目覚めの間際に
木曜日のペンキ塗りは和気あいあいとした雰囲気で進んだ。全員体育着に着替えて、刷毛で色を塗っていく。美紗や聡子とは今までそんなに話したこともなかったけれど、何となく一緒にいても気まずい雰囲気にならなかった。ポスターのおかげで、少し一体感を味わったからかもしれない。誰かと一緒に一つのものを仕上げるのはこんな楽しいものなのかと、優花は密かにかみしめていた。中学生のときからは、考えられないことだったのだ。
しかし、木曜日だけでは仕上がらなかった。下校時間ぎりぎりまで粘ってみたけれど、乾かないと塗ることができないところもあり、仕上げは金曜日に持ち越しになった。
「ちょっと遅くなっちゃったねー」
空を見上げながら百合がつぶやいた。夕日はとうに沈み、赤い空よりも暗い空の割合のほうが多くなっている。涼しい風の中に、少しの冷たさが混じる。秋が徐々に深まりつつあるのを感じた。
「じゃあ、また明日」
美紗と聡子が手を振って昇降口から出ていく。その後ろから同じく駅へ向かう河井と高山、少し遅れて栗林が歩いて行った。彼らはみんな電車通学で、同じ駅を遣うのだ。しかし、そのメンバーの中に新菜はいない。ペンキ塗りの最初のほうはいたのだが、一時間ほどして「塾の始まる時間なので」と言って帰ってしまったのだ。
(あんまり思っちゃいけないんだろうけど、長谷部さんが帰ってから空気が軽くなったというか……)
優花の個人的な感情でそう感じるだけかもしれないが、新菜が帰った後のほうが和やかな雰囲気になったのだ。新菜がいたとき、おしゃべりをしていなかったわけではないけれど、どちらかといえば真面目に作業している時間のほうが比率が高かった。
「じゃ、自転車とりに行かなきゃ」
地元組の優花は自分の自転車を取りに別方向へ向かう。同じく地元組の百合は、歩きだけれど優花に付き合って一緒に自転車置き場に来てくれる。その間、他愛のない話をずっとしていた。本当に取るに足らないような内容だけれど、優花はこの時間が好きだった。
まもなく自分の自転車のところにやってきて、カギを取り出す。カギを差し込んだところで、違和感に気づいた。
「……パンクしてる?」
優花はしゃがんで後輪を見た。明らかに、タイヤがへこんでいる。朝は普通だった。何の問題もなく自転車に乗って学校まで来たのだ。こんなにへこんでいるなんておかしかった。
「優花……前のタイヤも」
おそるおそるといった様子で百合が指さす。前輪に目を向ければ、後輪と同じように空気が抜けきっていた。
「どうして……」
のろのろと立ち上がりながら、優花はタイヤに光るものを見た。目を近づけてよく見れば、それは金色の画鋲だった。後輪だけではなく、前輪にも一個ずつの画鋲が刺さっていた。
(誰かが、刺した?)
その考えに至って、背筋に悪寒が走った。同時に、ここ最近感じていた嫌な視線のことを思い出す。そして、脳裏によぎったのは。
(まさか、あの、飯田さんって子じゃないよね……)
時折感じていた視線の正体の一人は、飯田さんという長谷部のことが好きな女子だった。視線の全てをちゃんと確認したわけではなかったが、たぶん同じ人だと思っていた。ここのところ、視線があまりに怖くて確認しようともしていなかったのだが。
「誰がこんなこと……。優花、これじゃ帰れないよ」
百合が青ざめた様子でつぶやいた。百合の言う通り、これでは自転車に乗ることができない。そして残念ながら、優花は自転車の修理ができない。
「うちのお母さんに頼んで、家まで送ってもらおうか?」
「そんなの悪いよ」
百合の申し出を即座に断った。申し訳ないと思うと同時に、なんでこんな事態になったのかを兄に説明するのがいやだったのだ。片方だけのパンクならともかく、両輪同時にパンクなんて不自然だ。いろいろ追及されるに決まっている。
かと言って、このままにしておくわけにもいかない。今日は歩いて何とか帰れる。遅くなった理由は、文化祭の準備が長引いたとでも言えばいいだろう。しかし、明日学校に行くときどうしようか。徒歩で行くなんて言えば、自転車の話に及ぶ。
「一番いいのは、今修理してもらうことだけど……」
両輪なうえ、パンクの程度がわからないため、いくらかかるか見当がつかない。そしてあいにく、今の優花は数百円のお金しか持っていなかった。
「……あ」
ふと、竜の顔が浮かんだ。竜は、中学生のときから乗っている中古の自転車を自分で修理して使っている。そもそもが古かったので、このところ毎週のようにどこかにガタが来ていて、そのたびに直している姿を見ている。パンクの修理くらい、できるかもしれない。
「どうしたの?」
百合が心配そうに尋ねてくる。その顔を見ながら、優花はしばらく考え込んだ。考えたけれど、他にアイデアが浮かばない。優花はスマホを取り出して、電話をかけた。
「さーて。暗いからできるかわからないけど、やってみるか」
公園の街灯の下で、作業服姿の竜はしゃがみこんで手慣れた様子でタイヤのチューブを外しにかかった。淡々と作業している横で、優花はじっと様子を見守っていた。
「しかしよかったな、俺がまだ会社にいて。家にいたら、いろいろ説明が面倒だったかもな」
作業をしながら、竜が優花のほうを見ずに言う。
「うん……ごめん。仕事中に」
「大丈夫だよ。ちょうど終わったところだったし。いいタイミングで電話が来たよ」
優花は、竜に電話をした。まず、どこにいるか聞いた。それから、パンクの修理はできるかと聞いた。その質問に、竜は「会社」「できる」と短く答えた。優花が何か言う前に「直してほしいのか?」と尋ねてきた。優花が「うん」と答えると、この学校近くの公園の場所を指定してきた。百合と一緒に待っていると、ほどなく竜が自転車に乗って現れた。そこで百合は帰った。もう少し一緒にいると心配そうに告げてきたが、あたりは更に暗くなってきており、百合の親が心配するから帰らせたのだ。
「パンク箇所がもうわかってるし、穴も思ったより小さそうだし。この修理キットでどうにかなりそうだぞ。三十分くらいでできるかな」
「そう……」
少しだけほっとした。パンクのことは兄たちにばれずに済みそうだ。帰宅時間は遅くなるけれど、竜が一緒なので兄にあまり文句を言われずに済むだろう。竜はなんだかんだで数馬の信用を得られているのだ。
「それにしても、あからさまな嫌がらせだな。心当たりないのか?」
竜は手を止めずに、さらりと尋ねてきた。優花はそれに何も答えられない。
「あるんだな?」
「……あると言えば、ある」
パンクの修理をさせておいて、しかも兄たちに黙っていてくれと頼んでいる手前、嘘をつくのははばかられた。優花は手短に事情を話した。でも、長谷部から「付き合ってみないか」と言われたことだけは話せなかった。
(だって、それとこれは直接関係あるわけじゃないし。別にいいよね)
胸の内で言い訳をしていると、心の奥底に重石がのしかかるような気持ちになった。この罪悪感は何だろう。別に、悪いことはしていないはずなのに。いつも、こんな気持ちになってしまう。それがわからない。
「なるほどねー。ま、優花はただでさえ他の女子に目をつけられそうだしな」
相変わらず、竜は手を止めないまま話す。優花はその横顔に向かって尋ねた。
「なんでそう思うの」
「だって、女の子の友だちで百合以外に聞いたことないし。中学のときの友だちの話だって、全然しないしさ。なんとなくそう思ったんだよ」
その通り過ぎて、何も言えなかった。竜は時々こうして急に核心を突いてくる。一番突いてほしくない部分を真っ直ぐに。
「優花も優花だぞ。その先輩を遠ざければいいだろ」
「そうだけど……なんか、保身に走ってるみたいで……」
ごにょごにょと歯切れ悪く答えると、不意に竜が手を止めてこちらを見た。
「保身ってなんだよ。実際、嫌がらせされてるんだから、自分のこと守って当然じゃないか」
「別に、自分になにかされたわけじゃないもん」
「今回はたまたま自転車だったけど、次は自分かもしれないんだぞ。そういうの考えないのか?」
「怖いこと言わないでよ」
「俺はマジで言ってるんだ」
大きい声を出して竜が立ち上がった。優花は思わず目を瞠って固まってしまう。優花を見つめる竜の瞳はあまりに真剣で、真っ直ぐだった。急に、優花の心臓が大きく波打ちだした。頭の中まで反響するほどに強く。でも、ちっとも嫌ではない鼓動だと思った。この揺れに身を任せていたい。
「少しは自分のこと考えろよ。学校で何かあっても、俺は何にもしてやれないんだぞ」
「竜……」
それ以上言葉にならず、優花はただ竜を見つめ返した。
何か、自分の内から溢れ出そうだった。優花一人では抱えきれないほどの何かが、奔流になってからだ中を駆け巡っている。その何かの正体が、今すぐわかりそうな気がする。今なら——。
「そこにいるの、橘さん?」
感情の奔流が突如遮断されて、弾かれたように声のしたほうを振り返った。
「……先輩?」
優花たちの視線の先に、長谷部と宮瀬が並んで立っていた。