未明の産声
それからも、二人は無理やり話題を作っては話し続けたけれど、分娩室の扉はなかなか開かなかった。やがて日付が変わり、話し疲れて、話題も尽きて、二人はただ黙り込むようになっていた。
(あ……寝てる)
優花がふと隣を見ると、竜は目を閉じてこっくりこっくりと舟をこいでいた。
(疲れてるんだろうなあ)
竜は普通に仕事をしてきて休みなくここに来たのだ。眠くなってしまうのも無理はないのだろうと思った。優花は夏休み中なので、朝は普通に起きているがそこまで疲れていなかった。
産まれたら起こしてあげよう。そう思いながら分娩室のほうに再び向き直ると。
「うわっ」
突然、竜の頭が優花の肩にもたれかかってきた。竜は起きる様子もなく、そのまますうすうと寝息を立てて眠っている。
(ど、どうしよう? どかしたら起きちゃうかな)
優花はドキドキしながらそっと竜の様子をうかがった。竜の寝顔は、あどけなかった。無防備な子どもの寝顔そのものだ。この寝顔ならいつまででも見ていられそうだ。優花は不覚にも、かわいいと思ってしまった。
(仕方ない……自分で動くのを待つか)
その可愛らしさにほだされるように、優花はそのままにしておくことに決めた。
静まり返っている廊下に、竜の寝息が耳元で響く。その規則正しい音を聴いているうちに、優花もなんだか眠たくなってきた。
(なんだろ。ドキドキするけど、落ち着くなあ)
ふわふわとした、いい気持だった。次第に、優花のまぶたが重くなり、下に降りてきた。
(これも、麻酔みたいなものかな)
その意識を最後に、優花もすっと眠りに落ちてしまった。
浅い眠りだった。目まぐるしく、夢が駆けていったように思う。そのどれもが素早くて、優花は何が夢に映っていたのか一つも覚えていない。ただ、ふわふわとした気持ちだけがずっと体の中に残っている。
「あらあら。二人で眠っちゃったのね。無理もないわね、だいぶ時間が過ぎちゃったから」
くすくすと笑い声が遠くで聞こえた。
「なんだか、かわいいわねえ。写真撮っちゃおうかな」
「恋人同士っていうより、兄妹みたいね」
(なんか勝手なことを言っているなあ)
「産まれたら起こしてあげましょうか」
(それは私が思ってたことなんだけどな。私が竜を起こしてあげなくちゃ)
控えめな足音が遠ざかっていく。あの靴の音は、たぶん看護師さんだ。看護師さんの足音はうるさくない。きっと、眠っている患者さんを起こさないように静かに歩いているんだな。優花は目を閉じたまま、夢と意識のはざまでぼんやりと考えている。
と、微かに泣き声が聞こえた。赤ん坊が泣いているんだ、と思った。赤ん坊。……赤ちゃんが泣いてる? これって、もしかして?
一気に優花の意識が現実に戻ってきた。何度か瞬きをした。今、自分が置かれている状況が一瞬呑み込めなかった。
気づけば、優花も竜の頭にもたれるようにして眠っていたらしかった。竜は相変わらず優花の肩を借りて眠っていた。そして、分娩室の向こうから本当に微かにだが、赤ん坊の泣き声が聞こえている。
「りゅ……竜。竜。起きて」
何度か体をゆすると、竜がぼんやりと目を開けた。とろんとした目をゆっくりと巡らせて、優花のほうを見た。竜の瞳の焦点が合う。
「はわ⁉︎」
竜が変な声を上げた。
「あ? わ⁉︎ 寝てた⁉︎ 俺、寝てたの⁉︎」
竜は飛び跳ねるように優花から体を離した。こんなうろたえる竜は見たことがない。かえって優花のほうがびっくりしてしまい、きょとんと竜を見つめてしまった。
「ごめん! 俺、そんな、えっと、寝るつもりじゃあなくて……」
顔を真っ赤にして言い訳している竜は、必死過ぎて可愛く見えた。そんなふうに思ってしまうのは、さっき寝顔を見てしまったせいだろうか。慌てている竜を見ていたら、自分の気持ちが驚くほど冷静になっていく。
「そんなことより、竜。ほら、聞こえない?」
はたと竜が動きを止めた。しんと静まる廊下に、微かに聞こえる赤ん坊の声。気のせいではない。間違いではない。確かに聞こえるのだ。
でも、それが本当に二人が思っている声なのかが確信できなくて、分娩室のほうをかたずをのんで見守った。
数分後、扉が開いて若い看護師さんがニコニコしながら出てきた。
「あら、起きていたのね」
ちょっと残念そうに言いながら、看護師さんが晴れやかな笑顔で告げた。
「午前三時ちょうど。元気な女の子よ」
途端に、胸がいっぱいになった。この感情をどう表せばよいかわからなくて、でももう溢れそうなこの思いをどうにかしたくて、優花は竜のほうを見た。
竜も優花のほうを見ていた。何とも言えない表情をしていた。でも、その瞳はキラキラ輝いているように見えた。
優花は知らぬ間に竜のほうに両手を伸ばしていた。ほとんど同時に竜も両手を伸ばしてきた。そして二人は両手の指を絡めてがっちりと手を握り合った。
「産まれたって」
竜がぽつりとつぶやく。
「女の子だって」
優花の口からも言葉がもれる。
どちらからともなく、笑い声がこぼれた。それ以上言葉にならなくて、二人で両腕を上下に振った。
「やった」
竜が小さくそう言った。
そのとき、この感情を何と表現すればいいのかやっとわかった。優花は、何度も頷いた。
「やったね」
優花の呟き声は震えていた。
「なに泣いてんだよ」
言われて初めて、自分の目尻から温かい涙が流れているをの知った。そして、竜の目もうるんでいるのを見逃さなかった。
「そっちこそ」
すると、竜はいつもの調子で白い歯を見せてにかっと笑った。
「嬉しいんだから、いいじゃん」
そのとき、優花の心臓がとくんと深く音を立てた。そして、優花は涙を流しながら、自然と微笑んだ。
「そうだよね」
竜も微笑んだ。心なしか、優花の手を握ってくれている竜の手の力が少し込められた気がした。だから、優花もまた握り返した。
一緒にこの瞬間を喜んでくれる人が竜でよかった。優花は心底そう思ったのだった。
それから。優花と竜は再び病室に戻っていた。カーテンの隙間からは、白み始めた夜明けの空がのぞいていた。ほどなくして、車いすに乗った佳代と隣に付き添う数馬、そして透明のケースに入れられた小さな小さな赤ん坊がやってきた。
「わあ……」
優花と竜はそっとケースを覗き込んで、思わず感嘆の声が漏れた。ピンクのタオルにくるまれた、まだしわしわの小さな赤ん坊が、口をパクパクしながら、か細い泣き声を立てていた。
「泣いているけど、それは呼吸の練習しているのよ」
看護師が佳代に布団をかけながら話している。佳代は少し出血が多かったらしく、しきりに「寒い」と言っていた。夏にしては分厚い布団をかけてもらうと、佳代は少しほっとした様子で力を抜いた。疲れ切っている様子だが、顔はさっぱりと晴れ晴れした笑顔だった。
看護師はその後の対応のことをさらりと説明して、すぐに出て行った。佳代の様子がとりあえず落ち着いているので、家族だけにしてくれたのだろう。
「お姉ちゃん、お疲れ様。おめでとう」
優花の言葉に、佳代は満面の微笑みで応えた。これが本当の聖母の微笑みだよね、と優花は秘かに思った。
「少し眠るか?」
数馬が佳代に尋ねた。佳代は少し考えてから答えた。
「疲れてはいるんだけどね、眠れそうにないの。なんか、変な気分」
「変な気分?」
と、数馬が顔をしかめたので、佳代が慌てて首を横に振った。
「体が変とかそういうのじゃなくてね。なんていうかな。もうお腹の中にいないんだなあとか、あんなに痛かったのに、今その痛みが全然思い出せないなあとか。いろいろなこと考えちゃって。全身はへとへとなのよ。力出し切っちゃったみたいに。でも頭だけが冴えちゃってるの」
佳代の説明がわかるようなわからないような。出産という大きすぎる出来事に、みんな頭がついて行かないのだ。ともかく、母子ともに健康であることは何よりだと思うことにした。
「眠れないにしても、ゆっくり休もう。俺はなんか疲れた。眠い」
そう言いながら、数馬があくびをした。
「なんでお兄ちゃんが疲れるのよ。お姉ちゃんはともかく」
すると、佳代がくすくすと笑った。
「気疲れよね、きっと」
しかし、休むにしても全員がこの病室にいるわけにもいかなかった。少し話し合って、優花と竜と数馬は一度家に帰ることにした。全員風呂にも入っていなければ、ほとんど徹夜状態なのだ。佳代と赤ん坊のことはひとまず病院に任せておけば問題ない。家で休んだあと、午後改めて病院に来ることにした。
タクシーを病院から呼んでもらって(数馬は職場から直接病院に来たので車に乗ってこなかった)、三人はのろのろと乗り込んだ。タクシーが走り出すと、猛烈に眠気が襲ってきた。タクシーの程よい振動と、静かなエンジン音が何とも心地よかった。けれど、十分程度の道のりだから、と思ってあくびをかみ殺してがまんした。
家に着くと、男二人はとにかく先に寝ると言って寝室に行ってしまった。優花は汗を流さないとベッドに入りたくないタイプなので、お風呂に入ってから部屋に向かった。そのころには、すでに朝日が顔を出していた。
(こんな、朝に寝るなんて初めてかも……)
そう思いながら、ベッドに倒れこむ。そして次の瞬間にはもう優花は眠ってしまった。夢も見ない、深くて幸せな眠りだった。