迷いの中
夏休みが始まってから、最初の土曜日の午前中。優花は、リビングで夏休みの数学の課題に向かいながらも、頭の中では違うことを考えていた。
(今が、チャンス……だけど……)
ちらりと視線をソファーのほうに送った。そこでは、竜が寝転がって漫画雑誌を読んでいる。
(今更なあ……)
優花はまた課題のノートに目を向け、こっそりとため息をついた。謝れないまま、気まずいまま、かれこれ一週間以上経ってしまっていた。
今、家にいるのは優花と竜だけである。佳代の妊婦健診に、数馬も付き添いで行っているからだ。大体の健診に数馬は同行している。佳代のことが心配だからというのが理由だろうと思っていたのだが。
「うちの親父は毎回付き添って病院行ってたぞ」
と数馬が話してくれた。母親が優花を妊娠中、毎度のように父親も一緒について行っていたそうだ。それを見ていたので、夫というのは毎回妻に一緒について行くものだと思っていたという。
というわけで、竜と二人きりのこのチャンスに謝ってしまったほうがいい、と優花は考えていた。でも、時間が過ぎてしまっていて、今更どう切り出したらよいのやらわからない。
(宿題のことも考えなきゃだし、先輩のことだって考えておかなきゃ……なんか、いろいろ考えなきゃで大変)
悶々と一人悩んでいると。
「優花」
びくっと全身が跳ねた。
反射的に顔を上げると、いつの間にか寝ころんだままで竜がこちらを見ていた。
「な、なに」
努めて動揺を隠そうとして、思わずにらみつけてしまった。
(なんでけんか腰になってるのよ、私)
また裏腹な態度を取っていることに気づいて、優花は頭の中で自分に突っ込みを入れる。
「ずっと手が止まってるけど、そんなにその問題難しいの?」
「え……」
気づけば、数問解いただけで大して進んでいなかった。
「まあ、ね。数学は、そこまで得意じゃないし……」
「やっぱ高校生は大変だよなー」
竜はそう言いながら、また雑誌に視線を戻してしまった。
(……あれ? 今普通に会話した……?)
びっくりしてしまって、優花は思わず竜の横顔をまじまじを見つめた。この数日間、二人だけの時は会話らしい会話なんてなかったというのに。今になって急にどうして。
「なんだよ? 俺は数学なんか教えてやれないぞ」
優花の視線にすぐ気づいて、竜がまた顔をこちらに向けた。そうしたら、考えるより先に言葉が出ていた。
「だって……私のこと、ずっと無視してたじゃない」
自分の声が思った以上に恨みがましく聞こえて驚いた。すると、竜は少しきまり悪そうにそっぽ向いた。
「別に、無視してたわけじゃ……」
思い当たる節がないわけではないらしい。やっぱりそうなんだ、と思うと、悲しい気持ちが込み上げてくる。
「私のこと、怒ってるんでしょ。ただの居候なんて言ったから」
「だから、そういうわけじゃないって」
竜はぱたんと雑誌を閉じて起き上がった。
「優花の言ったことは正しいよ。俺はただの居候なのに、ちょっと首を突っ込みすぎたかなって、反省したんだ。だから、余計なことはもう言わないって決めたんだ」
その言葉が悲しくて、優花はたまらず目をそらした。
(あ。なんか、また泣きそう……)
目頭が熱くなっていくのを懸命にこらえた。
「結局、怒ってるんじゃない」
こらえようとして出てきた言葉は、自分でも嫌になるほど僻み口調だった。竜がむっとした空気が伝わってきた。
「だから、怒ってないってば」
「じゃあ、なんで無視するの」
「無視してないって言ってるじゃないか。ただ、余計なこと言わないようにしてるだけだ」
「お兄ちゃんたちがいるときとそうじゃないときの態度が全然違うじゃない」
「それは別に……そんなつもりじゃ」
一瞬、竜が言葉を詰まらせたのを、優花は聞き逃せなかった。
「ほら、図星なんでしょ」
「だから何なんだよ。じゃあ、俺にどうしろって言うんだよ」
「それは……!」
優花が思わず怒鳴りかけた、次の瞬間だった。
突然、優花のスマホがテーブルの上で震えながら着信音を鳴らし始めた。メールやメッセージではない。電話だ。黙り込んだ二人の間に、無機質なバイブ音と着信音がやかましく鳴り響き続けた。
「……早く出ろよ」
竜はふいっと優花から目をそらすと、リビングから足早に出て行ってしまった。階段を上がっていく音が聞こえる。優花は仕方なくスマホを手に取って、目を丸くした。
(長谷部先輩だ)
こんなタイミングで。優花はスマホを持ったまま固まってしまった。
どうしよう。今はとても話せるような気分ではない。でも、あとでこちらからかけ直すのもかなり気合がいる。
少しの間激しく迷って、優花は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
恐る恐る声を出す。すると、電話の向こうからほっとしたような優しい声が聞こえてきた。
『良かった。出てくれないかと思った』
電話越しの長谷部が爽やかに微笑んだのが見えた気がした。
『メッセージより話した方が早いと思って電話しちゃったけど。忙しかったかな』
「いえ……。平気です」
忙しくはないが、平気でもない。今は、声にそのことを出さないように精いっぱいだった。そのせいか、話し方がいつもより硬くなってしまっている。
『ま、俺も今夏期講習の休み時間で、あんまり時間ないんだけどね。とにかく、確認しておきたいことがあって』
「確認、ですか?」
『うん。デートするなら、八月の前半と後半、どっちがいいかなって。予定だけ空けちゃおうと思って』
「え……」
予定をもう組んでしまうの? 返事もまだなのに?
ここで予定を組んでしまったら、いよいよ逃げられない。優花は、百合にも佳代にも「行ってみたらいい」と言われたけれど、本当にそれでいいのかわからなかった。
『その様子だと、まだ考え中なんだね。だったら後半かな』
それは面白がるような口調だった。たっぷりとした余裕も感じられて、なんだかちょっと悔しい気がした。自分はこんなにいろいろ悩み続けているというのに。振り回されているのは自分だけなのだ。
「……義姉の出産予定日が、明後日なので……」
優花はどうにかお腹に力を込めて声を発した。
「どちらにしても前半は無理だと思います」
言い切ったあと、一瞬の間が空いた。優花は内心びくびくしながら反応を待っていた。
『そっか。わかった』
表情が見えないからわからないけれど、声は楽しそうに聞こえた。
『じゃ、そろそろ講習始まるからそろそろ切るね』
「あ……はい」
思いのほかあっさりした反応で拍子抜けした。でも、会話はこれで終わりなのだ。とりあえず解放される、と思った矢先。
『実は、君の声が聴きたかっただけなんだ。予定を確認したいっていうのはただの口実』
「え……」
『また電話するから、今度も出てね』
じゃ、また。と、長谷部はそっと低めの声でささやいて、通話を切った。
優花はスマホを耳に当てたまま、しばらく放心していた。最後のささやきは妙に色っぽくて、心臓がバクバクと跳ね上がっていた。電話越しだったけれども、直に耳元でささやかれたような気分で、全身がざわざわと落ち着かない。
(あ、ああいうの、計算してやってるんでしょ。こっちが動揺するの、わざと狙ってるんでしょ? 惑わされちゃダメだってば)
もしも、あれを素でやっているのだったらずるい、と思った。そして、長谷部が女子からモテて仕方のない理由も何となくわかると思えた。優花は重いため息をつきながらスマホを耳から離した。
「なにため息なんかついてんの」
「えっ……!」
急に背後から声をかけられて、優花の体がびくっと震えた。慌てて振り返ると竜がしかめっ面でリビングのドアの所に立っていた。
「な、なに。二階に行ったんじゃないの?」
どぎまぎしながら尋ねると、竜はなんてことないような表情で応じた。
「行ったけど、やっぱ暑くて無理。マンガなんか読めない」
「エアコンつければいいじゃない」
「電気代もったいないだろ。だから戻った」
そのまま表情を変えないで、竜はまた先ほどと同じくソファーに寝っ転がり、持っていた雑誌を開いた。
(って……なんなの。また普通に戻っちゃうの?)
先ほどのやり取りは何だったのか。またいきなり普通の態度を取られても、かえってどうしたらいいのかわからない。そう思うと急にむかむかしてきた。一言何か言ってやろうと思ったとき。唐突に竜が優花のほうを振りむいた。
「あのさ。さっきの電話って……」
「え……電話?」
ぎくりとして、優花は片手のスマホをぎゅっと握りしめた。
(さっきの会話、聞かれてた?)
聞かれていたと言っても、優花からはほとんど言葉を発していなかった。あれだけでは、誰が相手でどんなことを話していたかなど、わからないはずなのだが……。
「いや、やっぱいい。余計なことになるし」
竜はすぐに視線をそらしてしまった。そういう態度を取られると、かえって気になるし、むかついてくる。
「なによ。最後まで言いなさいよ」
「余計なこと言わないって決めたんだ」
「言いかけてやめられたら、こっちが気になるじゃない」
「だからもういいって。忘れて」
「忘れてって……ついさっきのことを忘れられるわけないじゃない」
「じゃあ気にするな」
「あのねえ」
優花が抗議しようとしたその時、玄関のドアが開く音が聞こえた。遅れて、佳代と数馬の「ただいま」声が聞こえてくる。
結局、優花と竜の話はここでうやむやになってしまった。数馬たちの前では、やはり竜は以前と変わらない普通の態度だった。そして、二人だけになると、極力何も言わないようにしている様子だ。
(そういうの、やめてほしいのに……)
しかし、そうさせてしまったのは自分の一言が原因なのだ。それがわかっているだけに、優花はこの気持ちをどう伝えてたらいいのか途方に暮れるのだった。