陣痛の前日
出産予定日から三日が過ぎた。佳代にまだ陣痛などの兆しは見られない。以前と変わらないまま、普段通りに過ごしている。
「ねえねえ、優花ちゃん。デートの日、決まった?」
昼食を食べながら、佳代がうきうきした様子で尋ねてきた。平日昼間は男二人がいないので、遠慮なくリビングでこんな話をしてくる。
「き、決まってない。というか、まだ、ちゃんと返事してない……」
優花がもごもごと語尾をごまかしながら答えると、佳代はあからさまに残念そうな顔をした。
「案外優花ちゃんも思い切れないのねえ。行ってみたら楽しいと思うけどなあ」
「だって、今は無理だよ。お姉ちゃん、いつ陣痛来るかわかんないし……」
「もう、私のことを理由にしないでほしいなあ」
ぎくりとして、思わず言葉を詰まらせた。確かに、それは否めない。佳代のことを理由に、結論を先延ばしにしてしまったのは事実だった。
「まあ、私一人でいるときに陣痛が来ちゃうのも不安だし。優花ちゃんがいてくれると心強いかな」
すると、佳代がふふふと笑った。
「でも、優花ちゃんを一番頼りにしてるのは数馬よね」
その言葉に、優花は苦笑いを返した。
夏休みに入ってから、優花は数馬に何度も念を押されている。もしも佳代と優花の二人だけの時に陣痛が来てしまった場合、まずはどこに連絡して、何を用意するのか。万が一破水してしまった場合の対処法は……などなど、いろいろ細かく指示されている。極めつけは「佳代を一人にして出かけないように」という一言だ。佳代にも「一人で出かけるな」と毎日言い置いてから出勤している。二人とも耳にタコができるほど同じことを毎日聞かされているので、半分くらいは聞き流している。
「お兄ちゃんの心配性に拍車がかかってるよね、最近」
「産まれてからはもっと大変よ、きっと」
二人でその様子をちょっと想像してみる。そして、顔を見合わせてまた苦笑してしまうのだった。
「今日も来なかったなー、陣痛」
夕飯の時間に、竜がご飯をかきこみながら言った。
「なんか、落ち着かないんだよね、俺。仕事中も気になっちゃって」
その言葉に、数馬が「なんでお前が」とぼやいた。竜はそのぼやきに気づいたのか気づいていないのか、
のん気に話を続けた。
「このまま遅れていくと、俺と誕生日同じになったりして」
え? と、優花と数馬と佳代が一斉に竜の顔を見た。
(そうだ! 八月八日!)
竜のメールアドレスに、0808の数字が並んでいたことを思い出す。初めてスマホを買いに行ったとき、誕生日の話をしたのを、優花は今初めて思い出した
「あ、優花。その顔は忘れてたな?」
「ち、違うし。覚えてたよ。八月八日でしょ」
いろいろありすぎて、本当は優花の記憶からすっかり抜け落ちていたのだが、慌ててごまかした。
「そうなのか。また覚えやすい日だな」
数馬は初耳だったようだ。確かに、竜の誕生日のことを改めて話したことは一度もなかった。
「そういえば、八月だったわねえ。昔うちにいたとき、お祝いしたのも」
佳代が記憶をたどりながら言った。すると、竜が嬉しそうに何度も頷いた。
「そうそう。佳代姉さんのうちで初めて誕生日ケーキ食べた! すっごい美味かったんだ。だからよく覚えてる。確か三歳だった。ろうそく三本立ってたの覚えてるから」
初めて、というキーワードが引っ掛かった。もちろん、それ以前の記憶がないのは幼いからなのかもしれない。でもきっと、佳代の家に来る前はまともに祝ってもらったことなどなかったのだろう。そして、育ての父が亡くなった後も。
「じゃあ、誕生日会しなきゃ。ケーキ買って、竜の好きなもの作って」
佳代が楽しそうに提案した。でも、竜は「いやいや」と首を横に振った。
「そんな大げさなことしなくていいよ。これから赤ん坊が産まれて大変な時だし。誕生日なんて、ただ年取るだけで、別に誕生日会なんてするほどじゃ——」
「そんなことないよ」
優花は竜の言葉を遮った。竜が驚いた様子で優花の顔をまじまじと見つめた。数馬と佳代もびっくりしている様子でこちらをみている。
「そんなこと、ないよ……。誕生日は、大事な日だよ」
三人に一斉に見つめられて、優花は少しうつむき加減で小さな声でもう一度言い直した。
大した事無さそうに、竜は軽い調子で言っていた。だからこそ、優花は聞き逃せなかった。誕生日が大事ではないということは、自分が産まれたことが大事ではないということだ。今、竜がここにいることを否定されているような気がして、優花はとんでもなく悲しかった。
「そうよ。誕生日はとっても大事な日よ」
佳代が優しく微笑みながら、でもきっぱりと言った。
「出産の日によっては、誕生日当日はもしかしたら難しいかもしれないけど、誕生日会はやろう。ね?」
「そうだな。お祝い事は多いほうが楽しいしな」
数馬も即座に同意した。優花も何度も頷いた。そして竜を見た。竜は困ったように、気まずそうに、目を伏せながら少しだけ笑った。
翌朝のこと。優花がいつも通り寝ぼけ眼でリビングに入ると、佳代がぼんやりとソファーに座り、隣で数馬がしきりに心配している様子が目に飛び込んできた。
「どうかしたの……?」
不安になって恐る恐る尋ねた。すると、数馬が顔をしかめて首をかしげる。
「どうかしたってわけじゃないんだけどなあ」
その言葉に、佳代も首を傾げた。
「なんか、今日はやけに早く目が覚めちゃったのよねえ」
話を聞けば、夜明け頃に佳代は急に目覚めてしまったらしい。痛いとかおかしい感じがするとか、そういうことはないのだが、結局、眠れないまま今に至るという。
「眠い気もするんだけど、頭が冴えちゃって」
「病院に行ってみるか?」
「行ってもねえ。特に陣痛が来たって感じじゃないし。結局家に帰されちゃうかも」
しばらく様子を見たが、特に佳代に変化はなかった。迷ったあげく、数馬はいつも通り出勤した(いつも通り、優花と佳代に念を押すことも忘れなかった)。竜も遅れて会社に向かって行った。優花は佳代と二人で家に残されたが、佳代は相変わらずぼんやりしている様子だった。
「お姉ちゃん。とりあえず横になってれば? 眠くなくても休んでた方がいいのかも」
「そうねえ。そうしようかな」
佳代は優花に言われた通り、寝室に向かった。足取りは普通だ。ふらふらしているという様子もない。
(いよいよなのかなあ? よくわからないなあ)
ともかく、いつでもその時がいいように心構えをしておくしかない。優花は腹をくくって、いつも通り過ごすことにした。一通り家の掃除をして、学校の課題を進める。お昼近くになったら、昼食の準備をする。その間、佳代は結局眠れないようで、時々起きてきてはお茶を飲んだり、本を読んだり、また寝室に戻ったりして過ごしていた。お昼ご飯も普通に食べて、午後も何事もないまま時が流れた。
そろそろ夕飯の支度をしようかと考えていたときだった。ソファーに座っていた佳代がぽつりとつぶやいた。
「これ、陣痛かなあ」
思わず、優花は固まった。いよいよか、と思って佳代に駆け寄る。
「ホントに?」
「んー。さっきからね、腰が痛いような感じなのよ。そんなに痛くないんだけどね。すぐに痛みも引いちゃうし」
佳代自身もよくわからないようだ。陣痛なんて経験したことないから、当然かもしれない。となると、周りの人間はもっとわからない。
「そ……そうだ。お兄ちゃんが、痛みの間隔の時間を測れって言ってたよね」
兄に何度も言い聞かせられていたことを思い出した。痛みの間隔が規則的になってきたら、それは陣痛のサインだと教えられていた。
念のための夕食の準備を進めながら、佳代と一緒に痛みの間隔を測った。二十分だったり三十分だったり、多少時間にばらつきがあった。でも、痛みの強さは少しずつ増してきているらしい。佳代は病院に電話することにした。今日の状況を伝え、今の間隔のことを伝えた。
「とりあえず、病院に来てみて、だって」
夕食のおかずを作り終え、あとはご飯が炊けるのを待つだけになったとき、佳代がそう言った。
「わかった!」
優花は慌てて準備を始めた。入院するためのグッズはもう何日も前にカバンに詰められ、いつでも持ち出せるようにしてあった。兄に言われた通り、タクシー会社に電話をし、兄に連絡を入れ、佳代の実家に連絡を入れた。そして、竜に連絡を入れようかとしたとき、ちょうど竜が帰宅した。
「あ、ちょうどよかった。あのね」
優花はあわただしく事情を説明した。タクシーが間もなくやってくる。佳代の痛みもまた増してきているらしい。これは本当にいよいよだ。もうすぐ産まれてくるのだ。優花の中で緊張が膨らんでいた。
「そっか。俺も一緒に行くよ。すぐ着替えてくる」
「え、でも。ごはん……」
竜は帰ってきたばかりで、お腹を空かせているはずだと思った。けれども。
「こんなときに、一人でのん気に飯なんか食えるかよ」
それもそうだと思った。優花は頷いて、今度は家の戸締りを確認しに走った。何時に家に戻れるかわからないので、今しがた作ったおかずを冷蔵庫にしまい、炊飯器の保温も切った。
そしてタクシーが家の前についた。竜が荷物を持ち助手席に座った。優花が佳代を支えるようにして歩き、後部座席に座った。
「じゃあ、お願いします」
バタン、とドアを閉めると同時に竜が力強くタクシーの運転手に告げた。低いエンジン音とともに、タクシーが滑らかに出発する。
(竜がいてくれて、よかった……)
佳代は優花がいてくれた方が心強いと言ってくれた。優花もまた、一緒にいてくれる人がいて心強いと思えた。頼りにされるのは嬉しいが、不安も実は大きかった。自分一人では、何もできないと思っていたのだ。
優花の隣で、佳代が表情を歪めた。また痛みが強くなってきたらしい。
「お姉ちゃん、頑張ってね」
病院に着くまで、優花はずっと佳代の手を握りしめていた。