるってことにしようよ。悪いことにはならないから」
付き合っていることにする。それは、実は付き合っていないということで、フリをするということなのだろうか。いや、実は付き合うということなのだろうか。だって、以前長谷部から「付き合ってみないか」と言われたのだから。どちらなのか、わからない。わからな過ぎて、優花は思わず竜を振り返ってしまった。なんで振り返ってしまったのかわからない。とにかく、この意味不明な状況から助けてほしかった。
急に優花に視線を向けられた竜は、一瞬ぎくっとした表情になったのだが、すぐに顔をそらしてしまった。そして、何回か小さく口を開け閉めしてから、絞り出すような声で言った。
「……俺は、悪くない考えだと、思う」
その竜の答えを聞いて、息が止まった。すうっと目の前が暗くなるような錯覚に陥った。
「それで優花が安全なら……今日みたいなことが起こらないっていうなら、付き合ってみていいんじゃないかな。いや、そのほうがいいだろうな」
ぼそぼそと竜が言葉を続けていたが、優花の耳には入ってこなかった。ただ竜の声が反響しているだけで、その意味が把握できない。
「学校でのことは、俺じゃどうしようもないから」
最後に、吐き捨てるように言った言葉だけが理解できた。
そんなことない、と言いたかった。今日だってこうして、事情を理解して来てくれた。なんだかんだと心配して、自分のために怒ってくれた。それだけで十分なのだ。別に、学校で何かあったとしても、私は……!
「橘さん、どうする?」
竜に向かって口を開きかけた刹那に、長谷部が尋ねてきた。その顔はにこやかなのに、言葉は鋭く入り込んできて、優花は言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
「そうしろよ、優花」
追い打ちをかけるように、竜がつぶやいた。
「竜、あの……」
優花の言葉を待たずに、竜はしゃがみ込んで再びパンク修理に戻った。手慣れた様子で、パンク個所にシートを貼り、圧着している。その背中が優花のことを拒絶しているように感じた。そして、もうこれ以上何も言ってくれないことをはっきり悟った。
(なんで、どうして……)
泣きそうになっている自分に気づいた。けれども、なんで泣きたいのかがわからなくて、ぐっと涙をこらえた。仕方なく、優花は長谷部の方へを顔を向けた。
「……付き合ってることに、するんですよね?」
その問いに、長谷部はふうっと小さく息を吐いた。そしてうなずいた。
「本当に付き合うわけじゃ、ないんですよね……?」
重ねての問いには、優しい微笑みが返ってきた。
「それは君次第だよ」
優花は目を閉じた。そうしないと、また竜を振り返ってしまいそうだった。でも、竜はもう何も言わない。それはよくわかっている。この半年、曲がりなりにも一緒に暮らしてきたのだ。言わなくても分かるようになってきてしまったのだ……。
「わかりました」
そう告げて、目を開けた。目の前にいたのは、相変わらず優しく微笑んだままの長谷部だった。長谷部は、すっと右手を差し出してきた。
「じゃ、よろしくね」
優花は自分の右手を、怖々と差し出した。指先が長谷部の手に触れたところで、しっかりと握り取られた。長谷部の大きな手が優花の手を包み込む。
(違う。この手は、やっぱり竜のものとは違う……)
そんなことは、わかりきっている。頭ではそう思っているのに、心では感じずにいられなかった。
これは、違う手だ、と。




