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長谷部と紗百合の会話

 スナックさゆりのカウンターに、優花と長谷部は並んで座った。ちょうど夏休みの終わりに竜と並んで座った場所と同じだった。

「うちはこんなのしかないけど」

 カウンターの向こうにいる紗百合が二人の前に置いたのは、瓶のコーラだった。紗百合も同じものを一本持って、あおるようにそのまま飲んだ。優花はそれに遅れて少しだけ飲んだ。長谷部はただ目を伏せたまま、両手を膝の上で握っていた。

 紗百合は半分以上飲んでしまうと、長い息を吐いた。ゆっくりと瓶を置いて、視線を上げない長谷部をしげしげと見つめて小さく微笑んだ。

「聖弥くんは私の予想通り、かっこよく大人になったわねえ。圭輔なんか、図体ばっかりでかくなっちゃってね。可愛くないったらないの」

「圭輔は……どうしてますか」

「通信の高校行きながらアルバイトして、時々うちの店手伝ってくれてる。今日はバイト行ってるの」

「相変わらず、親孝行なやつなんですね」

「無愛想なのも、相変わらずよ」

「そうですか」

 長谷部はほっとしたような口調で答えた。両膝の上のこぶしの力が少し緩んだように見えた。

「でも、聖弥くんが優花ちゃんと同じ高校行っていたなんて。あ、ということは、百合ちゃんも同じなのね。こんなことってあるのかしら。芽依子めいこさんが巡り合せてくれたのかもねえ」

 メイコさん? 疑問符が浮かんだけれど、優花は尋ねずに話の行方を追うことにした。

「紗百合さんは、あれから母がどうしてたか知ってますか……?」

 おずおずと長谷部が聞いた。紗百合はしばらく考え込んでから「そうね」とつぶやいた。

「芽依子さんは、気丈にしてた。きっと寂しかったでしょうけど、それを振り切るようにいつも以上に明るく仕事してた」

 再び、長谷部が両こぶしをぎゅっと握りしめた。紗百合はその様子を見て、つと長谷部から目をそらした。

「でもそれから何か月かして、私はこのお店を始めることになって、桜町ここに引っ越してきたの。芽依子さんと連絡は取り合っていたけど、なかなか会えなかった。この店が軌道に乗るまで、ほとんど休みなく働いてて……。でも、後悔してる。忙しくったって、もっと会いにいけばよかったって……」

 話の流れから推察するに、「芽依子さん」は紗百合と知り合いで、長谷部の母親らしい。巡り合せてくれた、もっと会いにけばよかった、ということは、もう亡くなっている人のことなのかもしれない。

 それにしても、長谷部の言う「あれから」というのはどういう意味なのだろう。優花はコーラをちびちび飲みながら考える。

「母が亡くなったのは、いつ知ったんですか?」

 紗百合は再びコーラの瓶を持ち上げて、くいっと残りの半分を一気に飲んだ。そして一瞬だけ目を閉じ、思い切った様子で口を開いた。

「……亡くなる三か月前くらいだったかな。芽依子さんから連絡があったの。もう自分の余命は幾ばくも無い。生きてるうちに、一度でいいから会っておきたいって。久々に会った芽依子さんは……病院のベッドの上で、ひどく痩せてて……でも、笑顔だけは昔のままで」

 そこで紗百合は言葉を詰まらせ、口を覆った。瞳が赤くうるんでいた。自分を落ち着かせるように深呼吸を何度かした後、紗百合は震える声で語った。

「それからは、できる限り病院に行ったわ。圭輔もたまに連れて行ったの。そこは、海が見える病院でね、芽依子さんの車いすを押して、三人で海岸線に散歩に行ったこともあった。でも、だんだん容体が悪くなって、起き上がることができなくなって……。それでも、芽依子さんは微笑んでいた。私たちが病室に行くと、明るく出迎えてくれた」

 ついに耐え切れなくなったのか、紗百合の瞳から涙が一筋流れた。

「最期は、私と圭輔が看取ったの。……穏やかな死に顔だったわ。口元が少し微笑んでいるようにみえた」

 耳に重い沈黙が下りた。紗百合は静かに手で涙をぬぐった。長谷部は何も言わなかった。たださらにうつむいて、こぶしをさらに強く握りしめていた。その手がかすかに震えているのを優花は見た。

「聖弥くんは、いつ、知ったの……?」

 今度は紗百合が恐る恐る長谷部に尋ねた。

「……亡くなってから、一か月後くらいに……。それも、家の者が話しているのをたまたま立ち聞きして知りました。俺には、何にも知らされなかった……」

「そうだったのね……」

 慰めるように紗百合が長谷部の肩に手を置く。

「意識がなくなる直前まで、芽依子さんはあなたの幸せを願ってた。真っ当な人生を生きてくれたらいいって、いつも言っていた。あなたがこんな立派になって、お母さんはきっと喜んでいるでしょうね」

「俺は」

 紗百合の言葉をさえぎって、長谷部は大声を上げた。そのボリュームに優花の体がびくっと大きく跳ね上がった。

「俺は、立派なんかじゃない。今の俺は、全く、期待はずれなことしてるんだ」

 突然、長谷部は椅子から降りると、大股で出口まで歩き、まだ小雨の降る外へと飛び出して行ってしまった。

「先輩……!」

 優花もあわてて立ち上がり、後を追いかけて扉を開けた。背中から紗百合の呼ぶ声が聞こえたけれど、構わずそのまま長谷部の背中を追った。



「先輩、待ってください」

 走るたび、ぴちゃぴちゃと音を立てて水が跳ね、優花の足を濡らした。でも優花はそんなことを気にしないで、とにかく長谷部を追いかけて走っていた。

 長谷部は振り返ることもせず、速足でどんどん先へ行く。サンダルでなければとっくに追いついていたのに。優花はイライラしていた。サンダルと裸足の隙間に水が入り込んで滑りやすく、余計に走りづらかったのだった。

「先輩っ……!」

 呼び止めようと声を上げた瞬間、サンダルが片方脱げて、優花は思い切り水たまりの上に転んだ。びちゃん! と派手に水が跳ねる音がして、ようやく長谷部が振り返った。

「橘さん……!」

 のろのろと起き上っているところに、慌てた様子の長谷部が駆け寄ってきた。

「立てる……?」

 長谷部がすっと手を差し出してきた。優花はうなずきながら、自然とその手を取って立ち上がった。ワンピースは見事にびしょ濡れだった。脱げたサンダルが、水たまりの中に横倒しになって浸かっているのが見えた。

 長谷部はサンダルを拾うと、そのまま自分のTシャツでそれを拭いてしまった。Tシャツの裾があっという間に泥水で濡れた。優花がその様子をあっけにとられてみていると、長谷部は気まずそうに顔をそらし、サンダルを優花の足もとに置いた。

「ごめんね、急に……。どうしても、聞いていられなくなって……」

「いえ……」

 それ以上のことばが見つからなくて、優花はうつむき押し黙った。じわじわとワンピースの水分がしみ込んできて、徐々に寒くなってきた。小雨も徐々に二人の髪を濡らし、額や頬にしずくが流れて行った。

「服、どうにかしなきゃだね」

 長谷部がゆっくりと来た道を戻り始めた。優花もそのあとに続いて歩き出す。

(追いかけないほうがよかったのかな。何も考えずに追いかけてきちゃったせいで、結局、先輩はあそこに戻る羽目になっちゃって……)

 さっきの二人の会話だけでは事情がわからないけれど、紗百合が長谷部にとってつらい過去のことを知っているのは理解できた。だから、今の長谷部がスナックさゆりに戻ることは、ひどく苦しいことなのではないかと思った。

「橘さん」

 振り向かずに、長谷部が呼んだ。

「全然、わけわかんないよね。何にも説明しなくてごめん」

「……説明したくないことは、聞きません」

 優花がそう答えると、肩ごしに長谷部は振り返り、優しく目を細めた。

「君になら、話してもいいと思う」

 そこで再びスナックさゆりの看板が見えてきた。ちょうど紗百合が扉を開けて出てくるところだった。

「あ、よかった。戻ってきてくれて……」

 そこで、二人の服がかなり濡れているのに気付いたようだった。紗百合は優花たちを再び招き入れ、とりあえずタオルを貸してくれた。

「優花ちゃんは……着替えなきゃダメね、きっと」

 紗百合は自分のジャージをどこからか持ってきた。忙しいときは時々ここで寝泊まりすることあるので、いくつかの着替えなど宿泊道具一式が置いてあるのだそうだ。

「とりあえずドライヤーで乾かしてみるわ。それまで着てて」

 最初は断ったけれど、紗百合がどうしてもと言い張るので、それに甘えることにした。バックヤードで着替えを済ませ、濡れたワンピースを紗百合に手渡した。ジャージは優花にもピッタリのサイズだった。

「なんか、そういう格好もいいね」

 ジャージ姿で再び長谷部の前に出ると、そんな感想を言われた。なにがいいのかわからないまま、優花はまた長谷部の隣に座った。今この空間には優花と長谷部の二人だけだった。紗百合は別の部屋で優花のワンピースを乾かしていて、その音が店内に漏れ聞こえてきた。

「じゃあ、説明しようか。俺の……昔のこと」

 こうして、長谷部の子どもの頃の話を聞くことになったのだった。

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