優花の色
水曜日の放課後の教室に、ポスター班が全員そろった。目の前の黒板に、色つけが終わったA3ポスターが三枚並んでいる。三枚三様の絵柄だが、基本となるコンセプトは同じだ。タロットカードを並べる占い師の周りに、コーヒーカップやらケーキやらお菓子やらが並んでいる。なんとも不思議な構図の絵だった。
下絵を描いたのは、美術部所属の根本美紗と橋爪聡子の二人、そして絵が得意だという栗林勇の三人だ。美紗の描いた絵は、全体的にファンタジックで可愛らしい。聡子の描いたのは占い師が特にミステリアスに描かれている。栗林は「アニメや漫画のような絵なら描ける」と言っていたので、てっきり萌え系の絵が来るのかと思っていたら、予想に反してリアルで大人っぽく、今にも動き出しそうな絵を仕上げてきた。高校生が書いたとは思えない、プロが描いたと言ってもも遜色ないレベルのものだった。
「うん。いいんじゃないですかね」
そうコメントしたのは長谷部新菜学級委員だった。まるで評論家のような口ぶりに、優花は心の奥底で思わず苦笑いする。
(長谷部さん、一回も色塗り参加しなかったし)
絵の構図を決めるときにはちゃんと参加していた新菜だったが、色塗りの段階になったら「塾があるので」と言ってさっさと帰るようになった。優花は絵が描けないので三人が描いてきた絵の色を塗るのが仕事だったが、神経をかなり使う作業だった。人に見られるものでもあるし、何より人の描いた絵だ。せっかくきれいに下絵を描いてくれたのに、下手に塗ってしまったら申し訳ない。
下絵を描いた本人たちが塗ればいいのかもしれないが、美紗と聡子は美術部として文化祭に出品する作品の準備に追われていたので、そこまで手が回らない。他に、河井と高山もポスター班だったが、彼らはそれぞれやはり文化祭に向けて部活での準備があった。
結果、部活に所属していない優花と百合、そして栗林の三人だけが放課後の教室に残り、色塗りをした。そしてどういうわけか、優花が栗林の絵の色塗りを担当することになった。
「栗林くんが塗れば完璧でしょう?」
優花がそう言ったのだが、彼は首を縦に振らなかった。
「確かに、自分が塗ればイメージ通りに完成する。けれど、それじゃ新境地が開けないから」
低く響く声で、彼にしては珍しく長いセリフを言った。そのセリフの意味がわかったようなわからなかったような、ともかく、自分で塗る気はないことはわかった。
ある程度の色指定はあったものの、細かい色の調整は優花がやった。最初のうちは栗林に「この色で大丈夫?」と聞いていたのだが、彼は無言でうなずくだけで、アドバイスなどは一切なかった。途中から、優花も聞かなくなった。当の栗林は聡子の描いた絵を、百合は美紗の描いた絵を塗り、そうして完成した絵たちだった。
「では、このままこれを各階に貼りましょう。明日はベニヤにペンキを塗ります」
淡々と新菜がこれからのスケジュールを説明していく。二メートル四方のべニア板のポスターの仕上げが、この班最大の仕事だ。各クラス(と言っても、一年生と二年生だけ。三年生はクラス展示がないのだ)、趣向を凝らしたべニアのポスターを作り、それを校門から昇降口までの沿道両脇にずらりと並べる。ちょっとしたポスターコンテストのようになるらしく、投票も行われるのだそうだ。
優花たちのクラスのものは、栗林の描いた絵がベースになっている。他のクラスのものがどんな風に仕上がっているかわからないが、人目を引くのは間違いなさそうだ。
「今週中にべニアのほうを完成させないと、中間テストにも影響しますから、がんばりましょう」
そう言って、新菜は締めくくった。
(いやなこと思い出させるな)
思わず心の中でぼやいた。来週はテスト二週間前に突入するのだ。こんな時期に文化祭の準備が重なるように行事が設定されていることを恨みたくなる。こうなると、ポスター班は一番割を食っている班だったかもしれない。買い出し班などは、ある程度のリサーチが終われば、あとは本番直前に買いに行くだけなのだ。
「栗林くんの言った通り、ほかの人が塗ってくれると、自分じゃできない絵に仕上がって面白いね」
美紗が楽しそうにそう言った。
「ホント? これで大丈夫だったかな」
美紗の絵を担当した百合がドキドキとした様子で尋ねた。
「うん。花崎さんって、かわいらしい色使いするんだね。私じゃこうはならないもん」
その言葉に、百合の表情がぱあっと花が咲いたような笑顔になった。美紗もにこにことした様子でうなずいている。
「下書きは私一人で描いたけど、こうなるとみんなで作った感じになるね」
確かに、その通りだと思った。優花たちは絵を描いていないけれど、作品には参加しているのだ。割は食っているかもしれないけれど、他の班でこの達成感を味わうことはできないだろう。
(べニア板のほうは、もっとみんなで作った感じが出るかも)
このA3ポスターは、基本的に個々の作業だったが、明日からのべニア板はここにいる全員で作業する。そう思えば、明日がちょっと楽しみになった。
(長谷部さんがいることを除いてだけど……)
兄である長谷部と優花が校内でよく会っていることを、新菜も当然知っている。二人で話している脇を新菜が通り過ぎたこともあったが、そのとき一瞬だけ寄越した優花への視線はひどく冷ややかだった。正直言って、色塗りに彼女が参加していなくてほっとしたのだ。新菜から直接何か言われるわけではなくても、同じ空間でずっとあの冷ややかさを感じ続けるのは厳しいものがある。
「明日は、僕も部活休んで来られるので頑張ります」
高山がおどおどした様子で言った。
「大事な天文部はいいのかよ」
冷やかすように河井が言うと、高山はムキになって言い返した。
「こっちも大事なんだってば」
その様子に、周りから笑いがこぼれた。新菜を除いて、だったが……。
それから少し話をして、色塗りを担当した三人がそれぞれの階にポスターを貼ることが決まってお開きになった。部活がある面々はそれぞれ部室へ向かい、新菜は例によって塾があると言ってさっさと帰った。
「橘さん」
ポスターを持ったところで、栗林に話しかけられた。
「橘さんは、すごくきれいな色使いしますね」
優花はその言葉にぽかんとしてしまった。ポスターの色のことを言われているのだと気づくのに数秒かかったのだが、栗林は構わず続けた。
「橘さんに任せて正解でした。勉強になりました」
「えっと……そんな、こちらこそ……?」
変な返答をしたと思った。しかし栗林はそんな優花に構うことなく、自分の塗ったポスターを持って担当の階へと行ってしまった。
「栗林くんって、おもしろいよねー」
隣で百合が言った。
「言ってることが哲学的で、一瞬わかんないよね」
「哲学的……」
百合の言葉がわからないでもない、と思う。そして、それこそ「哲学的」だとも思った。
「でもさ、優花の色合いってきれいだよね。それはわかるよ」
「そう……かな?」
「うん。ちょっとした色の配合の違いとかなんだと思うんだけど、なんていうかなあ? 色の並び方とか、雰囲気とか。例えば同じ赤と白を混ぜたピンクでも、何かが違うっていうか。とにかくね、いいなあって思うの」
一生懸命な様子で説明しようとする百合だったが、いい言葉が思いつかないようで最後の最後まで納得できないような表情だった。でも、その一生懸命さだけでなんだか照れくさくなってしまった。
「ありがとう。そんなふうに言ってもらえての初めて」
「そうなの? 実はね、優花のお弁当の彩りとか見てても、同じこと思ってたよ」
「えー? だって、あれは適当に詰め合わせただけだよ」
「優花にとってはそうなんだろうけど、こっちから見てると違うんだよ。うまく言えないけど」
そこまで言って、百合は突然「あ!」と声をあげた。
「そっかあ。優花、デザイナーとか向いてたりするんじゃない?」
「でざいなー?」
思ってもみなかった言葉を向けられて、間抜けな返し方になった。
「だって私、絵、描けないよ……」
辛うじて返した言葉に、百合は更に言いつのった。
「絵が描けなくってもさ、なんかあるじゃない。えっと……そうだなー。インテリアコーディネーターとか? あ、そうだ。レストランとかで飾ってあるお花を作る人とか。えっと、フラワーアレンジメント? いや、職業だとフラワーコーディネーターとかっていうのかな? それなら、自分で絵を描くとかあんまりないかもしれないよね? いや、あるのかなあ? どうなんだろう」
突然の話の展開についていけず、優花は目をぱちぱちさせてしまう。インテリアコーディネーター? フラワーコーディネーター? 今まで生きてきた中で、自分の身近に一切なかった単語たちが、頭の中をぐるぐる回っている。回っているだけで、まったく染み込んで来ないのだ。自分がそういう仕事についているというイメージも全くわいてこない。
(私がデザイナーとか……考えたこともなかった)
そもそも将来の職業について具体的に考えたことがあっただろうか。幼いころの夢想は別にして、現実的に考えたことなどないのではないかと思い至る。特に両親が亡くなって以降は、ただ早く大人になって働きたい、兄たちに迷惑をかけたくない、と、そればかりを考えて、何をして働くかなんて思考がなかった。
「あ、ごめん! また私一人で突っ走っちゃった」
優花が無言でいるのを見て、百合が慌てて口に手をやった。優花もそれで我に返った。
「だ、大丈夫。意外な仕事が出てきてびっくりしてただけ……」
「そうだよね。でも、私、今の思いつき悪くないなーって思ってる。もちろん、優花が決めることだけど、選択肢の一つとしてありじゃないかなって。だって、絶対ないとは言い切れないもん」
その言葉に、優花はあいまいにうなずくしかできなかった。それでこの話題は打ち切りになり、優花と百合はそれぞれ自分の塗ったポスターを貼りに各階へと別れた。
優花は三階の担当だった。指定された場所を見つけ、そこに画鋲でポスターを貼りつける。すでに何枚かのポスターが並んでいたが、栗林の描いた絵は別格のように思えた。
(確かに、色を塗ったのは私だけど……)
でも、これは下絵の力だと思った。栗林の持つ、構成力や画力があるからこそだ。自分は、色を塗ったに過ぎない。彼の言う「新境地」を少しでも開けたのなら、良かったとは思うが。
「あれー? 橘さんだ」
妙に大きな明るい声がして振り返ると、宮瀬が大きく手を振ってこちらに向かって来ていた。
「あ、これ一年八組のポスター? なんかすごいねー。他のとは違う感じ」
宮瀬は並んでいるポスターと見比べて、優花が今しがた思った感想とほとんど同じことを言った。
「これ、橘さんが描いたの?」
「まさか! 私は色を塗っただけで、特に何も」
そこまで言ったところで、宮瀬を呼ぶ声がした。声の主は長谷部だった。宮瀬と優花が並んでいるのを見て、一瞬眉をひそめるような表情をしたので、宮瀬がすかさず大きな声で突っ込んだ。
「なーに嫉妬してるんだ。偶然会っただけだよ」
「別に、そんなんじゃない」
むっとした様子で長谷部がそっぽを向く。宮瀬と話しているときの長谷部は少し子どもっぽ表情を見せるときがある。一瞬垣間見せる素の表情なのだ。いつも優花に接してくるときの大人っぽい雰囲気よりも、素の長谷部のほうがいいなと優花はこっそりと思った。
「これ、橘さんが色塗ったんだって。この色いいよなー」
長谷部の様子に構うことなく、宮瀬が話を続けた。長谷部の視線がポスターに向いて、ちょっとドキドキした。
「ホントだ。きれいな色だね」
あっさりとほめられて、優花は恥ずかしくなってうつむいてしまった。栗林と百合に引き続いて、宮瀬と長谷部にも色を褒められてしまった。兄は別として、他人に褒められることに慣れていない。ここまで言われると、逆にお世辞なのではないかとひねくれて考えてしまう悲しい性だった。
「元の絵が、すごいだけです……」
「それもあるだろうけど、この色がちゃんと絵を仕上げてくれてると思う。ホントに素敵な絵だよ」
長谷部の口から出ている言葉は、取り繕って言っているものではない。それがわかると、余計に恥ずかしくなって、ますます視線を下げる。
「あれ? もしかして、照れてる?」
と、長谷部が優花の図星をつきながら顔を覗き込んできた。
「いや! 照れているんじゃないですっ……!」
言いながら、顔がかあっと熱くなっていった。耳まで熱く感じているのを自分でもわかっている。この隠しようもない状況に、だんだん気持ちが焦ってくる。
「照れてる」
笑いをこらえきれない調子で長谷部が言った。
「ほ、ホントに! からかわないでくださいってば!」
「やっぱり、面白いね」
「だからそれ、褒めてないです!」
言い返すたびに、長谷部の笑いが収まらなくなる。優花の憤慨も止まらない。そんな様子を見て宮瀬が楽しそうにぽつりと言った。
「好きな子ほどいじめちゃうってやつだなー」
そんな三人の様子を隠れて見ている人影がいた。しかし、このときの優花は気づく由もない。




