自分の居場所
優花が明確な返事をしないまま一週間以上が過ぎた。その間、学校のある日は毎日長谷部と会った。放課後に図書室で会ったり、昼休みに廊下で会ったり。約束して会うこともあれば、長谷部のほうから優花のところにやってくることもあった。その時決まって、どこかからにらまれているような視線を感じ取っていた。初めは気のせいだと思うようにしていたけれど、昨日、決定的なものを見てしまった。何げなく横を見たときに、教室のドアの向こうから、数人の女子が固まって、じいっと優花と長谷部のことを見ていたのだ。その中に、以前優花に詰め寄ってきた女子がいたのも確認してしまった。
(確か、飯田さんとか言ったっけ……?)
彼女とはクラスが違うので、あれから接点を持ったことはなかったけれど、その友人の遠野夏葉は優花のクラスメイトだ。夏葉を通じて、彼女は長谷部の情報を得ているのかもしれなかった。
彼女は当然ながら、今でも長谷部のことが好きなのだろう。彼女から受ける視線が、徐々に鋭いだけのものではなくなっていくのを察知して、優花は少し怖くなってきていた。
(だからと言って、もう来ないでくださいって言うのもな……)
自分に何か嫌なことが起こりそうな予感がしているけれど、そのために自分の心に背いて長谷部を邪険にする気にはなれなかった。今の優花は、長谷部のことが嫌いなわけではなかった。好きかどうかと問われても困るけれど、嫌いかどうかと問われたら、それは違うと言い切れる。
結局、対応を考えあぐねたまま、今に至る。
このあと、どうしたものだろうか。いっそのこと、付き合ってみるというのも手なのだろうか。しかし、好きかどうかもわからないのに付き合うというのは、優花の中でやはり抵抗があった。何かが違う、と思えて仕方がない。
「どうした? 何考え込んでるんだよ」
突然声をかけられて、はっと顔を上げた。不思議そうな顔をして、竜が食卓を挟んで優花を見ている。
「箸止まってるぞ」
「あ、うん。ちょっと……」
優花は慌ててご飯を口に入れた。それを見届けてから、竜も黙ってご飯を食べ始める。静かな夕食の時間だった。
(お兄ちゃんたち、早く帰ってこないかな)
今日は土曜日。数馬と佳代は愛実を連れて、お昼過ぎから佳代の実家に出かけていた。夕食の時間までそちらにいる予定なので、今日は午後からずっと竜と二人で過ごしている。二人だけで過ごしているからと言って、一緒に何かするわけではない。優花が掃除をしている間に、竜は食器を洗っていたし、竜が掃除をしている間に、優花は英語の予習をしていた。リビングに一緒にいるときだって、優花は本を読んでいたし、竜はマンガを読んでいて、なんとも静かな午後だった。夕食のときになって、やっと顔を合わせた感じがする。
(竜は、やっぱり何も聞いてこないし、何も話さない)
あの体育祭のときの出来事を竜も見ていたはずなのに、話題に上ることは一切なかった。竜は長谷部の話題を意図的にしないようにしている感じがした。以前、余計なことは言わないと宣言していたのだから、それを実行しているだけといえばそれまでなのだが……。
(言われなさすぎるのも、何だか釈然としない)
むしろ、明るく話題に持ち出されたほうが思い切って言い返せるというものだ。あれは、借り者競争だったんだ。たまたま、自分が指名されただけなんだ。恥ずかしくて転んじゃったけど、べつにそれだけのことだったんだ、と。
(本当はそれだけじゃなかったけど)
でも、長谷部かからはっきり「好きだ」と言われたわけでもなかった。付き合ってみないかと言われただけだ。だが、その裏にある長谷部の感情に気づかないほど、優花は鈍くなれなかった。
「優花」
また竜に呼ばれて、我に返る。
「どうしたんだよ。また止まってる」
気づけば、また箸が止まってしまっていた。
「……何でもないよ」
そう答えて、また食べ始める。竜は、先ほどと同じように、それ以上何も言わずにまた食べ始める。
追及されなくてほっとしている反面、なぜ何も聞いてくれないのだろうという気持ちで、心が欝々としてくるのだった。
そうして、また月曜日。学校が始まってしまう。優花は校門前までやってきて自転車を降りると、思わずため息をついた。今週も、無事に過ごせるだろうか。そんなことが頭をよぎる。
学校は、優花にとって元々居心地の良い場所ではなかった。でも、百合に出会って、そのあと河井や高山にも出会えて、学校にも「優花の居場所」と呼べる場所ができつつあった。こんなことで、せっかくできた居場所を失いたくなかった。優花だって、本当はそんな場所がほしかったのだ。
「橘さん」
声をかけられて、全身が固まった。ゆっくりと、ぎこちなく振り返ると。
「おはよう」
さわやかスマイルの長谷部がいた。長谷部は当然のように優花の隣に並んだ。
「おはようございます……」
小声でかろうじて挨拶を返した。そのまま、二人で校門を通り過ぎる。
「今日、橘さんのクラスは文化祭の準備とかする?」
歩きながら、長谷部が尋ねてきたので、優花は目を合わせないままうなずいた。
「今日は、ポスターの色塗りをするそうです。しばらくは、そんな感じになるみたいです」
体育祭が終わった一ヶ月後には、文化祭が待っている。優花はポスター班に入ったが、絵は描けないので代わりに色塗りを手伝うことになっている。絵柄は九月の間におよそ形ができ、下書きはこの一週間ほどで完成した。あとは手分けをして完成形に持って行く予定だ。
「そっか。俺は応援部の練習に参加する予定」
「三年生も応援部の演武に出るんですか?」
「うん。ゲスト出演みたいな感じ」
そうなんですね、とうなずきながら、長谷部の応援部としての活動を見たことがないと思った。いや、正確には見ているのかもしれない。新入生歓迎会のときに、確かに応援部の演武があったからだ。でも、真ん中にいた団長宮瀬の印象が強すぎたのか、長谷部がいたことを思い出せないのだ。
(それに、やっぱり応援部っていうイメージがわかないんだよね)
ちらりと長谷部の横顔を見ながら思う。どちらかといえば、サッカー部とかにいそうなルックスなのだ(優花の勝手なイメージではあるけれど)。それは初めて会った時から印象が変わらない。
「先輩って、どうして応援部なんですか?」
思わず質問してしまった。長谷部は一瞬きょとんとした表情を見せた後、「ああ、そっか」と何かに気づいたようにうなずいた。
「話したことなかったね、そういえば」
そこまで話して、駐輪場についた。自然な流れで、長谷部はそのまま優花と一緒にここまでやってきていた。その事実に気づいたとたん、妙な視線を背後から感じた。
(気のせい……ということにしたい。でも、ここ最近いつも感じるんだよ、これ)
今は長谷部と話している途中で、振り返って確認することはできない。それに、確認するのは少し怖かった。できるなら、気のせいで済ませたい。
「宮瀬に、強引に引っ張りこまれたのが最初かな」
視線に気づいた様子もなく、長谷部は話を続けた。二人で昇降口まで歩きながら、視線が少しずつ遠ざかっていくのを感じた。
「宮瀬先輩ですか?」
うん、とうなずきながら、長谷部は少し苦笑いを浮かべた。
「俺、この高校に入ったのが、そもそもが家への当てつけだったから。入学してからここで何かしようとか、部活やろうなんて全く考えてなかったんだ。入学初日から無気力だったし、周りと関わろうともしていなかった」
今の長谷部からは想像できない、と思いつつも、優花はその背景にあることを知ってしまっているから、驚きもしなかった。きっと、高校に入ることすら、目的ではなかったのだと思う。
「そういうやつを、ほっとけない性質なんだろうね、宮瀬の奴は。一年のときも同じクラスで、やたらと絡んできてさ。本当にうざくてしょうがなかったんだけど……」
いつの間にか、感化されてた。と、照れくさそうに長谷部が笑った。
一年生のときの宮瀬は今のままの宮瀬だったのだ。そう思ったら、少し笑えた。そしてきっと、この先も宮瀬は宮瀬のままなのだろうと、容易に想像ができる。
「宮瀬先輩って、すごいですね」
素直に言葉を述べると、「あはは」と軽い調子の笑い声が返ってきた。
「それを宮瀬に伝えたら喜ぶよ」
喜んでいるのは、長谷部のほうだとなんとなく思った。まるで自分のことのように感じているのかもしれない。居場所のなかった長谷部を孤独の中から連れ出してくれたのが、きっと宮瀬なのだ。
「演武、楽しみにしてます」
優花の言葉に、一瞬長谷部は驚いたような表情をしたが、すぐ「うん」とうなずいて、はにかんだ笑顔に変わった。
心臓がどきんと大きくはねて、思わず目をそらした。
(うわあ。今の、かわいいっていうか、なんて言うか)
また、違った一面を見たような気がして、心臓が高鳴り続けている。これは、すぐには抑えられそうもなかった。
「じゃ、またね」
昇降口について、長谷部は三年生の靴箱のほうへ行った。そこに友人がいたようで、その輪の中に溶け込んでいくのを、優花はぼんやりと眺めていた。
(またね、かあ)
今日も学校のどこかで会うのだろうか。それを自分は待っているのか、それとも……。優花は少しの間、自問してみたけれど、わからなかった。そこで考えるのをやめた。一年生の靴箱のところに、百合がいるのを見つけたのだ。
「おはよう」
声をかけると、百合がパッと振り向いて、全開の笑顔で応えてくれた。そこに、河井と高山もやってきて、四人で教室に向かう。
これから一週間、どうなるかはわからないけれど、大丈夫。自分も、ちゃんと居場所を見つけたから、簡単に逃げたりへこたれたりしない。そんな確信を胸に、優花は教室に入った。