新学期の憂鬱
学校が始まり、日常が戻ってきた。朝、起床時に隣の部屋から竜が壁をノックしてくるし(仲直りしてから復活した)、朝食のときはにぎやかだし、自転車で途中まで竜と一緒に通学する。変わったことといえば、「行ってきます」のあいさつを佳代のお腹にではなく、愛実本人に言うようになったことだ。それ以外は何も変わらず、慌ただしい朝の風景だった。
久々に学校を目にしたとき、一瞬、校門前で立ちすくんだ。学校という場所は、優花にとってまだ異世界のような居心地の悪い場所だった。長い休み明けの今日は、特に押しつぶされそうな感覚に襲われていた。
少し気合を入れて、学校に足を踏み入れた。できるだけさりげなく動いているつもりだけれど、内心はどこかびくびくしていた。何かされるとは思っていないけれど、緊張感がぬぐえない。
昇降口で上履きに履き替えているときだった。
「おはよ、優花」
ぽん、と急に肩をたたかれて、全身が跳ね上がった。急いで振り返ると、同じくびっくりした様子の百合がしげしげと優花を見つめていた。
「あ……おはよう、百合」
全身から力が抜けていった。体中から、いやな汗がどっと出ていく。
「ごめんね、びっくりさせちゃった?」
「う、ううん。大丈夫」
慌てて笑顔を作った。優花は心の中でもう一度「大丈夫」と自分に言い聞かせた。
(今は、一人ぽっちじゃないから)
教室に入ると、高山と河井のでこぼこコンビがすでに登校していて、優花と百合の姿を見つけると笑顔であいさつしてきた。そのまま、夏休みの宿題のことや、数日後に行われる課題テストの話題になった。高山と河井には一ヶ月以上会っていなかったけれど、一瞬でごく自然に話ができていた。
今の優花は、まだ学校に、このクラスにも馴染んだとは言えない。けれども、百合をはじめとする友だちができた日から、優花の心には少し余裕が生まれていた。その事実を思い出していくと、優花は少しずつ落ち着きを取り戻してくるのだった。
二学期初日は、短めの始業式が終わった後に二時間続けてのホームルームがあった。二学期は大きな行事が目白押しだ。十月に体育祭。そして中間考査が済むと、十一月には文化祭。十二月の期末考査の後には球技大会。ホームルームは、その体育祭の出場選手決めと文化祭の役割分担が主な目的だった。
体育祭の選手決めはあっさりとしたものだった。それもそのはずで、一年生の出場種目は、全員で出場するか、リレーなど足の速い人だけが出場するものだけなのだ。運動神経が良さそうな人というのは、一学期の間にすでにみんななんとなくわかっている。ほとんどが運動部の面々だ。でも、選手の中に長谷部新菜の名前を見たとき、一瞬どきりとした。
(頭もよくて、運動神経もいいんだからすごいよね。長谷部家の血なのかな)
長谷部新菜は、優花のクラスの学級委員で、学年トップクラスの成績だ。そして、長谷部聖弥の妹でもある。
(そういえば、長谷部先輩、あれから一回も連絡してこなかったな……)
あれから、というのは、駅前で偶然会った日、長谷部の誕生日にデートする約束をした日だ。こちらから連絡するにしても、何をどう連絡したらいいのかわからなくて、そのままになってしまっていた。長谷部は長谷部で受験生だから、きっと忙しいのだろう。そう思っていたけれども……。
ぼんやりとそんなことを考えている間に、議題は文化祭の出し物についてに変わっていた。
この高校では、三年生が火を使うような食べ物の屋台を外や教室で出し、それ以外の学年は展示やお化け屋敷、軽食程度の喫茶店を行うことができるということだった。
クラスの中心になっているような人たちが、次々とアイデア出していく。定番のお化け屋敷に始まって、手品小屋や、占いの館なんていうのも出た。優花はそれをただ黙って聞き流していた。
文化祭の出し物は、自分にとって遠い存在だった。中学の時だってそうだったけれど、こういうことに積極的に参加したことがない。放課後、クラスメイトが準備でワイワイやっている中、優花は一人で家に帰っていた。家のことをやらなければ、というのもあったけれど、クラスには一緒にいて楽しめるような人は一人もいなかった。そんな優花を引き留める人も、一緒にやろうと誘ってくる人もいなかった。陰ではいろいろ言われていたのは知っていたが、気にしないよう努めた。
いつの間にか一年八組の出し物が占いカフェに決まっていた。占いの順番を待つ間にお茶やお菓子を提供するらしい。占いは、女子に詳しい人がいるようで、占い師役希望の人にレクチャーしてくれることになった。それ以外はカフェの準備だ。内装を整える班、宣伝ポスターなどを描く班、お菓子などを発注する班。文化祭当日は順番に接客や裏方に回る。
「では、それぞれの班のメンバーを決めます。決まった人から順にこちらに来てください。人数が多い場合は各班の中で相談してください」
学級委員がそう言うと、クラス中がざわざわとし始めた。こういう班は、たいてい仲の良い人と相談してどこに入るか決める。席を立って、互いにどの班にするか相談しあっている。
「優花」
例にもれず、百合が優花のそばまでやってきた。
「どうしよっか。私はどれでもいいと言えばいいけど」
「うーん……私もどれでもいいけど……」
特にこれと言って希望がない。というか、まともに参加している自分が想像できないでいた。でも、中学のときと違うのは百合がいることだ。少しがんばって参加してみようかという気になれる。
「余ってそうなところにする?」
今のところ、人が一番集まっていない班は、宣伝ポスターを描く班だった。クラスや廊下に貼り出すA3サイズのポスターを描く他、学校の正面玄関に飾るクラスごとの宣伝ポスターも描かねばならない。それは紙や画用紙ではなく、大きいべニア板にペンキを塗って作り上げるものだ。それなりの時間と労力がかかる。それは内装班も同じだろう。凝ろうと思えば、いくらでも作ることができてしまう。
「発注班は楽そうだけど……」
買うものと、買い出しに行く日が決まれば、それ以外はすることが少なさそうな係だが、それはみんなわかっているようで、すでに枠が埋まり始めている。
ともかく、どこかの班には入らなければならないのだ。優花と百合はとりあえず学級委員のもとへと向かった。
「二人は、どこにしますか」
長谷部新菜が淡々とした口調で尋ねてきた。眼鏡の向こうの瞳が、ほんの一瞬だけ優花をにらむ。
(なんか、そこはかとなく敵意を感じる……)
夏休み前の、あの球技大会の日の出来事のせいだろうか。思い当たるのはそれしかないが、ちょっと心外だった。優花は思わぬところで長谷部兄妹の喧嘩に巻き込まれて、その原因にされてしまっただけで、直接関わろうと思って関わったわけではなかったのに。
「あの、ポスターのところが空いてるみたいなんですけど、絵が描けなくてもいいんですか? 色塗りとかなら手伝えると思うんですけど」
新菜の迫力にのまれないように、優花は早口で一気に尋ねた。内心はドキドキハラハラしていたけれど。
「まあ、下絵は美術部とか絵が得意な人にお願いするつもりだから、問題ないと思いますけど」
相変わらずの淡々とした口調で答えが返ってくる。それがかえって怖いような気がした。
「じゃあ、ポスターでいいかな」
優花は百合を振り返った。百合はうんうんとうなずいた。すると、新菜がポスター班のところに二人の名前を書き込んだ。
「じゃあ、ぼくたちもポスターで」
後ろから声がしたので振り返ると、河井が恵比寿スマイルで手をあげながら近づいてくるところだった。その後ろから細長い高山が申し訳なさそうについて来る。
「ただ、ぼくは天文部があるので、そちらの準備が忙しくてあまり手伝えないと思いますが……」
消え入りそうな声で高山が言った。
「文化部所属の人は、部活動のほうを優先させてください」
あっさりと新菜が答えた。それでも、高山はまだおどおどした様子でうなずきながらうつむいてしまった。
「河井くんは、結局帰宅部のままなんだ?」
席に戻りながら百合が尋ねると、河井はスマイルのままで首を横に振った。
「実は入ったんだ。応援部」
「え!? いつの間に!?」
優花と百合はそろって大声をあげてしまった。一瞬、クラスの視線が集まって、慌てて口をつぐんだ。
「球技大会の後だよ。宮瀬先輩に誘われてさー。『お前、球技大会のときの応援、よかったぞ』って。どこの部活にも入ってないなら応援部入れって言われてさ。なんか、その気になっちゃって」
河井は、その全体的に丸いフォルムのせいもあって、球技大会のメンバーで人数が余るときは、たいてい補欠に回されていた。メンバーになっても、すぐにボールを当てられてしまうので、外で応援していることが多かった。
「夏休み、野球部の応援とか行ったんだ。大声出すっていいなあって思ったよ。あれ、はまっちゃうよ、結構」
そういえば、河井は心なしか肌が焼けている。応援部焼け、とでもいうのだろうか。
応援部は運動部扱いだけれど、文化祭のオープニングで演舞をするらしい。その練習もまた楽しいと河井はうきうきした様子で語ってくれた。
「ぼ、ぼくだって、天文部の展示準備、忙しいけど充実して楽しいです」
高山も話題に割って入ってきた。天文部の話になるとがぜん元気になる高山は、夏休みの間にしてきた準備のことを滔々と話した。途中「お前マニアックすぎ」と河井に突っ込みを入れられつつも、高山は勢いを失わなかった。
(学校に居場所がある人は、楽しいんだろうな、きっと)
うらやましいなと、正直思った。そういう学校生活を送れたら、きっと楽しいに違いない。新学期初日、学校に入るのに勇気を持つ必要なんてないはずだ。
『楽しんだもの勝ちだよ』
不意に、長谷部の言葉が脳裏によみがえった。
(楽しめるかな、私)
体育祭、文化祭。これからたくさん待っている行事の一つ一つを、なんとなくやり過ごすのではなく、楽しむことができるだろうか。
ポスター班のメンバーが大体固まったらしく、改めて黒板を確認した。そしてびっくりした。自分たち四人以外のメンバーの中に、長谷部新菜の名前が入っていた。
「人数が少ないので入ります。が、学級委員は全体を統括する必要があるので、あまり当てにしないでください」
と新菜は言いながら、一瞬、優花にだけわかるようににらんできた。優花もその瞬間見つめ返したけれど、いい気分ではなかった。
(なんだろ……。不安)
楽しむどころではないかもしれない。優花はこっそりとため息をつくのだった。




