竜の誤解
(えっと……豚肉、いや、鶏肉買おうかな)
優花は自転車を押しながら、商店街を歩いていた。今日の夕食は生姜焼きにしようか、とりの照り焼きにしようか。とりあえず、何か肉料理を考えている。竜が来てからは特にそうだ。竜はどんな料理にも文句を言わないし、魚でも鶏肉でも、野菜メインのときだってすべて美味しそうに食べるし、残したこともない。けれども、肉料理のときの箸の進みは断然違う。とにかく速いし、ご飯の量も多い。それに気づいてからは、週の献立で肉の日がなんとなく増えた。それだけわかりやすくおいしそうに食べてもらえると、作るほうもその気になってしまうものなのだ。
(やっぱり、豚肉)
よし、と心の中でうなずいて、肉屋を目指す。
「優花」
聞きなれた声がして振り返る。
「あれ? 竜」
優花の視線の先に、汚れた作業着姿で白い歯を見せて笑う竜がいた。竜は自転車を押しながら優花に近づいてきた。
「どうしたの、こんなところで。仕事は?」
「今日はヒマなんだってさ。だから定時ぴったりに上がり。今なら優花が買い物来てるかもと思って来てみたら、やっぱりいた」
「何それ」
「今日の夕飯何かなーって」
「家で待ってればわかるのに」
「教えてよ、いいじゃん」
「豚の生姜焼き」
「やったー。俺の好きなやつ」
無邪気に喜んでいる笑顔を見て、優花も自然と笑顔になる。そのまま、二人で肉屋に行って豚肉を購入する。
「今日は二人で仲良く買い物?」
肉屋のおばちゃんが肉をつつみながら大声で聞いてくる。おばちゃんは地声が大きい。そのうえ体も大きいから迫力満点なのだ。
「そうでーす。仲良く買い物でーす」
いつも以上に愛想よく竜が答えた。
「たまたまそこで会ったんです。別に仲良くないです」
優花は特に感情を込めずに答えながら、おばちゃんにお金を渡す。
「優花ってば、つれない」
「つれなくて結構」
そこまでのやり取りを聞いて、おばちゃんは豪快に「あっはっはっ」と笑った。
「仲がいいことはいいことだよ」
商店街の人々の間で、竜が橘家にいるのは周知の事実になっている。こちらから詳しくは話したことはないが、竜の生い立ちに何か複雑な事情があることも知っている。なぜ知っているかというのも……。
「おばちゃん、あいかわらずいい声で笑うよね。だからおばちゃんちの肉美味しいんだよ。俺、この町に来てよかったなーっていつも思う」
竜が白い歯を見せながら最高の笑顔でおばちゃんに話しかける。
「あーれ、嬉しいこと言ってくれるね」
いい声だから美味しい、という論理展開のおかしさはさておいて、竜の言葉におばちゃんの上機嫌に拍車がかかった。今や竜は、肉屋のおばちゃんに限らず、今や商店街のマダムたちの人気者になっている。
ここに引っ越してきた当初、誰に聞かれるでもなく、竜は自分の事情をぺらぺらとしゃべり歩いたのだ。(マダムたちから見れば)かわいらしい顔をした男の子が、なんともかわいそうな境遇で、それでも明るくふるまっている。もうこれだけで十分すぎるほど周りの心をつかんでしまっていた。その上、優花の境遇もプラスアルファになって、「みんなであの子たちを支えてあげましょうね」みたいな空気感が漂うようになった。最初はその空気感に複雑な気分を覚えたのだったが、おばちゃんたちが一致団結してくれているのは見ていて頼もしいと思ったので良しとした。
(おかげで、変な噂が流れたり、余計なこと聞かれずに済んでいるんだけどね……)
ある日それに気づいたとき、竜が自ら根回ししたのではないかと思えた。優花たちが変な噂の的にならないよう、先に自分からしゃべってしまうことで守ろうとしてくれたのではないか……。そんな考えに至ったけれど、竜に直接聞いたわけではない。聞いたところで、答えてくれるとは思えなかった。百合と気まずくなっていた時、気づかないほどさりげなく二人の間に入って、そして何も言わない竜なのだ。
「あと何買うの?」
八百屋でキャベツを買った後、竜が尋ねてきた。
「あとはお米買わなきゃ」
「あー、朝話してたな。そんなこと」
昨夜、夕飯の準備をしているときに気づいたのだが、米の買い置きを買うのをすっかり忘れていたのだった。普段は数馬がいる土日にまとめて重いものは買うのだけれど、誰の頭からも肝心なお米のことがすっかり抜けていたのだった。いつもなら、佳代か優花が気づくのだが、佳代は二ヶ月になった愛実に手がかかっていて気が回らなかったし、優花はまだお米はあるものだと思い込んでいた。
「今日私が買ってくるよ。五キロくらいなら自転車でも平気だし」
朝ごはんのとき、優花はそう言った。佳代が心配そうに「自転車だと大変よ」と言ったが、優花は「平気平気」と軽く受け流した。二ヶ月になった愛実をほとんど母乳で育てている佳代にとって、お米は一番大事なエネルギー源なのだ。うっかり切らしてしまってはいけないものだったのに。
「じゃあ、俺が米持つよ」
「え」
「たまには俺に頼りなさいって。ちょうど会ったんだしさ」
「あー……うん。じゃあ、お願い」
優花がうなずくと、竜は満足そうににかっと笑った。
(もしかして、そのために仕事さっさと終わらせてここに来た?)
これも、聞いたところで答えてはくれないのだろう。ただの偶然だと言い張るのが目に見えている。竜は、自分の気遣いや優しさを極力見せないようにするのを信条としているらしい。竜が橘家に来てから半年、優花は何となくそう感じ取っていた。本当は誰よりも気配りをしていて、誰よりも先回りして助け、何もしなかったふうに去っていく……。
(まさか。この間)
急に思い至った。
長谷部とデートしたあの日。長谷部に送ってもらって、家まで来た。その瞬間に、竜が家から出てきた。コンビニに行くところだと言って、そのまま行ってしまったけれども、竜は普段あんな時間にコンビニに行かない。というより、無駄なお金を使わないようにして、普段からあまり出かけない。
(まさか、私のこと迎えに来ようとしてた?)
あの日はいろいろあって、思っていたより帰りが遅くなってしまっていた。数馬に頼まれずとも、竜なら迎えに行こうと思いつくかもしれない。それこそ「コンビニ来たついでに迎えに来たよ」とでも言って、いつものように偶然を装いながら。
(まさか……ね)
それはさすがにうぬぼれすぎかもしれないと思いなおした。竜だって、たまにコンビニ行くときだってあるだろう。自分が知らないだけで、仕事の合間とかにはコンビニによく立ち寄っているのかもしれない。優花は今思い至った考えを急いで消そうとした。でも、消そうとすればするほど、正しいことのように思えてきて、頭の中がもやもやしてきた。
そんな時だった。
「あれ? 橘さん?」
急に声をかけられて、ぎょっとなる。反射的に声のしたほうを振り向けば。
「と、遠野さん?」
クラスメイトの遠野夏葉が立っていた。先日の一見以来、彼女から何のリアクションも起こされていない。けれど、毎日の教室で、じっとりとした敵意のようなものを薄々と感じている。できる限りかかわりを避け、平和に過ごそうと努めていたのに、こんな日常の風景の中で出くわすなんて。
「遠野さん、どうしたの? こんなところで」
動揺を見せないようにして、努めて普通の声を出した。
「私、文化祭の買い出し班なの。値段のリサーチに来てて」
彼女もまた、ポーカーフェイスで答える。が、視線は優花の隣にいる竜に向けられた。一瞬考えるような表情を見せて、彼女は言った。
「……もしかして、橘さんの彼氏?」
「えっ……違うよ!」
ほとんど何も考えずに言葉が出た。違うよと叫んでから、思わず竜の様子を見た。竜は、ぽかんとした表情で遠野夏葉を見ていた。
「違うの?」
彼女は相変わらず平坦な調子で尋ねてくるが、その裏にどことなく棘を感じるのは気のせいではないだろう。
「うん、違うよ」
あっさりとした調子で答えたのは竜だった。
「俺と優花はなんていうか……遠い親戚?」
竜は優花を見て首を傾げた。
「そ、そう。それ。親戚。ちょっと遠いけど」
ちょっとどころではない、佳代や愛実がいなければほとんど他人なのだが、今は竜のその言葉に乗っかることにした。あんなことがあった後で、変に勘繰られたくはなかった。
「ふうん……親戚」
何となく腑に落ちないような、でもそれ以上突っ込みづらいような、遠野夏葉は微妙な表情をした。このまま何も聞かれず、過ぎ去ってほしい。心の中で必死でそれを願っていた。いたのだが。
「俺が彼氏なんてありえないよ。だって、優花にはあの先輩がいるじゃん」
「えっ……」
竜の発言に、優花は目を丸くして竜を見る。瞬時に、竜が誤解していることを悟る。玄関前で出くわしてしまったあの時。
(あの時から、竜はずっとそう思って)
途端に、ずしんと心に重石が落ちてきたような気がした。心臓が急にどくどくと嫌な速度で鳴り出した。
「そ、それこそ違うってば」
激しく首を横に振って否定した。訝しげな表情で竜が首を傾げた。
「そうなの?」
「そうだよ」
眉間を寄せて、竜が黙る。たぶん、信じていない。というか、判断しかねている。何を竜は迷っているのだろう。なぜ、あっさりと「そうなんだ」と納得してくれないのだろう。竜の表情を見つめるほど、イライラが徐々に募ってくる。
「そうなんだってば」
思わず、かっとした声が出た。竜が目を瞬かせて優花を見つめた。でもまだ考えている。迷っている。それにまたイラついてしまう。なんで竜はわかってくれないのだろう。違うと言っているのだから、違うのに。
「ちょっと。こっちを無視しないでくれる?」
不意に声をかけられて、優花は弾かれたように振り向く。見れば、遠野夏葉が腕組みをして睨んでいた。
「別に、無視してるわけじゃ……」
と言いつつ、本当は彼女の存在が頭から吹っ飛んでいたので、声のトーンは弱くなった。
「ま、別にいいけど」
じゃあね、と含みを持たせた口調で言い放って、遠野夏葉はさっと踵を返して立ち去っていった。
「……早く、お米買おう」
彼女の姿が見えなくなってから、優花は独り言のように言って、自転車を押しながら歩き出した。後ろから、竜がついてくる気配があった。竜は何も言わなかった。
(なんで? 違うって言ってるのに)
遠野夏葉がどう思っていようが、今の優花には気にならなかった。ただ、竜がすんなり納得してくれないこと、信じてくれないことがただ腹立たしくて、悲しくて。でも、何か竜に言えるわけでもなくて、優花は、握っている自転車のハンドルをさらに強く握りしめた。