二人の出会い
優花が答えを出さないまま十日が過ぎていった。当時優花は受験生。翌月に試験を控えていて、そのことばかり考えてはいられなかった。優花が目指していた高校は、地元の中ではそれなりのレベルがあって、倍率も高めだった。学校の先生は大丈夫だろうと言ってくれたが、油断はできない。塾に行っていない優花は、なんとか自分で頑張らねばならなかったのだ。
(家に帰ったら、冷蔵庫確認して……買い物行って夕食の準備して……)
帰宅しながら、優花は今日の献立を考えていた。ここのところ、優花が夕食を作っていた。佳代のつわりがひどくなってきて、台所に立てないのだ。元々全員分の夕食を作ることはよくあったし、なにより料理は勉強の息抜きになってちょうど良かった。
献立を決めて、優花は買い物に出かけた。桜町には商店街があり、大抵のものはそこでそろう。優花の家からは自転車で十分ほどの距離にある。商店街と反対方向へ十分ほどの距離には大型のスーパーがあるが、商店街の雰囲気の方が優花は好きだった。そこには亡くなった母親と幼い頃よく一緒に行った思い出があった。商店街の人たちも優花のことや今の家庭の事情をわかっているので、優しく接してくれた。
商店街は買い物客で賑わっていた。優花は自転車を降り自分で押しながら、まず八百屋へ向かう。
「お、優花ちゃん。今日も料理当番か」
八百屋のおじさんが威勢の良い声で話しかけてきた。
「家のことしながら受験勉強できてるのかい? 」
「息抜きになってちょうどいいの。むしろはかどってるくらい」
優花は愛想よく応えた。ここのおじさんはよくおまけをしてくれるから、生前の母はここから野菜を買うことが多かった。今日も大きなじゃがいもを二個おまけしてもらって、次に肉屋へと向かう。ここも八百屋と同様に母と通った店で、おまけもついてくる。優花は親について買い物に行くのが好きだった。あの事故の日だけ、たまたまついていかなかっただけだった。
(人生って、どこでどうなるかわからない)
買い物に来るたびに考える。あの日、あのとき、いつものように一緒に買い物に行っていたなら……自分はもうここにいなかったかもしれない。そう思うと、複雑な気持ちになる。運が良かった、と考えればいいのだろう。でも、生き残ってしまった、という気持ちが突然わき起こってきて、どうしようもなくやるせなくなるときがある。私は、本当は生きていてはいけないのではないか……間違ってここにいるのではないか……。
そんな気持ちにかられていた、その時だった。
「あぁ!」
間近で叫ばれて、思わず振り返った。振り返って、優花は眉をひそめた。振り返った先に、優花と同い年くらいの少年がいた。彼は優花を指差してびっくりした顔をしていたのだ。
(なに? この子)
出先で知らない男子に声をかけられることは多い優花だが、この商店街では顔見知りが多いおかげか、そんなことはほとんどない。こんなふうに叫ばれるのは初めてだ。
(いいや。無視しよう)
いざとなったら肉屋のおばちゃんに助けてもらおう。たいていの人はおばちゃんに怒鳴られると逃げちゃうから。そう考えていたら。
「橘、優花……だろ?」
「は……?」
名前をフルネームで呼ばれ、背筋がぞっとなった。知らない人に名前を呼ばれる。気味が悪くて仕方ない。
「あ、あぁ、待って。怪しいやつじゃないんだよ」
優花は後退りしながら少年を睨みつけた。思い切り怪しいやつだと思っていた。肉屋に駆け込まなくては。タイミングを見計らっていると、少年は慌てて手を振って首を振って否定した。
「本当に怪しいやつじゃないんだってば。俺の話聞いてない? 葉山竜。俺、葉山竜なんだ」
「はやま、りゅう……」
優花は口の中で言われた名前を繰り返した。
「え……えぇっ?」
優花は思わず指を指して叫んでしまった。竜は安心した様子で、白い歯を見せてにかっと笑った。
「なんで? なんでここにいるの。なんで私のこと知ってるの」
優花は更に後退りしながら尋ねた。十日前に話を聞いた竜が目の前にいる。その事実がなかなかのみこめなかった。
「順番に答えると、ここには部屋探しで来てみた。あんたのことは佳代姉さんから聞いてたし、写真も見せてもらったから」
「写真……?」
「佳代姉さんにこの間会ったから」
そういえば、この間会ったと佳代が言っていた気がする。謎は解けたが、まだ警戒心は解けない。
「部屋探しって……」
「ほら。佳代姉さんの実家、今大変なんだろ? それで、佳代姉さんのところに行くかって話が出たけど、さすがにほとんど他人の家だしさ、それは申し訳なくって」
でもさぁ、と、竜は手に持っていた紙を見せてきた。間取りと家賃の書かれたものだ。不動産屋でもらってきたらしい。
「やっぱりまずは保証人と金だよな。しかも未成年だし。どっちもないから困ってたんだ」
「はぁ……」
優花は思わず間の抜けた返事をしてしまった。竜がとても困っているようには見えない笑顔を見せてきたからだ。
だんだん余裕が出てきて、優花は竜を観察してみた。
聞いていた境遇からは想像もつかない、明るくて爽やかな少年だ。背が高いわけではないけれど、姿勢が良くてすらっとしている。顔も悪くない。いや、それどころか、人並み以上だ。芸能人にいそうだ。きっと学校ではモテるタイプなんだろうと思った。
「寮のある会社に変えるかなぁ。って、最初からそうすれば良かったんだな。今更だけど」
「でも、今から変えるって、できるの……?」
「だから、今更なんだよ。採用されるまで結構苦労したんだぞ。中卒ってだけで狭き門でさ。それに、就職先の社長さんがいい人なんだ。できたら変えたくないな。人生うまくいかないもんだよ、まったく」
ペラペラとしゃべる竜に優花は呆気にとられていた。
(本当に不遇の日々を送っていたのかしら)
佳代から聞いた話と目の前の少年が、やはりどうしても一致しなかった。単にうちが通勤に都合がいいから、住まわせて欲しいなんて騙されたのではないかと思ってしまうほどだ。
「それにしても」
途端に、竜はあごに手をあて優花をじいっと見つめ始めた。そしてにっこり微笑んだ。
「ほんとに美人だね。写真よりずっと」
「え?」
「あ、でも写真は笑ってたな。笑顔を生で見たいな。笑ってみせてよ」
「……は?」
何を言っているのだろう。優花は目を瞬かせた。竜は微笑みを保ったままだ。
「あれ? 笑ってくれない? やっぱり何もなくて笑えないかぁ。だったら」
竜は優花のほうに両手を伸ばし、そのまま優花の両頬を優しくつまんで持ち上げた。
(え?)
両手が自転車で塞がれていた優花は、頬をつままれたまま呆然となった。竜はさっきより間近で更に微笑んだ。
「うん。笑顔がやっぱり一番いいや」
男の子の手が、自分の頬に触れている。男の子の顔が、こんな間近にある。今初めて会った男の子が、こんな。
がしゃん! と優花の手から自転車が道に倒れた。
「なっ……何すんのよ!」
バシンッ! と優花は思いっきり竜の手を叩き落とした。竜は一瞬目を丸くしたが、すぐに面白がっている表情に変わった。
「あれ? 顔真っ赤だぞ。そういう顔もいいね」
優花は慌てて頬に手を当てた。確かに熱い。顔だけではない。身体中が熱い。
「照れちゃった?」
奥気もなく竜はからかい口調で聞いてきた。
「ばっかじゃないの! これは怒ってるのよ!」
「怒った顔もいいね〜」
「だからふざけないで!」
こんなやり取りがしばらく続けられた。しかしそのうちに話は優花の買い物の話になり、夕食の話になり、ついには竜は優花と一緒に橘家に行き、夕食を一緒に食べることになった。竜にうまく乗せられてしまったのだろうか。そう考えると腹が立って仕方がなかったが、後の祭りだった。
(なんて馴れ馴れしくて図々しいやつなの)
どんな境遇だからと言って同情なんてするものか。こんなやつと暮らすなんてありえない。と優花は思った。
これが二人の出会いだった。