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祭りの後のざわつき

 そのあとは、体育祭どころではなかった。席に戻ってきてからの、一部女子からの視線がとにかく怖かった。直接睨まれているわけではない。けれども、どことなく感じる、冷ややかで鋭い感情の数々。それらにできるだけ気づかないふりをしながら、目の前の競技のほうだけを見るように努めた。けれども不意によみがえる、竜のびっくりした顔。その時の、なんとも言えない自分の感情が思い出されて、胸が苦しくなった。

(今は思い出しちゃダメ。とにかく、この後のこと考えないと)

 この後のこと。体育祭が終わった後。うなずいてしまったからには、どう対処するか考えないと。そう思うのに、自分の中でぐちゃぐちゃしたものが邪魔をして、結局、考えをまとめることなどできなかったのだった。

 


 体育祭は、少し昼をまたいで終わった。八組は惜しくも総合成績二位だったが、応援合戦では全クラス中最も高得点を出したので、それなりに満足したという空気感になった。

 簡単に片づけを手伝ってから、更衣室に行って制服に着替える。この更衣室が厄介だった。女子だけになったこの空間では、あからさまな敵意がそこかしこから向けられてきた。優花に聞こえるくらいの声でひそやかに話す声もある。まだ、体育祭での場のほうがあたりはきつくなかったのだと思い知る。

「優花。早く行こ」

 百合が耳元でささやいた。小さくうなずきながら、手早く着替えをしまい込んで急いで外に出た。外に出たとたん、大きく息を吸い込んだ。気づかないうちに、息を止めていたらしい。一気に肺の中へ新鮮な空気が張り込んできて、軽くめまいがした。

「大丈夫?」

 心配そうに百合がのぞき込んできた。その顔を見ていたら、強張っていた体から少し力が抜けた気がした。

「私、やっぱり余計なことしたかな。優花の背中、押さないほうがよかったかな……」

 百合の眉が悲しげに下がる。百合はあの瞬間のことを悔いているらしかった。

 それは違う。百合は何も悪いことはしていない。むしろ、ぐずぐずしていた自分を後押ししてくれたのだ。優花はその思いを込めて、微笑みながら首を横に振った。

「そんなことないよ。あの時、押してくれてありがと」

「でも……」

「本当に、大丈夫だよ。それに今……私、一人じゃないし」

 素直な言葉が出てきた。百合がきょとんとした表情を見せた。

(そうなんだよね……。一人じゃないんだよね、今は)

 中学生の頃であれば、優花は一人きりでこの状況から逃げていた。心配してくれる人もいなくて、ずっと体を強張らせたまま、心をぎゅっと閉ざしていた。でも今は、百合が隣にいてくれた。ただそれだけで、全然違う。

「大丈夫だから」

 もう一度、さらにはっきりと言った。百合はしばらく考え込むようにしていたけれど、やがて「わかった」としっかりうなずいた。

「何かあったら、私に言ってね。私、優花の味方だからね」

 その言葉だけで、次に待っているだろう難しいことも立ち向かえる。心の底から思えた。



 帰りのホームルームが終わって、優花は図書室に一人で向かった。借り者競争の後、長谷部は図書室で待っていると言った。デートの前にも図書室で待ち合わせたことがあったけれど、今回は更に特別だった。ドアを開ける前に、気合が必要だった。

 ドアに手をかけて、思わず動きが止まる。息を吸い、お腹に力を込める。そして、ドアを横に滑らせた。

 図書室の中は静かだった。体育祭の後にわざわざ図書室に来る人もいないのだろう。例によって、打ち上げをしているクラスもあるのかもしれない。

 長谷部は前のときと同じように、机に参考書とノートを広げて勉強していた。

(やっぱり……細くてきれいな指)

 シャープペンを持ってノートに問題を解いている長谷部の手の動きに優花は見入った。以前来た時もまた、こうやって長谷部の手をずっと見ていた。どういうわけか、長谷部の手に意識が吸い寄せられてしまう。あの手に引っ張られてグラウンドで走ったのは、ついさっきのことだ。そのことを思い出すのと同時に、再び竜の表情が唐突に脳裏をよぎる。優花の胸がぎゅうっときつく締め付けられる。思わず胸に手を当ててしまった。そのとき、長谷部が顔を上げた。

「あ……」

 目があって、優花は思わず一歩下がってしまった。胸に当てた手がかすかにふるえているのを感じた。

 長谷部はふっと小さく微笑んで、参考書とノートを閉じた。

「じゃあ、行こうか」

 カバンを持ちながら、長谷部が優花のそばまでやってきた。

「え、ど、どこに?」

 緊張で声がかすれていた。自分でもびっくりするほどの動揺だった。それが全身から出てしまっているのだろう。長谷部がおかしそうに笑った。

「お昼、食べようよ。俺、お腹空いたんだ。橘さんもそうじゃない?」

 言われてみれば、そんな気もした。あまりの緊張で、お腹の空き具合も感じていなかった。

「こういう日は、案外学食が空いてるんだ」

 そう言って、長谷部が優花の前を歩きだす。優花は慌ててその背中を追って歩いた。

「橘さん、学食行ったことある?」

「い、いいえ。いつもお弁当だし、学食は混んでるし……」

 この高校の学食は美味しいことで評判だったのだが、優花は行く機会がないまま二学期を迎えていた。学食の席は早い者勝ちで、席数もそこまで多くないのであっという間に埋め尽くされてしまうのだ。そういう人ごみが嫌いな優花は寄り付こうとも思わなかったし、お弁当があるから用もなかった。

「お弁当毎日作ってるんだ」

「作っているというか、昨日の夕飯の残り物を詰めてるだけです。ご飯だって詰めるだけで特に何もしてないんです」

「でも、その夕飯は自分で作ってるんでしょ?」

「まあ、大体はそうですけど……」

「今日は持ってきたの?」

 その質問に、優花は首を横に振った。

「今日はないです。体育祭終わったら帰るつもりだったから……」

 こんな予定ではなかったのだ。そういえば、佳代に連絡していなかったと思い至る。佳代がお昼ご飯を用意して待っているのだ。あとですきを見て連絡しないと、と考えていたら。

「なんだ、残念」

 その言葉に優花が首を傾げると、長谷部は少しいたずらっぽい表情を浮かべて言った。

「橘さんが作った料理、食べてみたかったなと思って」

「え……」

「いつか、食べさせてね」

 優花は何と返したらいいのかわからず、ただ長谷部から視線をそらした。心臓がどきどきと激しく鳴っていることを悟られたくなかった。

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