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真夜中の恋バナ

 食事を終えて病院に戻ると、佳代はまだ普通の病室にいた。痛みはかなり強くなってきているが、子宮口が思うように広がらないらしい。分娩室に移動するのはもう少し先になりそうだということだった。

 佳代は周りを気にする余裕がないようで、優花たちが病室に入ってきてもちょっと視線を向けただけで声をかけてくることはなかった。痛みに唸りながら必死で陣痛逃しの深呼吸をしていた。汗で額に前髪が張り付いてしまっていた。

(人が産まれるって、大変なことなんだな)

 数馬が佳代の背中をひたすらさすっていたので、優花は額の汗を拭いてあげることにした。佳代が微かに笑ったけれど、力のない笑みだった。

 次第に、佳代は陣痛の合間に猛烈な眠気を覚えるらしく、痛みが引いたらしい瞬間、すうっと目を閉じて眠ってしまうようになった。でもまたすぐに痛みのせいで目を覚まし、苦しみ始める。それを何度も繰り返すので、はたから見ている優花たちは、佳代が目を閉じるたびにハラハラしていた。本当にこれは大丈夫なのだろうか? 眠ってしまうなんて、良くないことなのでないだろうか?

「案外多いのよ。陣痛の合間に眠くなっちゃう人」

 様子を見に来てくれる看護師さんが言った。

「出産直前に、脳からエンドルフィンっていう麻酔みたいなものが分泌されるの。きっと、体が本番に備えようとする働きなのね。不思議だけど、人間の体ってよくできているでしょう」

 眠ってしまうことは異常ではないことを知り、優花は心底安心した。そして、その人の体の不思議にも感動した。

「だから、眠っている間は起こさないでね。もうそろそろ子宮口全開になる合図だから、ゆっくり休めるときに休めてあげて」

 そう言いおいて、看護師はまた出て行った。ほんの数分の間だけれど、佳代は気持ちよさそうに眠っている。この時間が大事なのだと、優花は心に留めた。



 夜十時を回ったころ、佳代はいよいよ分娩室に移動することになった。数馬は出産に立ち会う予定になっていたので、そのまま佳代と一緒に入っていった。優花と竜は外で待つ。立ち会う人数が限られているのもそうだが、さすがに遠慮したのだ。

「明日仕事休みでよかった。今日はここで徹夜だな」

「そうだね」

 どちらからともなく、二人は分娩室扉前のソファーに並んで座った。二人の足音が消えた瞬間に、胸をざわつかせるような静寂が降りてきた。

(夜の、病院……)

 廊下は明かりがついているものの、必要最小限にとどめられている。普段は明るい待合室や、外来患者の来るスペースは非常灯がついているのみで暗かった。先ほどまでいた病室の周辺は、すでに出産を終えた人たちの部屋がいくつかあったので、時折赤ん坊のか細い泣き声が聞こえてきていたが、この分娩室前は離れた場所にあるため、その声も全く聞こえてこない。

「静かだなー」

 控えめな声で竜がつぶやいた。

「静かすぎると眠くなっちゃうな。なんか話してよ、優花」

 竜の突然の無茶振りに、は? と優花は思い切り眉をひそめた。

「急に言われても無理。自分でなんか話してよ」

「えー。何話せばいいんだよ」

「自分で考えてよ」

 すると、竜は「んー」としばらく上を向いて考えていたが、名案がひらめいたのか、ぱっと明るい笑顔になった。

「やっぱあれだな。怪談話」

「はあ?」

「夏の夜に話すのはやっぱ怪談でしょ。しかもこの夜の病院っていう環境、最高じゃん?」

 優花は無言で竜をにらみつけた。

「あ、やっぱダメ?」

 いらずらっ子のように、竜はにやにやと笑った。

「優花はあのお化け屋敷もダメだったもんなー。こんな、いかにもって環境で怖い話なんかしたら、一人でトイレ行けなくなっちゃうな」

「わかってて言ってるんでしょ」

 優花が思い切りこぶしを振り上げてみせると、竜はわざとらしいほどに「冗談だってば」と怖がって見せた。その態度に腹が立ったので、そのままこぶしを竜の背中に落とした。「痛!」と抗議されたが、優花はぷいっと顔を背けて無視した。

「怪談がダメなら、そうだなあ……。あ、そうだ。恋バナだ」

 再び「はあ?」と優花は竜をにらみつけた。

「恋バナなら怖くないじゃん。それに、女の子が夜する話って、恋バナじゃないの?」

(何なの、その先入観は……)

 呆れた視線を送った。女の子がいつでも恋バナをしているかといったら大間違いだ。そういう人もいるかもしれないが、優花は違う。というより、優花にはそういう「恋バナ」の話のタネがない。

「恋バナって言ったって……何話すのよ。私とあんたで」

「えー、そうだなあ。例えば……」

 竜が本気で考えだす。面倒なことを言い出さなければいいけれど、と若干不安を感じていると。

「今まで付き合ったことのある人数、とか」

「……人数聞いてどうすんの」

「え? 単純な興味だけど。こういうことじゃなくて?」

 恋バナと提案することもずれていると思ったが、その内容も的を外した感じだった。

(竜も、こういう話は疎いのかも……)

 そう思った途端に、優花も聞いてみたくなった。竜の、今までの「恋バナ」とやらを。

「じゃあ聞くけど、竜は今まで何人付き合ったことがあるの?」

「えーっと」

 竜は指を折って数え始める。

(え⁉ 数えるってことは、いたの⁉)

 びっくりしたまま、竜の指折りの行方を追った。指折りは「五」で止まった。

「中学んとき、五回転校したから、五人、か六人」

「なにそれ。どういうこと?」

「転校先でさ、必ず一人からは告られた。どっかの学校で二人だった気もするんだけど、よく覚えてないや」

 毎日顔を突き合わせているので忘れがちになるが、竜のルックスは人並み以上なのだった。芸能人にいそうだ、と優花も最初思ったのだ。それに加えて、転校生というオプションがあったのだから、当然のごとく、モテて仕方がなかったに違いない。

「つまり、告られたからとりあえず付き合ったってこと?」

「んー、そういうことになるなあ。だって、別に嫌いだったわけじゃないし」

 大したことのない様子で、竜はさらりと言った。

「でも、別に好きでもなかったってこと?」

「そうだなあ。付き合えば好きになるのかなあって思ってたけど。そうでもなかったかな。だから、一ヶ月か二ヶ月かですぐ別れた。俺の転校で自然消滅なんて言うのもあった。だから、どんな子だったか正直よく覚えてないんだよね」

(なんか、とんでもなくひどいことをさらりと言ってるし)

 ふと、これと同じようなことを最近感じたことがあったと思い出した。少し記憶を巡らすと、すぐにわかった。

 長谷部だ。長谷部も似たようなことを言っていたのだ。告白してきた女の子と、断る理由もないから付き合ったけど、長続きしなかった。なぜなら、面白くなかったから、と……。

「男の人って、とりあえず付き合えちゃうんだね。好きじゃなくても」

「え?」

 ムカつくような、悲しいような複雑な気持ちがして、優花は竜から視線をそらした。

「それで、ちょっと違ったらあっさり捨てちゃうんだ。しかも覚えてないとか、ひどい」

 優花はうつむき、膝の上でぎゅっと両こぶしを握り締めた。途端に竜がうろたえ始めた。

「ひどいって言われても……えっと、なんか、ごめん」

「私に謝られても困るし」

「そうなんだけどさ。なんか、とにかくごめん……」

 困り果てた様子で、竜が眉をハの字に曲げた。ちらりとその表情をうかがった。今の竜はまるで、叱られて耳も尻尾も垂れてしまった子犬のようだ。こんな表情をされると、何となく自分が悪いことをしている気分にさせられる。ともかく、「恋バナ」は自分たちには向いていないのが分かった。

「もういいよ。これでこの話はおしまい」

 優花は無理やり話を打ち切った。竜は困った顔のまま頭をかいていたが、特に異論無さそうだった。

 そのまま、二人とも黙り込んでしまった。しん……と辺りが急に静まり返る。息をするのも苦しいほどの静寂。優花は、ただうつむいてやり過ごそうとした。

「あのさあ……」

 不意に沈黙を破ったのは竜だった。

「さっきの話に戻るようであれなんだけどさ」

 竜は、迷ったように視線を揺らしながら人差し指で頬をかいた。

「優花は、誰かと付き合ったことないの?」

 そんなに聞きたいことなのだろうか。優花がうんざりした視線を送ると、竜は慌てた様子で言い訳し始めた。

「いや、だってさ。俺は言ったのに優花は何にも答えないとかフェアじゃないなーと思ったわけで」

 そのあと、答えたくないならいいんだけど……と、竜はかすれそうな声でつぶやいた。

 フェアじゃない、という言葉が引っ掛かった。そう言われると、なんだかむかむかしてきた。確かに、結果として尋ねたのは優花だが、元の話題を振ってきたのは竜のほうなのに。

「……ゼロ」

「え?」

 ぽかんとした様子で竜が首を傾げた。

「付き合ったことないってこと。一回もない。ほら、これでいい?」

 面倒になって、優花は早口で言い切った。

 竜はまだしばらくぽかんとしていたが、やがて「えええー?」と声を上げた。優花は慌てて「しぃー!」と人差し指を口の前に立て、竜は咄嗟に口を押えた。でも驚いた様子は消えなかった。

「うっそだろ? マジで?」

 竜は極端に声を潜めて尋ねてきた。

「優花ほどの美人が、またどうして。告られたこと、いっぱいあるだろ? どうして?」

「どうしてって……好きでもないのにどうして付き合わなきゃいけないのよ」

 何度か目を瞬かせた後、竜は合点がいったようにぽんと手を叩いた。

「そうか。そういう考えもあるのか」

「あのねえ……普通だと思うんだけど」

 この会話の平行線具合に、優花は少し疲れてきた。やはり、恋バナなど向いていないのだ。竜も、自分も。そもそもの考え方が違いすぎて、共感できる要素がない。

「とりあえず付き合うっていうのが全然わからない」

 というのが優花の主張だ。付き合うというのは、お互いのことが好きだから始まることではないのだろうか。好きでもないのに一緒にいられるとは到底思えなかった。

「そうかあ? そりゃもちろん両想いだったら一番いいけどさあ」

 竜は腕組みをしながら真面目な顔で考え込む。

「でもやっぱ、いきなり両想いなんて普通は難しいよ。大体はどっちかが好きになって始まるんだと思うんだよな。それに、結局お互いのことよく知らないんだし、付き合ってみなきゃわからないことだってあると思うんだよなあ」

 そのとき、優花の脳裏に、長谷部の言葉が浮かんだ。


『俺はまだ君のこと知らなさすぎるし、君も俺のことよく知らないでしょ』


 長谷部が「デートしよう」と言ってきたのは、こんな理由だった。

(なんか、竜の言うことと、長谷部先輩が言ってたことが妙に一致する……)

 二人にはどこか似ているところがあるのだろうか。それとも、男の人はみんな同じような考えを持っているのだろうか。優花は思わず考え込む。

(そうなると、お兄ちゃんも同じなのかなあ)

 あの生真面目な兄が同じように考えているとは到底思えなかった。けれども、よくよく思い返せば、兄が佳代と付き合い始めたいきさつを優花は知らない。それ以前に他の人と付き合っていたかどうかも知らない。二人が付き合い始めたきっかけも、もしかしたら「とりあえず」だったのだろうか?

「なんだよ。急に考え込んじゃって」

「え? あー……」

 優花は少し迷ったが、今思ったままを竜に話してみる。ただし、長谷部の話は除いて。

「へえ。優花知らないんだ。聞いたこともないの?」

「ないよ。だって、二人が出会ったのって高校生の時だよ。私やっと小一か小二くらいだもん。知らないっていうか、よくわからないっていうか」

 幼かった自分に理解しろというのが無理なのだ。今だって、長谷部に関して自分がどうしたらいいのかよくわからないというのに。

「ふーん。今度聞いてみようかな、俺。興味ある」

「答えてくれるのかな、お兄ちゃん」

 兄は「そんなこと聞くな」とか言いながら顔を真っ赤にして怒りそうだ、と思った。それは竜も同意見だったようで「違う違う」と首を振った。

「佳代姉さんなら教えてくれそうじゃん」

「なるほど」

 優花と竜は顔を見合わせて大きくうなずいた。数馬に内緒で、佳代にこっそり聞いてみようと意見が一致したのだ。

「それなら、佳代姉さんが入院中に聞いちゃおう。数馬さんが仕事行ってる時とか」

「竜だって仕事中じゃない、それだと」

「じゃあ、優花が聞いてよ。それを俺に話して」

「それでいいの?」

「女同士のほうが話してくれるかもしれないじゃん。俺は優花を通して知れたらそれでいいよ」

 にかっと竜は白い歯を見せて笑った。優花もちょっとわくわくしてきて、口の端が思わず上がってしまった。

「赤ん坊のほかにまた楽しみが増えたな」

「ホントだね」

 二人はくすくすと笑いあってから、自然と分娩室の扉のほうを向いた。

「早く産まれてこないかなあ」

「そうだなあ」

 赤ん坊が楽しみでもあり、佳代から話を聞くのが楽しみでもあり。優花はそわそわした気持ちで扉の向こうに向かって無事の誕生を祈るのだった。

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