初めての体育祭 後編
次は、三年生によるクラス対抗競技だった。ただ、三年生は全員参加ではなくて、希望者のみが参加らしいが、結構な人数の三年生が参加しているようだ。
そんな三年生の競技名を見ながら、優花と百合は考え込んでいた。
「借り『者』競争だって」
「字のミスじゃないんだよね?」
「たぶん……?」
競争の列に並んでいる三年生を見やった。その列の後ろの方に長谷部がいるのを見つけた。周りにいる宮瀬やほかの男子たちとなにやら楽しそうに話しながら列に並んでいる。
「人を借りるってことなのかな? 物じゃなくて」
「そういうことなのかな」
説明がなかったので内容がつかみきれなかった。よくわからないまま、第一走者のスタートの合図が鳴ったのが聞こえた。
お題の書かれたカードを持って、三年生がそれぞれに散る。様子を見ていると、誰かを指名しているようなので、やはり目的は「人」を借りることのようだ。
その中で気づいたのが、女子から長谷部への指名率の高さだ。お題を持った女子が頬を上気させながら長谷部のところに走る。指名されたら走らなければいけないのか、長谷部はいちいちその女子についていく。ゴールして、そしてまた列に戻る。それを何回か繰り返しているのを、優花は自然と目で追っていた。
「長谷部先輩、何度目だろ? お題、そんなにかぶるのかな」
百合も気づいたらしく、独り言のようにつぶやいた。
「お題、なんなんだろうね?」
優花も首を傾げた。百合は少しうなって考えてから、あ、と思いついたように言う。
「モテる人、とか、かっこいい人とか」
「なるほど」
それならわかる、と思う。同時に、そのお題を手にして長谷部のところに走るのを想像して、とんでもなく勇気がいりそうなことだと考える。そんなの、告白みたいなものではないか。そんなお題が当たってしまったら、自分はどうしたらいいものか……。
「あ、先輩が走るよ」
ピィッとスタートのホイッスルが鳴って、長谷部が走り出す。そして机の上のカードを裏返してお題を見た。少し考え込むような顔をして、走り出す。優花たちのクラスの方に向かって。
周りの女子が少し色めき立ったのが分かった。今更ながら、長谷部の人気ぶりに感心する。少し……いや、最近では結構仲良くしてしまっている自分があらぬ因縁をつけられるのは仕方がないことなのかもしれない、などと考えていたら……。
「橘さん」
その声と同時に、さっと嫉妬の眼差しが優花に集中した。
「橘さん、来てくれる?」
長谷部が手を差し伸べてくる。優花は目を丸くして長谷部の顔と手を見比べる。突き刺さる嫉妬と野次馬の視線がきつい。優花はぽかんとしたまま、頭も体も動けなくなっていた。
「優花、ほら。優花ってば」
百合の声で我に返る。でも、優花はまだ動けないまま突っ立っている。
「いいから、ほら。早く行って」
無理やり百合に背中を押されて、優花はつんのめるように前に出た。そこにすかさず長谷部が優花の手を取った。その途端に、悲鳴交じりのざわめきが起こった。
(え、いや、まずいでしょ!)
この間、長谷部とは付き合っていないと夏葉たちに宣言したばかりだというのに。この状況は絶対にまずい。そう感じて慌てて手を引っ込めようとしたけれど、長谷部がつかむ手の力を強めた。
「逃げないでよ。とにかく走るよ」
そのまま強引に引っ張られて、優花も仕方なく一緒に走り出す。
「あ、あの。手はもういいんじゃ……」
「いいよ。このまま行こう」
長谷部はさわやかに笑って見せると、本当に手を放さないまま走った。振りほどきたいけれど、この公衆の面前で振りほどいてしまうのもどうなんだろうかと、頭の隅で考える。というより、あまりにがっちりとつかまれているので振りほどきようもない。
(うう、このままゴールするしかないのか)
観念しようと、顔を上げた時だった。
校庭の塀の向こう、こちらを見ている人がいるのに気付いた。その人の正体に気づいて、息が止まった。
(竜!)
瞬間、足が乱れた。優花はそのまま転んだ。転んだ拍子に、長谷部から手が離れた。
「ごめん! 大丈夫?」
慌てた様子で長谷部が振り返る。
「あ……大丈夫、です……」
うわの空で答えながら、もう一度塀の向こうを確認する。びっくりした顔をしている竜が、確かにそこにいた。
(竜……)
本当に見に来たのか、という恥ずかしさと、なんでこのタイミングで見に来たの、という怒りがふつふつとわいてくる。よりによって、長谷部と一緒に走っているところなんて。
(一番、見られたくなかった)
怒りの後に、やるせない感情が込み上げてきた。ほんの短い間、見つめあった。が、竜はふいっと視線を逸らすと、そのまま立ち去っていった。
「立てる?」
長谷部がもう一度手を差し伸べてくる。少し迷ったけれど、その手を取って立ち上がった。半分、自棄だった。
「走れるかな?」
優花がうなずくのを確認すると、長谷部は走り出した。もう手はつないでいなかった。優花は目頭が熱くなりそうなのをぐっとこらえながら走った。
(バカ。バカバカ。なんで来たの。なんで、どうして)
いろんな感情が一気にぐしゃぐしゃに入り混じって、どう処理したらいいのかわからなかった。なにもわからない。わかりたくない。今は何も考えたくない。それなのに、名前の付けられない感情の波が次から次へと押し寄せてくる。
その波から逃げるように、グラウンドのラインだけを睨むようにして、ただ走った。
結局、優花が転んだせいで長谷部はビリでゴールした。優花は気持ちの整理がつかないまま、とにかく長谷部に謝らなければならないと思った。
「ごめんなさい……」
「いいよ。俺が無理に引っ張ったから。こっちこそごめんね。もう痛くない?」
それは違うのだ。優花が竜に気を取られたせいなのだ。でも、これを正直に説明することはできなかった。この心の動揺を話したら、ますます混乱してしまうような気がして、結局何も言えないまま首を横に振った。二人の間に、何とも言えない重い空気が漂った。
「そうだよ、無理に引っ張られたら困るよねえ?」
長谷部の後ろから明るい声で話しかけてきたのは宮瀬だった。
「ちゃんと後ろ見て走ってあげないとダメだろ」
宮瀬が長谷部の背中をたたきながら言う。その声はやっぱり明るいので、何となく重かった空気が薄らいでいく気がした。
「わかってたけど、なんか……ごめんね。本当」
申し訳なさそうにまた長谷部が頭を下げる。
「いえ、私こそ、ごめんなさい」
優花も頭を下げようとすると、「ダメダメダメ」と宮瀬が割って入ってきた。
「もうお互い謝ったんだからおしまい。これじゃキリがないしさ」
ところで、と宮瀬が長谷部を振り返った。
「お前のお題、なんだったの? もしかして、例の?」
「……まあ、そうだよ。例のやつが当たったよ」
長谷部が渋々といった様子でうなずいた。
「おお。マジか。やったなあ」
(例の?)
何のことかわからなくて、優花は首を傾げた。お題については何も聞かされていない。ただ指名されて走っただけで、なんで選ばれたのかがわからないままだった。
「なんだ、橘さんに説明してないのかよ。ちゃんと言ってやんなきゃダメだろ」
ほらほら、と宮瀬が長谷部の背中を押して、優花の方へと近づけてきた。長谷部は困った顔をしながら頬を人差し指でかいた。
「……これだよ」
逡巡ののち、長谷部は持っていたカードを見せた。
今、一緒に走りたい人。
それだけが書かれていた。
どうにでも受け取れそうな、何ともあいまいな内容だった。優花が判断しかねて何も言えずにいると、宮瀬が説明した。
「これ、十枚に一つくらいのけっこうな確率で入っててね、一応、誰でもいいよってことになってるんだけどさ。このカードは代々『告白カード』とも呼ばれてるんだ。うちの高校の伝統の一つなんだって」
「告白……」
その言葉を反復してみて、優花はその意味に気づいた。どきどきと心臓が騒ぎ出して、目の前がちかちかしてくる。
「な? 長谷部」
ぽん、と軽い感じで宮瀬は長谷部の背中をたたいた。長谷部は何も言わず、気まずそうに優花から視線をそらした。
「ま、ともかくだ。あとは二人でゆっくり話してくれよ」
宮瀬は「じゃ」と言って手をひらひら振りながら二人のそばから離れていった。
(二人でゆっくりって言っても……)
この校庭のど真ん中で、ギャラリーの多い中で一体何を話せというのか。
(竜が、どこかで見てるかもしれないのに)
今、周りを確認してみる余裕はなかった。その勇気もなかった。もしまだ竜がどこかにいて見ていたなら、それに自分が気づいてしまったなら、今度こそ動揺を隠し通せなくなる。そんな気がしていた。
「こんなとこじゃ話せないから……」
囁くようにして長谷部が言う。
「あとで、時間くれる?」
困ったような笑みだった。でも、その瞳の奥に真剣さを感じ取った。その途端に、優花の心はまた違った具合でざわざわと騒ぎ始めた。
なんだか、怖い。なにかが変わろうとしている。自分の中の、知らなかったところが、あばかれようとしている。
でも、と優花は目を閉じた。
きっと、もう知らずにはすまされないのだろうという、確信に近い予感があった。ここで一歩踏み出しても、出さなくても、それはきっと変えられない、そんな予感だった。
目を閉じていたのは、つかの間だった。でもその間に、先ほどのびっくりした顔の竜の姿が浮かんで、消えた。
(私、どうするの。どうしたい……)
すっと目を開けた。目の前には、変わらず困り笑顔の長谷部がいた。優花の返事を待っているのだ。とりあえずこの場での、イエスか、ノーを。
優花は、大きく息を吸いこんだ。そして、答えた。
「……わかり、ました」
と。




