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傘の下

 二人が外に出ようと扉を開けると、埃っぽく湿った風がさっと足元を通り過ぎた。見上げれば、いつの間にやら大きな黒い雲が空の奥から押しやられるように流れてきている。青空はたちまち隠れていった。

「天気予報で夕方から雨って言ってたけど、ちょっと早まったのかな」

 長谷部の言葉を待っていたかのように、大きな雨粒が一つ、アスファルトに黒い染みを作った。染みはどんどん増えていき、それは更につながる。あっという間に一面が塗りつぶされ、ざああっと雨が道をたたきつける音が大きくなった。道行く人たちが、慌てて手を目の前にかざしながら走り出し、屋根のある所へと駆け込んでいく。優花たちがいる店にも、雨宿りをしに人が流れ込んでくる。

「出そびれちゃったね」

「そう、ですね……」

「まあ、こういう雨ならすぐに止むだろうし、少し待ってみようか」

 長谷部がそう言う間にも、雨音はますます大きくなっていった。黒くなった路面に白いしぶきが跳ねあがるのを、優花はぼんやり眺めていた。長谷部も何も言わず、ただ外を見ていた。さっきまであんなにいろいろ話していたというのに、今はただ黙って並んでいる。でも、居心地が悪いという気はしなかった。何か話さなければという気持ちは起こらない。

(雨の音が、うるさいからかな……)

 それとも話疲れただけなのか。優花には、どちらともわからなかった。

 そのとき、優花たちの隣に小柄な女性が駆け込んできた。女性の染めた髪から大粒の水がしたたり落ちている。その金髪に近い色に染めた髪を見て「あ」と思わず声が出た。その声に女性が振り返る。

「あら、優花ちゃんじゃない」

 その女性は、圭輔の母親の紗百合だった。紗百合は優花を見ると、途端に底抜けの明るい笑顔になった。

「こんなところで会うなんて。優花ちゃんも雨宿りしてるの?」

 雨音に負けない大きな声で尋ねてくるので、周りの人がちらちらと様子をうかがってくる。優花は少し苦笑しながら「そんなところです」と小さく答えた。

「天気予報だと夕方から雨って言ってたのにねえ。季節の変わり目は当てにならないもんだわ」

 と、紗百合の視線が優花の隣の長谷部に向かった。長谷部は少し戸惑った表情を見せながら、紗百合に向かって軽く頭を下げた。

(あ……これって、どうしたらいいんだろ)

 紹介すべきなのか? という考えが一瞬頭をよぎったが、それは何か変ではないかとすぐに打ち消す。紗百合は友だちの母親で、改まって長谷部を紹介するというのも不自然な気がした。それに、長谷部は学校の先輩であって、今のところそれ以上でもそれ以下でもない……。

(かといって、何も言わないのも変なのかな)

 隣の長谷部をちらりと確認する。戸惑いの表情は変わらなかった。それから紗百合を確認する。紗百合は、じいっと長谷部を見つめている。——何とも言えない微妙な空気が流れていた。

「あ、あの、紗百合さん。こちらはあの、私の学校の先輩で……」

 この状況を打破すべく、優花はとにかく声をあげた。ところが。

「もしかして、聖弥せいやくんじゃない?」

 紗百合の言葉が、優花の言葉を遮った。

(え……)

 優花は首を傾げた。そして思わず長谷部を振り返った。長谷部は静止したまま食い入るように紗百合を見つめていた。そして優花は唐突に気づいた。聖弥。それは、長谷部の名前だ。長谷部聖弥。

 長谷部と紗百合に挟まれながら、優花は二人の顔を交互に見比べる。

 雨音が、ますますうるさくなった気がした。 



「どうして……俺のこと……」

 絞り出すように長谷部が声を出す。ざあざあという雨の音の中で、ようやっと聞こえるほどだった。

「あ、そうよね。覚えてないかもね」

 声のトーンを低めて紗百合が言う。

「私はね、坂東紗百合。息子の名前なら覚えてるんじゃない? 圭輔っていうのよ」

「けいすけ……。ばんどう……」

 つぶやきながら、長谷部の顔色が変わっていった。何かを思い出したらしい。紗百合もそれを感じた様子で、少しほっとしたように笑った。

「大きくなってて、一瞬わからなかった。でも、わかったわ。お母さんにどこか似てたから」

 その言葉に悲しげに瞳を揺らしてから、長谷部はうつむいた。その表情が苦しそうで、優花まで辛い気持ちになってきた。

(なぜ、紗百合さんは先輩のことを知ってるのだろう。どうして、先輩はこんなつらそうな顔をするんだろう)

 今一つ状況が飲み込めなくて、かける言葉が見つからなかった。この場からいなくなったほうがいいような気がしているけれど、それもできずにいた。

「こんな所じゃあれだから、場所を変えて話しましょうか。もし、聖弥くんがよければ、だけど」

 遠慮がちに紗百合が尋ねる。少し間をおいて、長谷部は小さく「はい」と返事した。どうやら昔の知り合いらしい二人が何か話をするというなら、やはり自分は邪魔だと思った。

「それなら、私は帰り——」

 優花が一歩下がって立ち去ろうとしかけたときだった。突然、長谷部が優花の手首を強くつかんだ。

「一緒にいて」

 びっくりして長谷部を見上げる。その表情を見て優花は目を丸くする。長谷部は、切羽詰まったような、心細そうな瞳で優花を見つめていた。

「橘さんも、一緒にいてほしい」

「……でも……」

「お願いだ」

 優花が首を振るのにかぶせるように、長谷部はさらに強く手の力を込めてきた。そこから、長谷部の不安がどくどくと波打つように流れ込んでくる。まるで、今一人で立っているのも辛いのだというように。

「わかり、ました」

 優花がうなずくと、長谷部は少し安心した様子で手の力を緩めた。でも放しはしなかった。

「そうね。優花ちゃんが引き合わせてくれたんだから、一緒にいて。そうだ、うちのお店に来て。今ならだれもいないから」

 わざとらしいほどに、紗百合は明るく大きな声で言った。

 そこへ、店の中から店員が二人出てきた。店員はビニール傘を数本持ち、雨宿りしている人たちに差し出した。「いつでもいいので返しに来てください」と言いながら、傘を手渡していく。やがて傘は優花たちのところにも来た。でも、傘はもう二本しかなかった。そこで、一本は紗百合に、一本は長谷部と優花で相合傘をすることになった。

「じゃあ、行きましょうか」

 紗百合が先頭を切って歩き出す。傘は小さいので、優花と長谷部ははできるだけ近寄って歩いた。

 初めのうちは無言で歩いていたが、しばらくして、不意に長谷部が少し身をかがめた。

「ありがとう。一緒に来てくれて」

 またすぐそばでささやかれて、優花の心臓がどきんと高鳴る。

「いえ、別に……」

 顔が赤くなっていくのを見られたくなくて、優花はうつむき加減で答えた。

「でも、びっくりした。まさか、橘さんが紗百合さんと知り合いだったなんて」

 独り言のように長谷部が言った。

「紗百合さんとは、最近知り合って……。圭輔が、百合の幼馴染なんです」

「そっか。花崎さんが」

 長谷部はそう言ったきり、黙り込んだ。

(私だってびっくりしてる。なんで紗百合さんと先輩が知り合いなんだろう)

 本当は聞きたくて仕方なかった。でも、優花の驚き以上に、長谷部がショックを受けているような様子なので聞けなかった。それに、きっとこれから二人が話すことで、優花にも理由がわかるのかもしれない。

(本当に私がそれを聞いていいのかな)

 やはり邪魔なのではないかという考えが浮かんだが、長谷部のあの手首をつかんできた力の強さを思い出し、その考えを振り払った。

 長谷部が、ひどく不安を感じている。もしそばにいてほしいと思っているのなら、何かできるわけではないけれど、そうしてあげたい。自然と思えた。

 スナックさゆりの看板が見えてきたころ、雨はいつしか小康状態になっていた。小さな雨粒が、入り口前の水たまりに弱々しい波紋を広げて、出迎えているようだった。

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