再びのはちあわせ
薄暗いアスファルトの歩道の水たまりに、小さな波紋が広がった。街路樹の葉が、滴を垂らしたらしい。その脇を、二人の足音がゆっくりと通り過ぎた。
「雨、あがってよかったね」
長谷部が独り言のように言った。
「そうですね」
優花もまた、小さくつぶやいた。
そこから、二人は再び黙り込む。足音と、時折落ちる水の音だけが、耳の中に届いている。
紗百合の店を出てから、ほとんど言葉らしい言葉を交わしていなかった。何を話せばいいのか、わからなかった。
長谷部のことを知りたいと思って、今日のデートになった。けれど、こんなにいろいろなことを知りすぎてしまって、優花はそのデータの多さに軽く混乱していた。きっと、長谷部が知られたくない過去のことだったと思う。もしかしたら、思い出したくもなかったことかもしれない。
あのとき、あのタイミングで店を出なかったら、土砂降りの雨が降っていなかったら、紗百合が雨宿りに飛び込んでこなかったら。今さら考えても仕方がないけれど、優花はついつい考えてしまう。一つでもタイミングがずれていたら、今日は、単純に「楽しかった日」で終わっていただろう。優花にとっても、長谷部にとっても。
(先輩は今、何を考えているんだろう)
ちらりとその横顔をうかがってみるけれど、何の感情も読み取れなかった。ただ、少し視線を下に向けて、ひたすらに歩いている。長谷部は特に何も言わなかったけれど、優花の家まで送る意思がある様子で、駅を通り過ぎて、住宅街への道へと入っていった。「一人で大丈夫です」といえる雰囲気でもなくて、優花は黙って一緒に歩き続けた。時折出そうになるため息を押し殺しながら。
「あのさ」
突然、長谷部が立ち止まった。つられる形で優花も歩みを止める。
長谷部は、声を発したはいいけれども戸惑っている様子で少しの間目を泳がせた。言葉を探すように、唇がわずかに動いて閉じて、再び開いて、息を吸い込んだ。
「今日は……ありがとう」
少しかすれた声が聞こえてきた。優花は、うつむいて「こちらこそ」とつぶやくのが精いっぱいだった。
「気にするなっていうのが、無理かもしれないけど、今日のことは、その……」
また長谷部は口を閉じる。優花とは目を合わせない。優花も、様子をうかがうだけで目を合わせられない。
「とりあえず、なかったことにして、学校ではいつも通りにしてもらえないかな。学校だけは、何も考えずにいたいんだ。あと、半年だけだから、考えずに済むのは……だから……」
長谷部の言葉は、優花が理解するには少し足りなかった。推測で補うなら、「長谷部家のことを考えないで済むのは、あと半年だけだから」ということだと思った。長谷部が抱えているもの。心の奥底にある重いもの。学校にいる誰が、想像できるだろう。普段の長谷部が見せている学校での態度から。きっと、ほとんどの人が知らない、深い深い、心の闇の中。
「わかりました」
やっとのことで答えた優花を見て、幾ばくかほっとしたような表情を見せる長谷部。この答えが正解だったことを悟って、優花もまた安心した。何も言うまい。何も問うまい。百合にも、誰にも話すまい。もう一度、胸の中で決めて、小さくうなずいた。
「ありがとう」
口の端だけで力なく微笑むと、長谷部は再びゆっくりと歩き出した。優花は黙ってその少し後ろを歩いた。それから、優花の家までは何も会話はなかった。二人の間にあるのは足音だけで、邪魔をするような音や出来事は何もなかった。
時間をかけて、優花の家の門の前に着いた。門に手をかけて、優花は長谷部の顔を見た。長谷部は優しく微笑んだだけだった。
「今日は……楽しかったです」
優花の言葉に、一瞬長谷部は目を瞠ったが、すぐに微笑みに変わった。
「また、誘っていい?」
今度は優花は目を瞠る番だった。考えるより先に、うなずいている自分に驚いた。
その時、優花の家の扉がすうっと開いた。びっくりして、優花も長谷部も扉のほうを振り返った。
「……優花?」
扉のドアに手をかけているのは、竜だった。
(あ、えっと……どうしよう!)
知らぬ間に、長谷部から少し距離を置いていた。竜は、ドアノブに手をかけたまま二人を見比べている。でも……。
「あ、なんだ……そういうこと?」
わざとらしいほどに明るい声で、竜はドアを閉めながら白い歯を見せて笑った。
「なんだ、そういうことなのかよ」
もう一度、同じ言葉を繰り返して、竜は優花たちのほうへ近づく。
「俺に内緒にする必要なんてないじゃん。あ、もちろん数馬さんには黙っておくけどさ。ばれたらいろいろ大変なのがわかるよな」
竜は門を開けて、二人の横を通り過ぎようとしていく。
「え、あの、竜、どこ行くの?」
我ながら間抜けな声が出たと思った。竜は更に調子の良い笑顔で答えた。
「コンビニ」
「……あ……そう……」
普段、こんな時間にコンビニに行くようなやつだったっけ? そんなことを考えつつ、優花は足早に去っていく竜の背中を呆然と見つめていた。
(なんていうか、拍子抜けっていうか、なんというか……)
今の自分の気持ちを表す言葉を、優花は知らなかった。同時に、なぜこんなに罪悪感を覚えているのかもわからなかった。
何に対して、誰に対しての罪悪感なのだろう。確かに、竜に本当のことは言わなかったけれど、それはただ単に面倒だと思っていただけで、一応佳代にはちゃんと話してあるのだから、何も問題はないはずだし……。無意識に言い訳じみたことを考えてしまう理由も、わからなかった。
「そういう、顔をするんだね」
「え?」
長谷部を振り返ると、困ったような笑顔がそこにあった。優花が首をかしげていると、長谷部はくすっと笑った。それは、いつもの余裕な調子の長谷部だった。
「じゃあ、また学校でね」
さっと手を振ると、長谷部は颯爽と歩き出した。その背中は、どこか楽しそうな雰囲気だった。
その夜は、なかなか寝付けなかった。体は疲れているのに、目が冴えてしまっていておかしな感じだった。何度も寝返りを打って、どうにか眠ろうと試みているが難しい。思い切って起き上がり、ストレッチみたいなこともしたけれど、やはりダメだった。
(なんか、お茶でも飲もう……)
優花はそうっと階段を降りていった。万が一にも、ちょっとした足音で愛実が起きてしまったら佳代たちに申し訳ない。しんと静まり返っているからこそ、慎重に足を進めた。
と、リビングのドアの隙間から光が一筋廊下に伸びているのに気づいた。
誰かが起きている? それとも消し忘れ? そんなことを思いながら、ゆっくり音を立てないようにドアを開ける。
「……竜?」
ダイニングでは、竜が麦茶を飲んでいるところだった。竜は優花に気づいてコップから口を離した。
(なんか、気まずい……)
その気持ちを表情に出さないようにしながら、ドアをそっと閉めた。夕方、竜がコンビニから帰ってきたあと、数馬の手前もあってか、長谷部のことは何も聞かれなかった(佳代は聞きたそうに少しうずうずしていたけれど、同様の理由で何も聞いてはこなかった)。でも、今二人きりのこの状況で、訊ねてくるのではないか。そんな気がしている。
「なんだよ、優花ものど乾いたとか?」
ささやきに近い声で竜が尋ねてくる。
「まあね」
「そっか」
と言いながら、竜はもう一つコップを出して麦茶を注いだ。
「ほい」
「ん、ありがと」
竜から差し出されたコップを受け取り、一口飲んだ。無自覚だったけれど、結構のどが渇いていたようだ。じんわりと水分が口の中とのどの奥にしみこんでいく。体からほっとしたように力が抜けていった。
「今日さ」
竜のその言葉に、どきんと心臓が跳ねた。コップの中の麦茶もぴちょんと軽く跳ねた。
「……急な雨が降って大変だったよな」
「え……」
思っていたのと違う続きの言葉に、思わずぽかんとなる。
「洗濯もの入れた直後に土砂降りになったんだ。間一髪ってああいうことだよなー」
「へえ……そうなん、だ。よかったね、濡れなくて」
(何、なんなの、急に)
優花は落ち着こうとして二口目を飲んだ。
(いや、別に、急にってことでもないのかな。普通の会話って言えば、普通かな)
身構えすぎて、要らぬ心配をしているだけなのだろうか。竜にとっては、別に何でもないことだったのだろうか。たまたま、はちあわせてしまっただけ。ただそれだけのことだったのだろうか。そう思いいたった途端に、ずきんと心の奥が痛んだ。
「なんか、最近の天気って読めないよなあ。急に変わるんだから」
「ホント、そうだね」
心の奥底を悟られないよう、普段通り、普段通りと優花は言い聞かせている。
「自転車通勤だとさ、そういうの困るんだよ。合羽持ってくかどうするか悩む」
「会社においておけばいいんじゃないの?」
「置いておくとカビそうでヤなんだよ。ロッカーあるけど、風通しの悪い場所にあるし」
「じゃあ、毎日持っていけば」
「それもかさばるからなあ」
「そしたら、濡れて帰るしかないじゃない」
「……やっぱ、毎日持ってくしかないんか」
竜は勝手に納得したようで、仕方なさそうにうなずき、残りの麦茶をくいっと飲み干した。
「じゃ、俺寝る」
竜はコップを手際よく洗い、食器かごに入れた。
「おやすみ」
「あ……うん。おやすみ」
機械的に返事をしていた。唐突に話題が終わって、優花の思考回路は追いついていなかった。パタンとかすかに音が鳴ってドアが閉まると、優花はぽつんと一人残された。
(……なんなの。一人でしゃべるだけしゃべって)
別に、根掘り葉掘り詰問されたかったわけではない。でも、ここまで一切話題に触れられないのも、奇妙な感覚だった。竜は、これから先も一切聞いてくることはない。そんな予感があった。
(やっぱり、竜にとっては聞くほどのことでもないってことかな)
優花は再び麦茶を飲んだ。今度は多めに飲んだ。でも意識は違うことを考えていたせいなのか、盛大にむせてしまった。
(それならそれで、何にも話さないし。聞かれたって、何にも答えないんだから)
ゲホゲホ咳をしながら、心の中で叫ぶ優花だった。




