スタートラインの学食
そのまま何も話さないで歩き続け、学食についた。長谷部の言った通り、学食は空いていた。テーブルにはまばらに生徒が座って、他愛のないおしゃべりをしながら食事をしている。
学食は食券を買うシステムになっている。定食、丼もの、ラーメンやスパゲティといった麺類がある。ライス大盛券というのもあった。
「女の子たちにはこれが人気だよ」
そう言って長谷部が指さしたメニューはチーズオムライスだった。長谷部がせっかく教えてくれたもの以外を選ぶのも気が引けたし、興味をそそられたこともあって、優花はそれにした。長谷部が「おごってあげようか?」と言ってきたが、丁重に断った。そんなことをしてもらったら、これから始まるだろう話を対等にすることができない。長谷部も断られるとわかっていたらしく、ただ笑顔で「うん」とうなずいただけだった。
食券を食堂のおばさんに渡し、引換券を受け取った。出来上がるまで、二人用のテーブルに向かい合って座て待つ。その間、先ほどの体育祭の話をした。借り者競争以外のところの話を。その話をし始めたら、本題が始まる。できるなら、ご飯が終わるまでは避けたかった。
無難な話をしているうちにやがて食事ができて、二人はそれぞれ注文したものを受け取った。長谷部は唐揚げ定食だった。大きめの唐揚げが五個、ご飯一杯分くらいの量のキャベツの千切りの上に乗っている。小鉢にひじきの煮物、味噌汁、そしてご飯は大きめの茶碗にしっかりと盛られている。
「結構多いんですね」
思わず感想を漏らすと。
「高校生男子なら普通の量だよ」
特に何でもないような感じの答えが返ってきた。
(竜もそうだっけ……?)
無意識に考える。竜だって、高校生の年齢だ。確かによく食べているとは思うけれど、量を意識したことはなかった。家ではおかずを定食のように別々に分けてはいなかったからだ。それぞれがどれだけの量を食べているのか、実のところ分からない。
そろって「いただきます」と言うと、長谷部はすぐに唐揚げを頬張った。そして流れるように白米も口に運んでいく。あまりに良い食べっぷりに、一瞬ぽかんとなってしまう。
「食べないの?」
もぐもぐしながら長谷部が言う。優花は慌ててスプーンを手に取った。
(緊張してるの、私だけなのかな)
長谷部から時間をくれと言ってきたくせに、どうして自分のほうがこんなに緊張しているのか。何となく悔しい気がして、とにかくオムライスを食べ始めることにした。
見た目は何の変哲もない、普通のオムライスだ。つるんと黄色いラグビーボールのような卵の上に、普通にケチャップがかかっている。
(オムライスって包むのが面倒だからあまり作ったことないけど……)
一口食べてみた。
「おいしい」
素直に感想が出た。
「そうでしょ?」
自分で作ったわけでもないのに、なぜか長谷部が得意げな顔で言った。それがおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
「やっと笑ったね」
「え?」
「だって、ずっと緊張した顔のまんまだったから」
図星を差されて、優花は黙り込んだ。その様子を見て、長谷部が優しく微笑む。その笑顔が今まで見てきた中で一番優しいような気がして、優花は慌てて目を伏せた。少し落ち着きかけていた心臓がまたどきどきと高鳴り始めている。
(なんか、また先輩に振り回されている気がする)
とにかく心を鎮めようと、優花はもう一口オムライスを食べた。長谷部も食べ始めた気配があった。そのまま二人はしばらく黙って食事を続けた。
優花は本題のことをあまり考えないようにして、オムライスのことを観察しながら食べた。夏休みのとき百合と一緒にファミレスに行き、優花が食べたのはドリアだった。それを後日、家でチャレンジしてみたのだが思いのほか好評だったのだ。以来、外で食事をするときは、家でも作れないかと思いながら食べるようになった。
(中身は、普通のチキンライス。……でもグリーンピース入ってる。お兄ちゃん、嫌いなんだよな)
案外、数馬は好き嫌いが多いので、こっそりいろんなものを料理に混ぜるのだが、グリーンピースはそう言う小細工が難しい。そのあたりは検討の余地がありそうだった。
(たぶん、包むときにスライスチーズを卵の上に置いて、その上にチキンライスだよね)
料理工程を想像しながら、味を確認する。これなら、家でもそれらしいものはできそうだった。
「何をそんなに考え込んで食べてるの?」
不意に話しかけられて、優花は慌てて顔を上げた。気づけば、長谷部はすでにほとんどを食べ終えていた。対して優花はやっと半分に到達するところだった。
「食べるの早いですね」
「そうかな? 普通だと思うけど」
優花の言うことにピンと来ていないような様子で長谷部が首を傾げた。その反応を見ていると、長谷部の食べるスピードが普通で、自分が遅いだけのような気がしてくる。
「私、そんなに遅いですかね」
「何か考えながら食べてるせいじゃない?」
「私、そんな考え込んでました?」
「そうだね。そんな感じに見えた。時々手が止まってたし」
気づかない間に観察されていたらしいことに、気恥ずかしくなった。ますます食べる手が止まってしまう。
「家でも作れないかなあって考えてるせいですね……」
恥ずかしさが抜けなくて、ごにょごにょとスプーンを置きながら優花はつぶやいた。
「家で?」
「毎日献立考えるのも大変なので、こういうところでヒントないかなあって、つい考えちゃうんです」
へえ、と長谷部は感心したようにうなずいた。
「で、オムライスは作れそうなの?」
「そうですね、たぶん」
「すごいなあ。じゃあ、唐揚げも作れる?」
「作りますよ。月に一回か二回は」
竜が来てからは、よく作るようになった。肉料理のバリエーションの中で、竜の箸の進みが最も速いと感じたのが唐揚げだ。竜自身が「これが一番好き」と言ったわけではなかったけれど、食べ方を見ていたらだいたいわかるものなのだ。
(今日、唐揚げにしようかな)
ここしばらく暑い日が続いたので、揚げ物をできるだけ避けていたことを思い出す。家に帰ったら材料を確認して、足りないものを買い足さなければ。そんなことに考えが及んでいると。
「彼がうらやましいなあ。毎日橘さんの料理食べられて」
にこにこしながら長谷部が言った。一瞬わけがわからなくて優花が首を傾げたら。
「あの、居候の彼だよ」
長谷部は表情を変えないまま補足した。優花は思わず息をのんだ。そして、竜のびっくりした顔が再び脳裏をよぎり、胸の奥底がひどく動揺した。
「俺が唐揚げ食べたいなって言ったら、橘さんは作ってきてくれる?」
まだ動揺を引きずっている優花は、何と返したらよいかわからなくて、ただ黙って長谷部の笑顔を見つめた。そのまましばらく見つめっていたら、長谷部が困ったように頬を人差し指でかいた。
「毎日とは言わないけれどさ、そういうことがあったらいいなあって思うんだ。橘さんが『彼女』だったらなって」
突如、今日の本題が降りかかってきて、優花はますます動揺した。長谷部の笑顔は、いつしか真剣な表情に変わっていた。優花の心の奥底を覗き込むように、真っ直ぐな視線を送ってくる長谷部。本当に覗き込まれてしまいそうで、優花は急いで視線を落とした。何を覗かれたら困るのかわからないまま。
「もしも、俺のことそんなに嫌いじゃなかったら……その、付き合ってみない……かな」
自信のなさそうな声が聞こえた。でもその声には、誠実さが含まれていた。優花が今まで受けてきた告白とは違う、怖れと、戸惑いがあった。そして、飾り気のない感情があった。こんな経験は初めてだった。だからこそ、どんなふうに対応したらいいのかわからなかった。適当にあしらってはいけない。ちゃんと答えなければいけない。でも、その答えを自分は持っていない……。優花は、半分残っているオムライスを睨みながら必死で考えた。
長谷部は、決して返答を促してこなかった。二人の間に、沈黙だけが淡々と流れた。学食のざわめきすら、遠ざかっていく。
(どうしたら……)
こんなときにも、竜の表情がよぎる。びっくりした表情。ふいっと視線をそらして去っていった竜。あの時の自分の感情。
ちゃんと考えたいのに、邪魔をしてくる。どうしてだろう。どうして、どうして、どうして。優花には、どうしてもわからない。
「私、付き合うとか、そういうの、よくわからないんです……」
絞り出すように、言葉が出てきた。長谷部が静かに見つめてくる気配があったけれど、顔は上げられなかった。
「好きとか、嫌いとか、今まで経験したことなくて、私、わからないんです。どうしたらいいか、わからないです……」
これが精いっぱいだった。この誠実さに、自分で答えられる精一杯の返事だった。
正直に、自分の今の感情を表す言葉がこれしかなかった。わからない。わからないというのが、今の正しい答えだった。
(ただの先送りという気がしないでもないけれど)
優花はぎゅっと両こぶしを握って、長谷部の返答を待った。今の自分に、これ以上の答えはできそうになかった。あまりに中途半端なような気がしたけれども、だからと言って他に言葉は見つからなかった。長谷部に伝わらなければ、それはそれで仕方がないことのように思えた。
「……じゃあ、嫌いじゃないって、とらえてもいいかな」
はっと弾かれたように顔を上げると、長谷部が戸惑いを隠さないまま微笑んでいるのが目に入った。
「別にいいよ。無理に付き合うとか、そういうの考えなくて……。今は」
「……今は?」
優花がおそるおそる聞き返すと、長谷部はゆっくりとうなずいた。
「そう。今は」
独り言のように言ってから、何かが吹っ切れたように長谷部は清々しい笑みを浮かべた。
「まずは友だち以上から、始めようよ。それ以上に想ってもらえるように努力すればいいんだ……俺が」
どきん、と心臓が騒いだ。その騒ぎ方は、決して嫌なものではなかった。
「とりあえず、食べちゃいなよ」
半分残っているオムライスを指さして、長谷部が言った。優花は慌ててスプーンを手に取ったけれど、とてもではないが食が進むような気分ではなかった。それでも、残すわけにはいかないという変な使命感がわいてきて、無理やり完食した。その間、長谷部はゆっくりと水を飲みながら待っていた。待たれているのが居心地悪くて、オムライスの味がよくわからなくなってしまう優花なのだった。




