初めての夜
これからのことを細かく話し合って、小一時間。最後に数馬が大真面目な顔で竜に告げた。
「何があってもこの約束だけは必ず守れ」
数馬の気迫に、竜が息をのんだのが傍目でも分かった。優花まで思わず息を詰めていると。
「優花の部屋には絶対に入るな」
竜の目前に人差し指を突き付けて、数馬は厳しく言い放った。竜は指先に視線をやりながら、何度か瞬きをした。
「返事は」
「え、あ、は、はい」
竜は気圧される形で返事をした。しかしわけの分かっていない顔をしている。
「優花も。こいつの部屋には絶対入るなよ」
「え? 私?」
自分にも矛先を向けられて、優花は軽く混乱していた。
(なんで私まで……)
兄の真意をつかみかねていると、佳代が仕方なさそうにため息をついた。
「つまりねえ、数馬は心配なのよ。優花ちゃんのこと」
「私のこと?」
ますます首をかしげていると、突然竜が「ああ!」と大声を出した。
「つまりそういうことですね。数馬さんは俺が優花に手ぇ出すんじゃないかと心配なんですね!」
「そんなに明るく言うな!」
バンッと数馬はテーブルをたたいてにらみつけた。が、竜は「当たったー」と大喜びしていて、効果はいまひとつ薄いようだった。
「落ち着いてよ、数馬」
佳代は呆れ顔をしながらも数馬を優しくなだめた。
「優花ちゃんと数馬の……これからは竜の部屋だけど、一つのベランダでつながっちゃっているから、数馬ったらいらぬ想像働かせて……」
「余計なこと言うなっ」
数馬が顔を真っ赤にして怒っている。ここで、ようやっと優花も話が分かってきた。
(いらない心配よ、そんなの)
優花がため息をついている横で、竜は納得した表情で大きく何度も頷いた。
「わかりますよ、俺も。もし妹が、家族でもない若い男の部屋の隣だったら、心配でたまらないですよ。不安で眠れないかも」
本当にわかっているのかわかっていないのか、竜があまりにけろりとした表情をしているので、数馬はだいぶイライラしてきている様子だった。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ」
しかたなく優花は間に入った。竜がいくら「わかった」と言ったところで、真面目に答えているように全く見えない。そうすると、兄はずっとイライラしっぱなしになると思った。これ以上兄の怒鳴り声を聞いていても誰も得をしない。
「万が一竜が私の部屋に入ってきたら、お兄ちゃんの金属バット使うから」
「……なんだよ、金属バットって」
竜が不安そうに尋ねてきたので、優花は表情を変えずしれっと答えた
「お兄ちゃん、中学高校と野球部だったの。物置にずっとしまってあるの思い出した」
「いや、そこじゃなくて。使うってどういうこと?」
「もちろん、私の部屋に置いておいておくの」
「まさか、俺を殴る?」
「万が一、入ってきたらね」
「まじか」
優花は大真面目にうなずいた。竜は再び「まじか」とつぶやき、ありえないといった様子で首を振った。
「数馬さん。優花って、普段から怖いキャラなんですか?」
「……あのなあ」
再び、数馬の怒鳴り声と、竜のひょうひょうとした返答のやり取りが始まってしまった。そんな男二人を尻目に、佳代が楽しそうにささやいた。
「この二人も仲良くやってくれそうでよかった」
果たしてこれを仲が良いと表してよいものなのか。優花は大いに疑問を持ちつつ、この先の生活が思いやられるのだった。
数馬が疲れたところで話し合いは終了となった。決めた通りの順番でお風呂に入り、それ以外の時間はテレビを見たり、適当にお茶を飲んだり、新聞を読んだりと、各々好きなように過ごした。優花がお風呂を済ませてリビングに入ると、竜は気を遣う様子でもなく、ソファーに座ってテレビを見ていた。 日常の風景に、竜はすでに溶け込んでいるかのようだった。
(ずうずうしいな、やっぱり)
居候初日に、自分だったらあんなふうにテレビなんて見ていられない。優花はますます気分が悪くなった。
そうして寝る時間になって、数馬と佳代は一階の寝室へ、優花と竜は二階の部屋にそれぞれ分かれていった。数馬は最後まで心配そうな顔をしていたが、優花が本当に物置から金属バットを持ち出してきた(自分がお風呂に入る前に探した)のを見て、佳代にも背中を押されて、どうにか寝室に引っ込んでいった。
「まじで持ってくるとは」
部屋に入る直前、竜がつぶやいた。
「わかったなら入ってこないでよね。絶対に」
優花がバットを構えてみせると、竜は慌てて後ずさり、首を激しく振った。
「わかってるってば。俺も命が惜しい」
その口ぶりは、少し面白がっているようにも聞こえた。余計にしゃくに障った。これ以上話すのも嫌なので、優花はさっさと部屋に入ろうとドアを開けたとき。
「あ、優花」
足を一歩踏み入れたところで、急に声をかけられ、優花は鋭く竜をにらんだ。
「なによ」
竜は一瞬迷った表情を浮かべた。でもすぐに照れくさそうな笑顔になった。
「おやすみ」
不意を突かれて、優花は目を丸くした。その間に、竜はそそくさと部屋の中に入って行ってしまった。
「……お……おやすみ」
取り残された優花は、自分にしか聞こえないほどの小さな声で返した。隣で、静かにドアの閉まる音がした。優花も、遅れて静かにドアを閉めた。
(隣に、とうとう来ちゃったんだあ)
隣の部屋のほうの壁をそっと見る。変な気分だった。佳代が来てから、隣の部屋は空だった。今まで一人で二階にいたのに、今日から二人になった。
優花は金属バットをベッドの横に立てかけると、そのままベッドにどさっと座った。
(なんか、疲れた……)
卒業式があって、竜が突然今日来ることになって、四人分の食事を用意して、これからのことを話して。
(どうなっちゃうのかな。これから)
不安しかなかった。佳代が家に来た時とはわけがちがう。全くこれから先のことが想像できない。とりあえず、明日から春休み中はずっと一緒にいなければならない。それがまず気がかりだった。
考えていても仕方ない、と、優花は電気を消してもう寝ることにした。布団に入ってみたが、いろいろ考えてしまって結局なかなか眠れなかった。
隣の部屋は静かだった。もう眠ってしまったのだろうか。だとしたら、やはりずうずうしい性格をしている。こちらは自分の部屋だというのに落ち着かない気分なのに。
そうやってイライラしているうちに、どうにかやっと睡魔が襲ってきた。この機会を逃さず、優花は眠りについた。不安は抱えたままで、浅い眠りだった。