圭輔の母親
圭輔の母親、紗百合はともかく底抜けに明るい人だった。話す声も大きくて、笑い声は太鼓のように響く。その細くて小さな体のどこからそんな声が出るのだろうと思うほど、パワフルな女性だった。背が高くてガタイのいい、それでいて無口な圭輔とは真逆だった。
「あら、そうなの。優花ちゃんも苦労人なのねえ」
紗百合の話術の巧みさのせいか、いつの間にか優花は自分の家庭環境について自然に話してしまった。いつもなら気構えてしまう話なのに、紗百合の誘導はそれを感じさせなかった。
(さすが、スナックのママ。聞き上手、とも取れるけど、聞き出すのがうまいんだ、人の話を)
「でも、苦労人に見えないのはお兄さんのお手柄ね。きっと、親以上に愛情を注いでくれているんでしょう。それがよくわかるわ」
優花だけでなく、会ったこともない兄のことも持ち上げてくれる。身内がほめられて、気恥ずかしいとも思うけれど、悪い気はしなかった。
「数馬さんはシスコンだもんなあ。俺から見たら過保護すぎるくらい」
竜が合いの手を入れてきた。すると、紗百合はパッと竜に向き直って、にやにやとしながら言い返した。
「あんただって人のこと言えないでしょ。日奈ちゃんだっけ? 妹可愛くってしょうがないんでしょ」
「まあ、そうですけど、数馬さんほどじゃ……」
「同じようなもんよ。可愛い妹を持つ兄はみんな大変ね」
竜は気分が浮上してきたようだ。話したいことを話してすっきりしたというのもあるだろうけれど、紗百合に言ってもらいたい一言を言ってもらえたからだと思った。
(あんたはバカだけど、悪いのはあんたじゃない、かあ)
改めて思い返してみて、的確過ぎる言葉に驚いた。竜がしたことはバカだったと否定しつつ、竜のこと自体は否定しなかった。上っ面だけでない、でも竜を慰めるに十分な一言だった。竜の表情を見ればわかる。あの瞬間に、竜の気持ちがカチッと切り替わったのが分かった。
(言葉の選びかたも上手いんだなあ)
こんなふうに人の気持ちに寄り添える言葉をかけられる人になりたい。優花は思った。自分は、思ったことを率直に表しすぎて、人を傷つけてしまったことがたくさんある。逆に、思ってもいない言葉を口にしてしまって、後悔したことも。圭輔の母親のように、上手に人の話を聞き出せて、上手に声をかけられたらどんなにいいだろうか……。
「あーもう。女同士で話したいのに男の子が入ってくると面倒ね」
突然、紗百合が叫んだ。叫んだと言っても、今までの声が大きかったのでこれまでの声量とそこまで大差はなかったのだけれど。
「優花ちゃん。一緒に近くの喫茶店行こう? これじゃ落ち着いて話もできないわ」
紗百合は優花の腕をグイッと引っ張って無理やり立たせてきた。優花はびっくりしながら、つられて紗百合のするとおり立ち上がってしまう。
「おい、店の準備どうすんだよ」
圭輔が抗議の声を上げた。でも、紗百合は全く気に留める様子もなく、不敵にほほ笑んだ。
「圭輔一人でできるでしょ。何なら竜にも手伝ってもらいなさいよ」
「え……俺?」
突然名指しされて戸惑う竜。しかし紗百合はお構いなくサッサと優花の腕を引いて出口に向かっていく。
「というわけで、あとはよろしく!」
優花はあれよあれよという間に紗百合に手を引かれ、呆然とする竜と圭輔の表情を見送ってスナックさゆりの外に出ることになってしまった。
紗百合は宣言通り、近くの喫茶店に優花を連れてきた。「喫茶むさらき」と看板に書かれたその店は、スナックさゆりと同じくらい狭かったけれど、シックな家具とおしゃれな小物や小さな絵画が無駄なく配置されていていた。コーヒーの香りの漂う店内に客はおらず、静かなピアノのBGMだけが流れていた。
「優花ちゃんはコーヒーとか飲む?」
「え……いいえ、あんまり……」
紗百合の勢いに押される形で答えると、紗百合は素早く「マスター」とカウンターの向こうにいる、細身で整えられた口ひげを生やした男性に声をかけて、アイスカフェオレとアイスコーヒーを注文した。
ほどなく、アイスカフェオレとアイスコーヒーが二人の前に置かれた。優花が戸惑っている間に、紗百合はブラックのままアイスコーヒーをストローも差さずに飲み始めた。
「ごめんね、急に連れ出したりして。びっくりした?」
スナックにいたときのトーンとは打って変わって、低めに抑えた声で紗百合が話しかけてきた。
「まあ、少し……」
素直にうなずいて見せた。紗百合はクスッと笑って、再びコーヒーを一口飲んだ。
「あとは男同士で話したほうがいいかと思ってね。なんせ、竜は圭輔の初めての友だちらしい友だちだから」
「え?」
アイスカフェオレを飲みかけた手を止めて、優花は紗百合を見つめた。紗百合は何も言わなかった。しばらく、ピアノのメロディーだけが聞こえてきた。
「あの子、無愛想でしょう?」
唐突に尋ねられて、一瞬優花は戸惑った。「あの子」のことが圭輔のことだと気づくまで、少し時間がかかった。圭輔は「あの子」という感じではないのだ。
「昔っからそうなの。表情が出ないって言うか、気持ちを言葉にするのも苦手だし。親の私でも、何考えてるかわからないってことがよくあって」
何と答えていいのかわからないまま、優花はカフェオレのグラスに差さっているストローを軽く回した。
「おまけに、昔から他の子より頭一つ分体が大きくってね。近寄りがたい印象を与えちゃうみたいで……。そんなんだから、友だちっていう友だちと一緒にいたところ見たことがなかった」
「でも……」
優花は思わず口をはさんだ。
「百合が……いますよ」
そう。優花と竜は、百合から圭輔を幼馴染だと紹介された。百合はずっと圭輔と共に子どものころから過ごしてきているはずだ。
「ああ、百合ちゃんはね、友だちとはちょっと違うかしらね。たとえるなら……兄妹みたいな感じね、きっと」
紗百合と圭輔が桜町にやってきたのは、圭輔が八歳のころだったそうだ。たまたま近所に住んでいた同級生が百合で、一緒に登下校するようになった。そのころ、紗百合は今の店を開いたばかりで忙しく、圭輔が家で一人ぼっちでいるのを百合の両親が気にかけて、よく夕食を一緒に食べてくれるようになったのだという。
「思えば、百合ちゃんだけね。圭輔のこと怖がらなかったの」
圭輔と百合の関係も不思議なものだと思った。紗百合は兄妹みたいなものだというけれど、実際のところお互いのことをどう思っているのかわからなかった。いつかちゃんと聞いてみたいと改めて思った。
「竜をうちの店に連れてきたときはびっくりしたのよ。無愛想なのは相変わらずだけど、会話らしい会話してるし。男の子同士ってこういう感じなんだーって、初めて見たのよ。あのときは新鮮だったわ、ホント」
「私も……」
優花の口から、自然と言葉がもれてきた。優花はちょっとためらったけれど、思い切って話し始めてみた。
「実は、びっくりしてて……。いつの間に、竜と圭輔、あんなに仲良くなってたんだろうって。だって、竜はうちで何にも言わなかったから、なんて言うか……」
「……ショックだったとか?」
紗百合の言葉に、思わず目を見開いた。その反応を見て、紗百合は目尻にしわを作っていたずらっぽく笑った。
「当たりね?」
優花は戸惑いつつ、小さくうなずいた。
「自分でも、よくわからないんですけど……なんで、言ってくれなかったんだろうって考えると、変な気分になるんです。だって、竜と圭輔は、私と百合を通じて知り合ったんだから、言ってくれたって別にいいじゃないって……」
なぜ、今日初めて会った人にこんな愚痴っぽいことを言っているのだろう。そう思いながら、優花の口は止まらなかった。でも、こうして話していけば、自分の感じているもやもやの正体がつかめそうなきがしていた。
すると、紗百合はくすくす笑いながらまた一口コーヒーを飲んだ。カラン、と氷の音が響いた。
「男の子って、余計なことは話さないのよね」
「余計な、こと?」
圭輔と仲良くなったという話は、余計なことなのだろうか。そうは思えず、ただ紗百合の微笑む横顔を見つめてしまう。
「女の子は、日常のささいなことだって、話題にして話すことができるけど、男の子は言わない。男の子が語るのは、とんでもなくバカなことか、夢物語か、自慢話」
それこそ余計な事のような気がするのだけれど。優花は思わず首をひねってしまう。
でもよく考えてみて、紗百合の言葉を否定する材料がないことに気づいた。優花は、男の子という存在をよく知らない。身近で接してきた異性は兄くらいなものだ。しかし優花にとって兄は兄であって、男の子ではない。
「でも、圭輔にはそれをする相手が今までいなかったのよね。……きっと、竜も」
その言葉に、はっとした。何度も転校を繰り返していた竜には、当然、友だちらしい友だちなんてできなかったのだろう。今だって、大人たちの中で働いているから、同世代と知り合う機会はほとんどない。
(圭輔は、竜と同じように働いてるし、お父さんがいないっていう共通点もある。それだけで、話しやすい相手なのかも……)
「ほら、カフェオレ薄くなっちゃうよ」
促されて、優花はそろそろとカフェオレを飲んだ。クリーミーなミルクの味の後に、ほんのりコーヒーの苦みが広がった。
「美味しい」
優花がつぶやくと、ひげのマスターが小さく微笑んだ。
「でしょ?」
にかっと紗百合が目尻にしわを寄せて全開に笑った。
「また一緒に飲みに来ようね。女同士で語ろうよ」
まるでお酒に誘われているみたい。そう思ったらおかしくて、優花もつられて笑ってしまったのだった。