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長谷部の生い立ち

「俺は、長谷部家の養子なんだ」

 極めて平坦な口調で長谷部は言った。

「養子……?」

 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。徐々に理解が追い付いて、優花は言葉をなくした。

 そんな様子の優花を見て、長谷部は少し困ったように微笑んだ。

「と言ってもね、長谷部の父は実の親なんだ。で、さっき出てきた芽依子っていうのが、俺の実の母」

 ますます混乱する優花に、長谷部は順を追って説明してくれた。

 


 芽依子はとあるスナックのホステスとして働いていた。もともと身寄りのない女性で、水商売で生計を立てながら一人つつましく暮らしていた。

 その店に客として訪れたのが、長谷部の父だった。

「客とホステスって関係だったのが、いつの間にか……っていう、なんか安いドラマみたいな、でもよくある話だよね」

 自嘲気味に口だけで長谷部が笑った。

「長谷部家は、地元の名士っていうのかな。昔からその土地の名主だったとかで、やたらと不動産を持ってて、親戚に議員やってる人がいたり、どっかの社長だったりする人が結構いるような……まあ、そういう家なんだよ」

 長谷部の家はきっとお金持ちなのだろうと思っていたけれど、想像以上のようだった。そして、長谷部が継がなければならないという会社も、その一つなのだ。

「そのうち、父は結婚した。その相手は、いいところのお嬢様で、長谷部の家にとって相応しい人だった。——つまり、俺の母は捨てられたんだよ。母のお腹の中に俺がいたにも関わらずね」

 あまりにも淡々と話すので、まるで作り話のように聞こえた。でもそれは、長谷部がほとんどの感情を押し殺しているからそう聞こえるのだ。本当は、話すのも辛いのだろうと優花は思った。

 芽依子は、一人で子どもを産んで、一人で育てた。昼夜通して働いて、母子二人の生活を何とか支えていった。そんな中で出会ったのが、紗百合と圭輔だった。

「俺が五歳くらいだったかな。ある日、圭輔の手を引いて紗百合さんが母の勤めてたスナックに来たんだよ。働きたいんですけどって」

 紗百合は夫とカフェを営んでいたらしいが、その夫が病気で亡くなってしまい、一人で店を続けることもできなくて閉めてしまったのだという。幼い圭輔を抱えて生活する手段として、紗百合は水商売を選んだ。収入面や、カフェをやってきた接客業の経験も理由だったけれど、結婚する前にホステスの経験があったというのも選んだ理由の一つだった。

 芽依子と紗百合は歳も近く、頼れる身寄りもいないことに加えて、歳の近い子どもを抱えているという共通点もあって、すぐに仲良くなったのだそうだ。

「圭輔はかわいくないやつでさ、俺より年下なくせに、全然泣きもしないし、わがままも言わないやつだったよ」

 長谷部がふっと面白がるように笑った。圭輔は、きっとそのころから無口で、あまり表情が出ない子だったのだろう。

 子どものころの長谷部と圭輔が一緒にいるところも想像してみたけれど、うまく結び付けられなかった。二人が知り合いだったなんて、今でも信じられない気持ちでいる。

「母親二人の帰りが遅いときは、よく二人で留守番してたな。家も近かったんだよ」

 懐かしむように、長谷部は遠くを見ながら話す。

「うちも、圭輔のうちも生活はカツカツだったけど、俺はなんの不安もなかった。たぶん、圭輔も……。今ならわかる。俺、あの頃は幸せだったんだなって」

 あの頃は。

 何げなく漏らした一言だったのだろうけれど、優花の心に鋭く刺さった。その一言に、長谷部が心の奥底に抱えている空虚感が表されていた。

「まあ、そんな感じで割と平穏に過ごしていたんだけど、突然、母に長谷部の家から連絡が来たんだ。俺を、養子にしたいって」

 それは、長谷部が小三になった年のことだった。あまりに藪から棒の話に、芽依子はその理由など聞く耳持たずに突っぱねた。当時、母子二人の生活はそれなりに成り立っていた。また、長谷部の父から連絡があったことなど、それまで一度もなかった。芽依子が話を聞く気にもなれないのは当然の心情だった。

「なんで、そんな突然……」 

 優花の疑問に、しばらく間をおいてから長谷部が答えた。

「新菜が男の子だったら、そんなことにはならなかったんだ」

 長谷部の父は「いいところのお嬢様」と結婚したのち、一人の子どもをもうけた。それが長谷部新菜だった。ところが、その母は新菜を出産後病気になり、それ以上子どもを望めなくなってしまった。

「長谷部の家の人はね、考えが古いんだよ。跡を継ぐのは男じゃなきゃいけないってみんな思ってる」

 長谷部の父は考えた。

 男の子がほしいが、自分の妻はもうこれ以上子どもを産めない。かといって、妻と離婚し、ほかに新しい妻を迎えるというのは得策ではない。妻のバックは長谷部家にとって必要なのだ。離婚せず、男の子が長谷部家に来るためには。

「そこで白羽の矢が立ったのが、俺だったんだ。俺は、確かに長谷部家の血を引いてるから」

 長谷部家はあの手この手で芽依子を説得しようと試みた。でも、芽依子は何にもなびかなかった。何度も訪ねてくる長谷部家の関係者を、にべもなく追い返し続けた。何を今さら、と芽依子が怒鳴っているのを子どもだった長谷部は聞いた。

「でも、その奥さんとかが普通納得しないんじゃないんですか……?」

 つまりは自分の夫がほかの女との間に作った子どもだ。その子に跡を継がせるというのは、普通に考えれば受け入れがたいはずだ。女の子だとしても、自分の子どもがいるというのに。

「そこは、なんか巧妙っていうか、ずるいっていうか、うまい具合に言ったんだよ」

 芽依子と長谷部の父は結婚する前に別れた。芽依子は、誰にも言わず一人で子どもを産んだ。だから、長谷部の父は子どものことを知らなかった。たまたま人伝に聞いて知ることになった。そういう風に説明したそうだ。

「結婚する前に別れたのは本当だけど、父は俺のこと知ってたはずなんだ」

 真実と嘘を織り交ぜて、妻が納得するように仕向けていった。妻には、男の子を産めなかったという引け目があり、跡継ぎは男の子でなければならないという昔ながらの考えも持っていた。だからこそ、最後には承諾するにいたったのだった。

「でも、母は絶対に折れなかった。だから、長谷部の家のやつらは手段を変えた。俺に直接会って、俺を説得することにしたんだよ。お母さんのために、うちにくればいい。俺が養子になれば、お母さんの生活はうんと楽になるんだよって」

「そんなのって……」

 まだ小三だった子どもに、なんて酷いことをするのだろう。説得というよりも、脅迫だと思った。母親のことを持ち出して、じりじりと逃げられないように追いつめている。ほかの選択肢を与えないようにするために。

 それでも、長谷部は拒否していたそうだ。もちろん、母親のことを持ち出されて気持ちが揺らがなかったわけではない。けれども、自分がいなくなってしまえば、母が独りになってしまう。それを考えれば、拒否するのは当然だった。

「でも、間が悪いというか、仕方なかったというか、母が病気で倒れてしまったんだ」

 長年の苦労が祟ってしまったのだろう。長谷部家のせいでストレスも相当溜まっていて、体を蝕んていた。芽依子にはしばらくの入院と、長い治療が必要だった。入院すれば、働けなくなる。入院はもちろんのこと、長く治療が続けられるほど金銭の余裕はない。

 長谷部は、決断せざるを得なくなった。母親の入院費や治療費を全部出してもらうかわり、長谷部家に入ることを選んだ。

「そうして、長谷部家に引き取られて、俺は『長谷部聖弥』になったんだ。ちょうど四年生になった時だったよ」

 その後は、母親のためと思って、必死で勉強してトップになり、どの方面でも活躍できるようにがんばった。このまま期待に応え続けていれば、母の病気は良くなり、楽な生活が送れるのだ。あんなに昼夜通して働き詰めになる必要もない。大人になったら楽をさせてあげたいと思っていたことを、今すればいいのだ。そうやって、長谷部は自分に言い聞かせていた。

「母には、成人するまで会ってはいけないと言われた。その代り、近況は知らせてくれるってことになってたんだ。母が退院して、また働き始めたって話を聞いたとき、これでよかったんだって、思えたんだ。思えたんだ、けど……」

 長谷部は両手をぐっと力強く組んで、うつむき黙ってしまった。しん、と静まり返った店内に、冷蔵庫の低いうなり声が耳に重く響いている。息苦しい静寂の中、優花はただ長谷部の次の言葉を待った。

「結局、俺が中三のとき、母は亡くなったんだ」

 さっき紗百合とも話していたが、長谷部は直接その死を知らされなかった。人が話しているのを、たまたま聞いて知ることになってしまったのだ。

 芽依子の病気は一時は治ったが、再発し、それに気づいた時にはもう手遅れだったという。その話は、長谷部が父に問い詰めて聞きだしたものだった。

「母が亡くなって、俺は長谷部家にいる理由がわからなくなった。なんで父親に言われた高校を受けなきゃいけないんだって思った。だから、私立受験すっぽかしたんだよ。受ける意味が、俺にはなかったんだ」

 ファストフード店で話していたことがここに来て一致した。

 長谷部が秘めている反抗心は、すべてはここから来ていたのだ。妹の新菜と元々あまり仲良くないと言っていたのも、普通の兄妹ではなかったからだ。長谷部と新菜が似ていないと思ったのも、今なら納得できる。長谷部が優花の家族の話を聞きたがるのは、彼の抱える空虚感が無意識に求めているせいなのだ。母親と二人で暮らしていた、幼いころの幸せを……。

「なんでかな」

 ぽつりと長谷部が言った。

「君には、何でも話したくなるね。話さなくてもいいこと、全部」

 何と応えたらいいのかわからなくて、優花は黙って目を伏せた。そんな優花を見て、長谷部がふっと優しく微笑んだ。

「聞いてくれたのが、橘さんでよかった」

 そう言って、長谷部は手付かずだったコーラに初めて口をつけた。優花も、それにならって飲んだ。炭酸の抜けたコーラは、ぬるくて甘ったるかった。このコーラの味はきっと忘れないだろう。そんなふうに優花は思うのだった。

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