いとこの子ども
結局、お昼前には目が覚めた。部屋の暑さで目が覚めたのだ。エアコンをつければいいのかもしれないが、電気代のこともあるし、何より優花はエアコンの風が苦手なのだ。普通に起きているときは問題ない。でも、眠っているときにうっかりエアコンを消し忘れてしまうと、目が覚めた時の体のだるさが半端ないのだった。
睡眠時間が短かった割に、体はすっきりしていた。眠りが深かったのがよかったのかもしれない。優花は顔を洗おうと一階に降りた。すると、レンジの音と一緒にいい匂いが廊下に漂っていた。キッチンをのぞけば、竜がレンジから温めた酢豚を取り出すところだった。
「おはよう、優花」
竜が笑顔で振り向いた。
「もう起きてたんだ」
「俺もさっき起きた。腹減ってさ。優花も食べる? 俺が用意しとくから、顔洗って来いよ」
料理は全くダメな竜だが、あるものを温めることくらいならできるのだ。この場は竜に任せて、優花は顔を洗って簡単に身支度を整えた。優花と竜がテーブルについて食べ始めたころ、数馬も起きてきた。
「二人、早いな」
数馬があくびをしながら頭をかいた。
「お兄ちゃんが遅いんだって」
「ここのところあんまり眠れてなかったんだから仕方ないだろ」
出産予定日を過ぎてから、いつ陣痛が来るかわからなくて夜もおちおち眠っていられなかったのだそうだ。佳代の言っていた「気疲れ」は早朝の出産のことだけでなく、その前から続くものだったらしい。
それから、三人で朝食か昼食かわからない食事を終えると、特に相談したわけでもないがそれぞれ出かける準備を始めた。
「お義母さんたちがもう病院に来てるそうだ」
車に乗るときに数馬が言った。深夜でも構わないから産まれたら連絡してくれ、と義父母に言われていたので、今朝病院を出る前に連絡しておいたのだそうだ。
佳代の両親にとって初孫なのだ。早く顔が見たいのも当然のことだろう。そう思ったとき、優花ははっと気づいた。
「お兄ちゃん、待って。忘れもの」
優花は慌てて家の中に戻った。そしてほどなく車に乗り込んだ。
「お父さんとお母さんにも見せてあげなきゃ。赤ちゃんの顔」
優花の手の中には、数馬と優花の両親の遺影があった。両親の仏壇の前で、産まれたことは既に報告済みだ。別に写真がなくとも、きっとそばで見てくれているのだろうし、孫の誕生を喜んでいると思う。でも、写真があることで、より近くに二人を感じられそうな気がしたのだ。それはただの自分勝手な思い込みかもしれないけれども。
「そうだな」
数馬は言葉少なに、優しく微笑んだ。優花の言わんとすることを、ちゃんと理解してくれたのだ。優花はそれだけでうれしかった。
優花たちが到着すると、佳代のベッドのわきの椅子に佳代の両親が並んで座っていた。赤ん坊は佳代の腕の中で眠っている。
「今、おっぱい飲んで眠っちゃったところなのよ」
小声で佳代が説明する。まだ母乳がちゃんと出るわけではないけれど、泣いたら吸わせることを繰り返すことで、だんだんと母乳が出てくるのだそうだ。まだ産まれたてなので、ちょっと吸ったら疲れて眠ってしまう。一、二時間ほどでまた起きてくる。優花たちが帰ったあと、佳代はすでにそれを繰り返していたらしい。眠っている赤ん坊を見つめる佳代は、すでに母親の顔をしていた。
「佳代が産まれたときを思い出すわよねえ、あなた」
佳代の母が隣に座る夫に声をかける。佳代の父はあまり表情を動かさずにうなずいた。
(おじさんとおばさんに会うの、久しぶりかも)
佳代の母——雅恵は、佳代と顔もそうだが雰囲気がよく似ている。特に横顔がそっくりだと優花はいつも思っている。佳代があのくらいの年になったら、きっと雅恵のような感じになるのだろうと容易に想像できた。
佳代の父——喜一郎は、白髪交じりの髪を短く切りそろえ、眼鏡をかけ、表情はいつも基本的にむすっとしたように見える人だ。笑ったところを見たことがないように思う。ちょっと近寄りがたく、優花は少し佳代の父が苦手だった。
「名前はもう決めたのか?」
喜一郎が数馬に向かって尋ねる。途端に、数馬が背筋をピンと伸ばして緊張の表情を作る。
「いえ、まだ……。候補はいくつかあるんですが、性別がわからなかったので」
今回、数馬と佳代はあえて性別を聞かないことを選択していた。だから、産まれてみて初めて女の子だったことを皆知ったのだった。
「変な名前はつけるんじゃないぞ。今どき、読めない名前が多すぎて困る」
怒った調子で喜一郎がくぎを刺した。数馬が汗をかきつつうなずいた。この汗は暑いせいではないのだろうと、優花は兄に同情する。義父の前で数馬はいつもこんな感じなのだ。
「大丈夫よ、お父さん。ちゃんとわかってるから」
佳代が間に入って空気を和らげる。
「そうよお。数馬君はそんな変な名前を考える子じゃないから、心配いらないわよ」
雅恵も娘に同調して合の手を入れる。雅恵は、どういうわけだか数馬びいきなのだ。喜一郎が厳しい言葉を数馬に投げかけると、必ず数馬に味方してくれる。それはそれで、数馬が冷や汗をかく原因でもあったのだが。
佳代はそっと透明のケースに赤ん坊を戻した。すかさず雅恵が初孫を目を細めながらのぞき込んだ。優花は遠巻きに様子を見ていた。
赤ん坊は、朝方よりも顔のしわがのびてきれいな顔になっている。どちらに似ているのかは、まだわからない。でも、すっと伸びた鼻筋は兄に似ているかもしれないと思った。
「優花ちゃんに似てるかもしれないわねえ」
不意に雅恵がニコニコしながら言ったので、一斉に優花に視線が集まった。
「わ、私?」
びっくりしてしまって、思わず後ずさりした。とはいっても、背中はすぐ壁だったので、そんなに下がったわけではないが。
「不思議なことなんてないのよ。だって、血がつながってるんだから。親よりもその周りの親戚に似ていることだってよくある話よ」
そこで、雅恵のにこやかな視線が優花の隣の竜に向いた。竜が居心地悪そうに少し身じろいだ。
「竜は、おじいちゃんに似てるかしら。輪郭とか」
「え……」
おじいちゃん、とは、竜と佳代の祖父のことらしかった。今は病気を患っていて、長期の入院生活中だ。優花は数回しか会ったことがないので、その面影がよく思い出せない。
戸惑いを隠せない竜に対し、雅恵は「それもそうよね」と勝手に納得した調子で先を続けた。
「だって、多喜子さんがお義父さんによく似てるから——」
「雅恵!」
喜一郎が大声で雅恵の言葉を無理やり遮った。その声に驚いたのか、赤ん坊が泣きだしてしまった。佳代が慌てて抱き上げ、あやし始めた。喜一郎と雅恵がいくらか気まずそうに目を伏せた。
(多喜子……竜のお母さん)
思わず、竜の横顔をうかがった。少し、青ざめているように見えた。
(竜は、母親似ってことかな……)
竜のアルバムに、母親の写真は一枚もない。だから、優花は多喜子の顔を知る術がなかった。多喜子に関しては、佳代から聞いた話と、竜が少しだけ語った昔の話。この二つのわずかな情報しか持っていない。そのどちらもが、ひどい話だった。
「そりゃ、血がつながってるんだから似てますよ。当然じゃないですか」
一同が沈黙する中で、突然、竜が白い歯を見せていつもの調子でにかっと笑いながら言った。
「今度じいちゃんの見舞いに行ってもいいですか? 全然会いに行けてないし、似てるかどうか確認したいし」
「あ……え、ええ。もちろん。ただ、ほとんど寝てるから、おしゃべりはできないかもしれないけど」
取り繕うように、わざとらしいほど明るく雅恵が応じた。赤ん坊も、泣き止んで再び眠り始めていた。
それからは、赤ん坊を起こさぬよう、小声で大人たちはいろいろ近況など話し始めた。優花は黙って聞きながら赤ん坊の顔をのぞき込んだりしていたが、知らぬ間に竜が病室からいなくなっているのに気付いた。
(どこ行っちゃったんだろ)
心配になって、優花はそっと病室から出た。あたりを見回したが、竜は見えなかった。
しばらく廊下を歩いてみた。すると、ナースステーション横の待合室に竜を見つけた。宙を見ているのか床を見ているのか、竜の視線はどこともなく眺めているように見えた。優花は声をかけないままその隣に座った。それに気づいているのか気づいていないのか、竜は微動だにしなかった。瞬きすらしなかった。でも、優花は声をかけなかった。竜は気づいていると思った。だから、竜が話し始めるのを待った。
「……血が、つながってるから……」
不意に竜が口を開いた。
「似てるのは、仕方ないんだよな」
竜は独り言のようにつぶやく。
「俺はそう思ってないけど、人から見ると似てるらしいんだよね。俺と、あの人」
あの人、とは竜の母親の多喜子のことだ。多喜子のことを、竜は決して「母」と呼ばない。そしてその話題を出すことは無いに等しい。「父さん」のことはたまに話してくれるけれども……。
「なんか、改めて言われるとさ……やっぱり血がつながってんだなっていうか。あの人の息子なんだなっていうか……。こう、思い知らされると、意外とグサッとくるんだよな」
すると、竜はふっと鼻で笑った。その横顔を見ていたら、優花の胸がずきんと音を立てて痛んだ。
「だから、俺、あんまり自分の顔見ないようにしてる。この顔、嫌いなんだ」
「え……」
優花はびっくりしてしまった。優花自身も、自分の顔が嫌いだ。この顔のせいで、いろいろトラブルに巻き込まれてきた。
(でも、竜が自分の顔を嫌うのは……)
優花と理由が違う。母を思い起こすのが嫌なのだ。できるだけ自分の母親のことを考えないようにしたいからなのだ。それなのに、竜はその顔でいる以上、逃れられない。目に入るたび、思い起こさずにいられない。それはどんなに辛いことなのだろう。優花には想像もつかない。
と、竜がニッと笑いながら優花を見た。
「ま、イケメンに産んでくれたことはよかったなとは思うけど。それだけが救いだな」
「自分で言っちゃうんだから……」
呆れ顔で優花は竜を見る。
でも、こんなふうに竜がふざけるのは、わざとなのだ。こんな時でも優花に気を遣って、空気が重くなりすぎないようにするのだ。
「さて、そろそろ戻るかな。さすがに、ずっと病室にいないと変だと思われるし」
勢いをつけて竜が立ち上がった。優花は少し考えてから、おもむろに立ち上がる。
「あのね、竜」
歩き始めようとする竜を呼び止めた。竜が不思議そうな顔で振り返る。
「あの赤ちゃん、竜に似てるかもしれない」
え? と竜が首をかしげた。
「おばさんは、私に似てるなんて言ったけど、そうは思わないよ。だって、あの子は竜とも血がつながってるんだから。おばさん、言ってたじゃない。親戚のほうに似ていることもよくある話だって」
竜は戸惑い顔で目をぱちくりさせた。優花も、正直この話の落としどころがわからなくて困った。思いつくまま言ってしまったが、結局自分は何が言いたいのだろうか。
そういえば、こんなことが前にもあった。雨の日に、一緒に竜の育ての父の墓参りに行った帰りだ。あのときも、多喜子の話をしていた。竜が辛い気持ちを抑え込んで優花に笑いかけてきた。それが悲しくて、あの時とにかく思いつくままに話したのだ。そして今も。
「えっと……だから、あの赤ちゃんと似てるんだったら、いいんじゃないかなって……」
ごにょごにょと言葉尻を濁してしまう。この言葉が竜にとって正しいものだったのかどうか、自身がなかった。
しばらくの沈黙の後。
「いとこの子どもって、俺から見ると何て呼ぶのかなあ?」
竜が不意に疑問を口にした。
「優花からすると、姪っ子だろ? 俺から見るとなんだろ? 『はとこ』は、いとこの子ども同士だった気がするから、違うよなあ?」
「さあ……?」
「はとこ」はギリギリ聞いたことがあるけれど、それ以外の呼び方など聞いたこともない。その場で、スマホで調べてみることにした。
割とすぐに見つかった。「いとこ違い」というらしい。答えは分かったが、いまひとつピンとこない呼び方だった。
「ともかくさ」
優花のほうを向いて、竜がふわっと微笑んだ。あまり見ない笑顔に、思わずどきっとする。
「あの子は、優花とも俺とも血がつながってるんだな。俺と優花、あの子がいると他人じゃないんだな」
赤ん坊を真ん中にすると、家系図の中で、遠くだけれども、優花と竜は確かにつながる。あの子は、優花とも、竜ともつながりがある、特別な子なのだ。
「そうだね」
優花も思わず微笑んだ。
他人じゃない。竜と自分は、もう他人じゃない。その言葉が妙にくすぐったくて、幸せな気持ちになれるのが、不思議だった。




