居候の初日
卒業式の日の夕方、竜は少ない荷物を持って橘家にやってきた。後から荷物が届くのかと思いきや、そうではないらしい。竜は最低限の着替えと何冊かのアルバムしか持っていなかった。その着替えもどこかからのお下がりで、しかもサイズがギリギリだった。成長期とあって、もらった服では追いつかなくなっていたのだ。
「買ってもらったのは下着くらいだなぁ。さすがに下着のお下がりはいやだよな、あげるほうももらうほうも」
竜はのんきにそう言った。小遣いなど当然もらったことはなく、自分で自分の服を買ったことがないという。結局、見かねた数馬が自分の高校時代の服を竜にあげた。サイズは少し大きかったが、これから背が追いつくから問題ないはずだ。
「今までのお下がりの中で一番まともだ」
と竜はかなり喜んでいた。
「捨ててなくて良かったね」
兄が単に不精で片付けていなかったものが思わぬ形で役に立った。竜は自分で稼ぐようになるまで服は数馬のお下がりに世話になることになった。
「アルバム見る?」
竜は頼んでもいないのにカバンから一冊のアルバムを出した。
「これが妹の日奈だ。可愛いだろ」
竜が指さしたのは、五歳くらいの女の子だった。確かに可愛い。黒髪だけど、くせっ毛らしくて毛先がくるんとカールしている。お人形みたいだ、と優花は思った。その子を真ん中にして、右隣には小学生の頃の竜、左隣には優しい笑顔の細身の男性がいた。
(この人が『お父さん』かな)
今の竜と比べても、やはり似ていなかった。兄は年々父に似てきているというのに。血のつながりのあるなしは大きなことなのだ。
アルバムをしばらく一緒にみていったが、竜の母親の写真は一枚もなかった。そして、写真は妹が生まれたあとからしかなく、竜が赤ちゃんだった頃の写真は見当たらなかった。
(最近の写真がない)
最後まで見終わり、まずそれを感じた。おそらく、この父親が亡くなってからは写真など一枚も撮っていないのだ。
「優花のも見せてよ。小さい頃も可愛いんだろうなぁ。あ、卒業アルバムでもいいぞ」
嫌な提案をされて、優花は逃げるように立ち上がった。卒業アルバムなんて、強制購入でなかったら買わなかった代物だ。振り返りたくもない思い出ばかりだ。
「夕飯の仕度するから」
文句を言う竜を無視して、台所へ向かった。佳代も身体が落ち着いてきて、一緒に料理できるようになった。二人で手際良く用意を進めていると。
「優花ちゃん。ありがとうね」
「え?」
お礼の意味がわからなくて、優花は首を傾げた。佳代はふふっと小さく笑った。
「竜と仲良くしてくれて」
「えっ? どこが? 全然仲良くないよ」
思い切り否定した。本気でそう思っている。それなのに。
「そう? 二人すごく楽しそうに見えるんだけど」
と、佳代はニコニコしながら返してきた。
「楽しくなんかない。少なくとも私は楽しくないもん」
「そうなんだ。へぇ……」
佳代は意味ありげな笑みを浮かべて頷いた。それでこの話題は打ち切りになったが、優花はなんだか落ち着かなかった。落ち着かないままに夕食の準備が進む。この前突然竜が来た時も思ったが、一人増えるだけで量がかなり違う。ご飯を炊く量も味噌汁の量も、ただ1人増えただけなのに、釜や鍋から溢れそうに見える。
(この量を毎日作るのか)
うっかり今まで通りに用意してしまいそうだ。自分が一人で作るときは気をつけないと。優花はこれからさきの生活を考え、少し不安になる。食事の量だけではない。洗濯は、掃除は、お風呂は、お休みの日はどうなる? 細かいところを考えるときりがなかった。一番の不安は竜の部屋だ。優花の部屋の隣にある、元々は兄の部屋だったところに竜が来る。他に適当な部屋がなかったのだ。壁一枚隔てたところに男の子がいるなんて。優花はますます落ち着かない気分になる。
夕食は前と同じように賑やかに終わった。そして片付けは竜が担当することになった。自ら申し出てきたのだ。
「俺がいるときは全部やるね」
そう言って、楽しそうに洗い始めた。そしてこの日以降、竜は言葉通り、どんな忙しい朝でも疲れきった夜でも、竜はその仕事を几帳面に毎日こなすのだった。
片付けが終わってから、全員でリビングに集まった。これからの竜の橘家での過ごし方について話した。まずは家事のことだった。以前は優花と佳代が何となく分けてやっていたが、今は佳代の体調のこともあり、優花がほとんど一人でやっていた。
「このまま後片付けは俺がやります。料理以外なら何でもやりますよ。洗濯でも掃除でも」
竜ははりきった様子で胸をどんと叩いた。しかし。
「洗濯はやめたほうがいいんじゃない?」
苦笑いをしながらやんわりと佳代が止めた。それは優花も大賛成だ。洗濯物には女物が含まれるのだから。竜のものを一緒に洗うのは百歩譲っていいが、洗ったものの取り込みや片付けをしてほしくない。兄は家族だから問題ないが、竜は他人なのだ。自分のものを触られるのはかなりの抵抗があった。
「じゃあ、洗濯は私と優花ちゃんで」
佳代が話をあっさりまとめてくれて、優花は心の底から安堵した。
それなら掃除をすると竜は言った。しかし亡き両親から受け継いだこの家は案外広い。優花がやるときも、一日でやらずにローテーションで何日かに分けてやる。
「この際、しっかり分担しよう」
数馬の提案で、担当の場所をそれぞれ決めることになった。ダイニングキッチンは普段料理をする優花と佳代が。リビング、廊下、一階の寝室は主に数馬が(場所が多いので佳代も無理のない程度に助っ人に入ることになった)。トイレ、階段は竜が。お風呂は優花が。そして二階の部屋は優花と竜が各々でやる。ただし、毎日必ずやる必要はないことにした。それぞれ仕事や学校があって忙しいのだから、毎日きちんとするのは難しいのだ。できなければ休みの日にまとめてやればいい。
「俺たちはこれから春休みだから、毎日やるか」
竜は楽しそうに優花に言った。
「私は毎日やってることだから。むしろ仕事が減ったくらい」
素っ気なく優花は返した。ところが。
「そうか。俺のおかげで優花は楽できるんだな」
「俺のおかげって……」
よくもそんな自分に都合よく考えられるものだ。優花は呆れて言葉がなかった。それより大変なことに気づいたのだ。
(春休み……毎日、一緒にいるのか)
昼間は数馬も佳代も仕事でいないのだ。朝から夕方まで竜と二人で過ごさなければならない。そのことに気づいた途端に、めまいがした。
(毎日疲れそうだ……)
竜が来てからまだ数時間。既に疲れきっている優花だった。