居候の経緯
なんで連れてきてしまったのだろうか。優花は自転車を押しながら1人悔やんでいた。
「楽しみだなぁ。優花の手料理。絶対美味しいって言い切ったからな。すっごい自信あるんだろうな」
隣で竜が楽しげに話し続けている。一応荷物はぜんぶ持ってくれているが、大した量でもないのに恩着せがましいのでかえって迷惑だ。
(って、いつの間にか呼び捨てされてるし!)
「なんで下の名前で呼ぶのよ。馴れ馴れしい」
「だって、佳代姉さんも優花のお兄さんもみんな橘さんじゃないか。なんだかややこしくなるだろ?」
「だからって、なんで呼び捨てなの」
「えー? じゃあ優花ちゃん」
「それはそれで気持ち悪い」
「わがままだなぁ」
「どっちが!」
「じゃあ優花でいいじゃん」
(疲れる……)
こんな感じのやり取りを何度も繰り返している。未だかつてない経験だった。同級生の男子はたいてい、優花にお愛想を言ってくるか冷やかしてくるか、もしくは遠巻きに見ている。まともに会話したことがなかった。この竜とのやり取りを会話と呼んでいいかはわからないが。
「俺のことは竜って呼んで」
「……」
「ほら、呼んでみてよ。せーの」
「しつこい!」
そんなこんなで家に着いた。いつもより帰宅時間が遅くなってしまった。兄たちが帰ってくるまでに作り終わらないかもしれない。優花は少し焦っていた。
「適当にテレビでも観てて。喉乾いたなら冷蔵庫のお茶勝手に飲んでいいから」
きょろきょろと物珍しそうに部屋を見ている竜に、優花は口早に言った。赤の他人が家にいるのは落ち着かなかった。さっさと料理を作って食べさせて帰そうと思った。それなのに。
「何か手伝おうか?」
と、竜は愛想よく笑いながら言った。
「私1人で大丈夫」
優花は素っ気なく返した。
「なんかやらせてよ。急にうちにお邪魔したし。じゃがいもの皮むきくらいやるよ」
竜はしつこかった。この調子で言われ続けるのもうっとおしいので、仕方なく皮むきをお願いした。ピーラーでやるのだから、仮に不器用だったとしても、さほど問題はないはずだ。はずだったのだが……。
「いてっ」
むき始めからいきなり竜は指を切った。ピーラーを滑らせたのだ。
「もう! 使ったことないの? それともとんでもない不器用なの?」
優花は慌てて竜の手からじゃがいもとピーラーを取り上げた。竜の指先に一筋の赤い切り傷が見えた。少し血が盛り上がってきている。
(まったく。余計なことさせて)
仕方なく優花は竜に絆創膏を貼ってやった。竜は自分の指先を見ながら呑気に言った。
「そういえば、俺料理苦手だった」
「はぁ?」
「包丁苦手なんだ。調理実習とか悲惨でさぁ。とうとう刃物持たせてもらえなくなって。図工の彫刻刀とかは得意なのになあ、なんでだろ?」
「あっそ……」
(悲惨って、何があったの)
しかし、それを突っ込むと長くなりそうなので、あえて聞かないことにした。
結局、テーブルを拭いたり食器を用意するのが竜の仕事となり、大した戦力にはならなかった。
優花がおかずを作り終え、あとはご飯が炊けるのを待つだけになった頃、佳代が帰ってきた。
「え⁉︎ なんで?」
佳代は「つわりの辛さも一瞬忘れた」と後で言ったほど驚いた。
事の経緯を説明している間に、数馬が帰ってきた。
「初めまして。葉山竜です」
数馬が声をあげるより先に竜が愛想よくあいさつした。そして再び経緯を最初から説明した。その間、数馬は唖然としたままだった。
二度目の説明が終わって、やっと夕食の時間になった。今日のメニューはシチューとサラダ。それから作り置きのほうれん草の煮浸しに惣菜のコロッケだ。
「うん、美味い」
竜はシチューを一口食べてすぐ満面の笑みを浮かべた。
「簡単だもん」
優花はそう言ったが、竜はそれに被せるように首を横に大きく振った。
「いいや。美味いよ。こんなの初めて食べた。優花はすごいな」
「そんな、別に……」
あまりに素直に褒められて、思わず下を向いてしまった。すると大げさな咳払いが優花の隣から聞こえた。数馬だった。
「喋ってないで早く食べろ」
数馬はじろりと竜を睨んだ。竜が首をすくめて慌てて食べ始めると、佳代がクスクス笑い出した。
「何がおかしいんだよ」
数馬が不機嫌そうにそう言うと、ますます佳代は笑いが止まらないようだった。
「だって」
佳代は一度大きく深呼吸して笑いを収めたが、まだちょっとしたはずみで笑い出しそうだ。
「やっぱりシスコンよね」
「………うるさい」
すると突然。竜が大げさに何度も頷いた。
「わかります、それ。俺も五つ離れた妹がいるから。歳が離れた妹って可愛いですよね〜」
「だから、しゃべってないでさっさと食え!」
「……はぁい」
今度こそ食事が始まった。でも、食べながら同じようなやり取りが何度か繰り返された。兄と竜はあまり相性が良くないらしい。と思っていたら。
「なんだか二人の息ぴったりね」
佳代がにこにこしながらそう言った。
(え⁉︎ 息ぴったり?どこが?)
思わず兄と竜を見比べた。数馬は不服そうだ。竜はなぜか照れている。そして数馬がそれに突っ込む。
(こいつがうちに来たらこんな感じかぁ)
もし来たら毎日疲れるだろうな、兄と自分が。そう思わずにいられなかった。
そして食後のこと。
「洗い物は大丈夫だ」
と言って、竜がまた仕事をしたがった。洗い物くらいなら……料理ではないし。そうは思ったが、先ほどのピーラーの件もあったので、優花も一緒にやることにした。竜が洗い担当で、優花がすすぐ担当だ。洗い流すとき、万が一汚れが残っていればすぐに指摘できるからだ。
でもやってみると洗い残しなどなく、思いの外丁寧な作業をしていた。
「洗い物は上手なんだ」
皮肉のつもりで言ったが、竜は素直に褒め言葉として受け取ったようだ。
「いやあ、わかる? この洗い物さばき」
「何そのさばきって……」
「まあ聞いてよ。俺、どの家に行っても洗い物やらされてさ」
唐突に話が始まって、一瞬何のことだか分からなかった。それはどうやらこれまでいろんな家をたらい回しにされていたときの話らしかった。
「汚れがちょっとでも残ってたりすると、めちゃ怒られるんだ。ちょうど姑が嫁をいびるみたいな。って俺は嫁じゃないっての」
「誰も突っ込んでないってば……」
「それで、絶対文句つけさせないって思って、腕を磨いたわけ。あ。腕を磨く、皿を磨く。うまいこと言った?」
「……で、洗い物は上手になったんだ」
「そう。そういうこと。でも進んで洗ったのは今日が初めて」
と、竜はしみじみとした表情になって言った。
「俺さ、家だといつも一人で食べてるんだ。どの家もそうだったけど、一緒にいない方がいいみたいな空気でさ。なのに全員分の洗い物押し付けられるんだ。やる気無くすだろ? でもさぁ」
竜は少しの間言葉を切った。優花は知らぬ間に手を止めて話に聞き入っていた。
「今日はこんな家族団欒みたいな食事で、久々に楽しかったんだ」
竜は優花を振り返り、満面の笑みを浮かべた。その笑顔があまりにも眩しくて、不覚にも優花の心臓はどきんと大きく跳ねた。
「あ……そう。よかったね」
優花は動揺を隠そうとまた手を動かし始めた。
「あんたも苦労してるんだね」
ぶっきらぼうに答えると、竜は「違う違う」と人差し指を動かした。
「あんたじゃなくて、竜って呼んでってば。ほら、せーの」
「だからしつこい!」
それから、二人でぎゃんぎゃんしながらも何とか洗い物を終えた。そのとき既に八時を回っていた。
遅くなったから数馬が竜の家まで車で送ろうと言った。竜はかなり遠慮して、自力で帰ると言い張ったが、「遅くなりすぎるとあちらの家の人に怒られるんじゃないか」と言う佳代の一言で、竜はようやっと頷いた。
「じゃ、優花。美味しかったよ。また食べに来ていい?」
「……勝手にすれば」
二度と来なくていいと思っていたはずなのに、出てきた言葉は思いもかけないものだった。
(一人で食事してるなんて聞いたからよ)
優花も親はいないが、一人で食事したことなどほとんどない。竜がひとりぼっちで食事しているところを想像したら、何だか胸が締め付けられたのだ。竜がずっと明るい笑顔を振りまいていたからこそ、そのギャップが辛かった。来るななんて、言えるはずもなかった。
そう考えていたのは、優花だけではなかった。一時間後、竜を送って帰ってきた数馬がこう言った。
「あいつのこと、前向きに考えようと思うんだけど」
こうして、話し合いが重ねられた結果、竜が橘家に来ることが決まった。優花も反対する理由が見つからず、むしろ行き先の決まらない竜に対して同情心が少し芽生え、了承するにいたったのだった。