ラーメン屋のアイス
数馬が来るまでの間に、陣痛の間隔はどんどん規則的に、そして強くなっていった。陣痛の波が収まっている間であれば、佳代は普通に話もできたし、歩き回ることもできた。でもいざ痛みが襲ってくると、額に脂汗が浮かび、苦しそうにうめいた。痛みに苦しむ時間はそんなに長いわけではない。でも、そのたびに、優花は看護師に言われたとおりに背中をさすってあげた。これくらいしか、できることがなかった。
「佳代!」
勢いよく数馬が飛び込んできたのは、窓の外がだいぶ暗くなってからだった。汗だくになりながら、髪を振り乱しての登場だった。
「ごめん、遅くなって」
数馬が佳代の手を強く握りしめた。すると、佳代の表情がほっとした様子に和らいだ。
「間に合ったね」
「なんとか」
数馬が佳代の表情を見て安心したように微笑んだ。そして二人はそのまま無言で見つめあう。
(うーん。これ、お邪魔だね、きっと)
すぐそこで二人の世界が展開されていて、優花は居心地悪さを感じ始めた。と、竜と目が合った。竜が人差し指でちょいちょいと病室のドアを指した。居心地悪いのは、優花だけではないようだ。二人はそうっと病室を出た。
「それにしても、腹減ったなあ」
病室から少し離れたところまできて、竜がお腹をさすりながら言った。
「夕飯何だったの?」
「酢豚」
そこで、竜の腹の虫が威勢よく鳴った。優花のも遅れて小さく鳴った。佳代の近くにいたときは緊張していて感じなかったが、今急にお腹が空いてきた。
「酢豚食いたいなあ」
「そんなこと言われても」
家から病院まで来るのに、タクシーで十分ほどかかった。歩いて帰るにはちょっと遠すぎる。またタクシーで帰るとお金がかかる。何より二人には手持ちのお金がわずかしかなかった。しかたなく、二人は自動販売機でジュースを買ってその場をしのぐことにした。ナースステーション近くの静かな待合室でちびちびと飲みながら静かに待っていると、数馬がやってきた。
「なんだ。そんなところにいたのか」
なんだとはなんだ。と思ったが、口には出さなかった。
(気を利かせて出たんじゃないの)
たぶん、竜も同じことを考えている。優花に向かってちょっとだけ肩をすくめてみせた。
「お前たち、夕飯まだなんだって?」
夕食直前に出てきたことを佳代に聞いたらしい。数馬の話では、これから佳代に病院食が出るが、付き添い分は一人前しか出せないらしい。
「うちに帰るか? それとも近くで何か食べてくるか?」
タクシーに乗って帰るにしろ、近くで何か食べるにしろ、数馬がお金を出してくれるという。
どうしよう? 優花は考えた。うちに帰ったら、きっとそのまま家で待機することになるだろう。病院にいたとしても待っているだけなのは同じだから、家にいても問題ないと言えばない。
(でも、気持ち的には産まれる瞬間にここにいたいっていうか……。かといって、ずっとここで待ってるの迷惑かもだし)
一人無言で迷っていると。
「いいんですか? 数馬さん」
突然、竜がにやっとしながら尋ねた。
「うちに帰っちゃうと、俺と優花、家に二人っきりですよ。しかも夜」
あ。と数馬が目を見開いた。竜はそのまましれっと言葉を続けた。
「別に俺はかまわないんですけどねー。数馬さんが心配じゃないっていうなら……」
竜が言い終わる前に、数馬が竜の頭をひっぱたいた。
「外で何か食ってこい」
というわけで、二人で病院の外に出て適当に何か食べてくることになった。
看護師さんに尋ねたところ、この辺りは住宅街なので小さなラーメン屋くらいしか食べるところがないという。ともかく、何か食事にありつければそれでよかったので、場所を聞いて病院を出た。
外に出ると、幾分か涼しくなった風がそよそよと吹いていた。病院に来るときはあまり気にしていなかったが、改めて周りを見回すと、確かに住宅街だった。これといった店は見当たらない。明かりといえば、街灯と家々から洩れる光くらいだ。
教えられたとおりに道をたどっていくと、くすんだ赤色の暖簾に「ラーメン」と書かれた、いかにも昔からここにあるといった佇まいの小さなラーメン屋が見えた。
竜がラーメン屋の引き戸を開ける。立て付けが悪いのか、ぎしぎしときしんだ音だする。
「いらっしゃい」
と、億劫そうな声が聞こえた。店主と思しき白髪のおじさんが、カウンターの席に腰掛けてプロ野球の中継を見ていた。それ以外に人が見当たらなかった。
(お客、いないし……)
夕食のピーク時は確かに少し過ぎている。しかし、金曜日の夜だというのに誰もいないとなると若干不安になる。
店主が「空いてるところどこでもいいよ」とぶっきらぼうに言いながら立ち上がる。優花と竜は二つしかないテーブル席の一つに座った。テーブルにもメニューがあったが、壁一面にこれでもかというほど品書きされた札が並んでいた。ラーメンに始まり、定食、一品のおかず、お酒やソフトドリンクといった飲み物。デザートのアイスクリームもバニラと抹茶の二種類があった。そしてどれもお手頃な金額だった。
「あ。酢豚定食あるよ」
優花は定食の一つを指して竜に言う。でも、竜は首を横に振った。
「いーや。違うのにする」
「なんでよ。さっき食べたいって言ってたじゃない」
「だからあ」
竜は断固として言い切った。
「俺は、優花が作ったやつが食べたいって言ったの」
そのはっきりした物言いに、優花は思わず目を丸くしてしまった。竜は一瞬はっとなり、気まずそうに視線をそらした。
「い……家帰ったらあるんだろ? だから、別に今ここで無理して食べる必要ないし……」
打って変わってごにょごにょと言葉を濁しながら、竜はテーブルのメニューを手に取って見始めた。優花は壁のメニューを見ながら「そうだけど……」と小さな声で答えた。
結局、竜は味噌チャーシュー麺を大盛りで、優花はタンメンを注文した。店主がコンロに火をつけて、野菜をいため始めた。中華鍋の小気味よい音と、ジュージューと野菜の炒める音と一緒に、香ばしい匂いが店に広がる。同時に、麺のゆであがる匂いも立ち上ってきた。冷房の効いた涼しい店内に、むわっとした蒸気が入り混じり始める。
ラーメンが出来上がっていく様子を見ながら、優花は自分の気持ちがちょっと弾んでいることに気づいて驚いた。
別に、大したことではなかったはずだ。ただ、自分が作ったものを食べたいとはっきり言われただけだ。ただそれだけのことなのに、単純にうれしくなってしまった。
「そんなに食べたかったなら、家に帰ったってよかったのに」
この気持ちが抑えきれなくて、でも恥ずかしくて、優花は妙に怒った口調で竜にそう言った。
「さっき俺が数馬さんに言ったこと聞いてなかったの? 俺と優花、真夜中に二人っきりになっちゃうよ。俺、一応年頃の男の子なんだから、何するかわからないよ?」
にやっと笑いながら竜が答えた。
(自分で言うことかな……)
竜がふざけているのか真面目に言っているのか、優花には判断しかねた。とりあえず、軽く睨みながら言い返した。
「そしたら、バットで殴るもん」
居候初日から、優花のベッドのわきにはい相変わらず金属バットが置かれていた。
「……まだ常備してんのかよ」
思い切り引いた様子で竜が顔をしかめた。優花は何のことなく大きくうなずいた。
「当然」
「俺、そんなに信用されてない?」
「自分で年頃とか言ってるくせに」
そのタイミングで、ラーメンが二つ出来上がった。二人のテーブルに、湯気の立ち上るラーメンが二つ置かれると、鼻の奥にスープのだしの匂いがふわっと広がっていった。二人ともかなり空腹になっていたところだったので、そこからは黙ってひたすら食べた。お客がいないから味はどんなもんだと心配したけれど、全くそんな心配はいらなかった。野菜もラーメンもスープも、抜群においしかった。なんでお客がいないのか不思議なくらいだった。
「美味かったー。ごちそうさまー」
一足先に食べ終わった竜がお腹をさすりながら言う。竜はスープもほとんど飲んでしまっていた。
「早……!」
呆れて言った。優花はまだ半分ほどしか食べていなかったのだ。
「大盛りだったくせに」
「優花が遅いんだって」
絶対そんなことない。そう思いつつ、優花はともかく食事を続けることにした。優花がラーメンをすする音と、相変わらずついたままの野球の中継の音だけが店内に響く。時折、ワーッとテレビから歓声が聞こえてきた。カウンターには、片づけが終わったのか、いつの間にやら店主が再び腰掛けて観戦し始めていた。
気づけば、竜も野球を観ていた。でも、その眼はどこか遠かった。野球ではない、違うものを見ているようだ。
「昔、一度だけ野球観戦に行ったことがあるんだ」
ぽつりと、竜の口から言葉がこぼれた。
「二軍の試合だったけどさ、間近でプロの野球観たんだ。父さんが連れて行ってくれた。十歳くらいの時かな。父さん、野球が好きだったんだ。昔は野球少年だったんだってさ」
懐かしむように、少し寂しげに竜がほんのわずかに微笑んだ。
「竜も、野球とかやってたの?」
食べながら聞いてみる。竜の昔のことは、何となく聞いてはいけないような気がして、優花から何かを聞こうとしたことはなかった。でも今は、尋ねてもいいと思えた。
竜は少し考えてから、小さく首を振った。
「いや、してない。少年野球って案外金がかかるんだよ。ユニフォームとか、遠征とか。うち、金なかったから、そういうのは入れなかったんだ」
やっぱり聞いてはいけなかっただろうか。そうなの、と相槌を打ちつつ、後悔する。その空気を察したのか、竜は白い歯をにかっと見せて笑った。
「あ、でもグローブは持ってたんだ。父さんが誕生日に買ってくれたんだ。だから、父さんが休みの日は二人でキャッチボールしたりして遊んだよ。まあ、日奈が『私もやる』とか言って、よく邪魔してきたけど」
親子三人の微笑ましい光景を思い浮かべて、優花も自然と笑顔になった。
「今も持ってるの? そのグローブ」
「もちろん。ただ、グローブはもうボロだし、小さくって手が入らないけどさ」
竜は少し苦笑いして見せた。それでも、捨てられないものなのだろうと思った。それは、竜の幼いころの大切な思い出なのだ。
竜はまた野球のほうに目を向けた。優花はその間に残りを食べた。その間、話す人は誰もいなかった。でも、気まずさはそこにはなく、不思議と穏やかな気持ちだった。
(ああ、そうだ。二人でいるときに、こんな普通に話すの久しぶりなんだ)
佳代の陣痛騒ぎのおかげか、二人きりの時に気まずかったことがすっかり遠いことになっていた。以前のように、いや、以前よりも穏やかに話ができていると思う。それは、佳代の出産直前という、特殊な時間のせいなのだろうか。今この時が終わってしまったら、またよそよそしく戻ってしまうのだろうか。
(そんなの、いや)
優花は、意を決して顔を上げた。
「竜」
はっきりとした声で呼びかけた。竜がぱっと優花を振り返った。
「この間は、ひどいこと言って、ごめんなさい」
竜が目をみはった。その眼を見ながら、優花はもう一度言った。
「ごめんなさい」
そして、頭を下げた。やっと謝ることができた安堵感。それと同時に、今更蒸し返してしまっただろうかという懸念がよぎる。
「今更……もういいよ。俺、気にしてないし」
恐る恐る視線を上げると、ひどく困った顔の竜がいた。
「違うの。私が、ずっと気にしてた。だから、こうして謝ってるのも自分勝手かもだけど、ちゃんと謝りたかったの。ひどいこと言ったのは、確かだから……」
怖くて、目を見て話すことはできなかった。だから、困り顔の竜がそのあとどんな反応をしていたのかわからない。優花は両手こぶしを膝の上でぎゅっと握りしめて、竜の言葉を待った。
「……俺も、優花の気持ち考えないでいろいろ言っちゃったし……そのあとの態度もあからさまに変だった。ごめん」
顔を上げると、今度は竜のほうが頭を下げていた。
「やめてよ。私のほうが悪かったし」
慌てて優花が言うと、竜が不満そうな表情を見せた。
「そんなことない。俺のほうが無神経だった」
「違う。私」
「いーや、俺」
そこで二人は無言になった。しばらく互いでにらみ合った。
そして、二人同時に吹き出してしまった。
「なにやってんだ、俺たち」
「なんか、バカみたいだね」
込み上げてくる笑いが抑えきれなくて、優花も竜もそのまま体を揺らして笑った。声を上げると、野球中継の音か聞こえなくなってしまうと思って、二人とも小さな声でくすくすと笑いあった。
と、そこで唐突に二人の間にバニラアイスの乗ったお皿が二つ置かれた。驚いて顔を上げると、そこに相変わらず無愛想な店主が立っていた。
「仲直り記念に、サービス」
優花と竜はきょとんとしたまま店主を見上げた。店主はふっと口の端だけ上げて笑うと、またカウンターに戻って野球を観始めた。ちょうどその瞬間、ひときわ大きい歓声がテレビから響いた。アナウンサーが、満塁ホームランを告げていた。店主が小さくガッツポーズをするのが見えた。
二人は顔を見合わせて小さく微笑みあった後、「いただきます」とお礼がてら元気に店主に向かって言った。締めのアイスクリームの味もまた、格別だった。