夏休みの始まり
一学期の終業式が終わり、教室は浮ついた調子でざわざわとしていた。夏休みはもう目前。通知表の結果や、思った以上の大量の宿題はあったけれど、初めての高校生の夏休みはとても輝かしく見えるものだ。去年の受験勉強地獄を思えば、より一層の解放感があった。
優花もそんな浮ついた空気の中にいた。けれども、心の隅に引っかかるものがずっとあって、完全に解放された気分とまではいかなかった。
「優花。大丈夫? その足で行ける?」
ホームルームが終わって、百合が真っ先に優花のところにやってきた。優花は笑顔でうなずきながら、そっと立ち上がった。
「もうだいぶ治ってるんだ。腫れもないし。松葉杖も来週からはいらないって。ちょうど夏休みだから、家から出なくて済むしね」
昨日、病院へ行って経過を見せてきた。学校でも家でも無理に歩き回らないようにしていたおかげか、見た感じは普通の状態とほとんど変わらなかった。無理なく過ごせば完治も早いだろうと言われたので、優花はほっとした。どうにか、佳代の出産予定日近くは普通に歩けそうだったからだ。
「よかったね、ひどくならなくって。球技大会の時はすごい腫れてたから、どうしようかと思っちゃったよ」
百合の言葉に、優花は乾いた笑い声を立てた。
「あのときは、意地になって無理しちゃったのがいけなかったからね」
優花を転ばせてきた女子たちは、結局一言も謝罪がなかった。むしろ、優花に絡んでこようとしなくなった。面倒な人たちをちょうどよく遠ざけられたので、かえって何も言われない方がよかったと思った。
「校門前で集合だったよね。河井くんたちも誘って一緒に行こう」
「うん……」
優花はあいまいに笑ってうなずいてみせた。
満月を見た翌日、優花は長谷部にメッセージを送った。内容は、ただ足の状況を知らせるのみで、打ち上げの参加不参加については触れなかった。その日の夜、終業式の後、学校の近くにあるお好み焼きの店で打ち上げをすることになったと連絡が来た。
「学校の近くなら参加できそうでしょ?」
と、長谷部のメッセージに書いてあった。
送迎のこともあって数馬と佳代に相談したら、「学校に迎えに行くのと同じでしょ」と佳代があっさり言ったため、数馬もすぐに納得してしまった(聖母の微笑みの技が発動していたせいもある)。おかげで帰りの心配はなくなった。それから、百合たち一年生が全員参加するのを聞いた。一年生仲間と一緒にいれば、長谷部への気まずさも少しは紛れそうだと思えた。
そんないろいろな理由がうまく重なって、優花は結局打ち上げに参加することにした。が、チクチクと小さなとげがたくさん刺さっているような胸の痛みがあった。流れに身を任せてみた結果、参加したいという自分の思い通りになったのだ。一度は参加しないと決めたのに。竜にもそう言ったのに。最初のメッセージには、参加不参加のことをあえて書かなかったのだ。それはとてもずるいやり方だった。そんな罪悪感があった。
「もしかして、長谷部先輩のこと気にしてる?」
百合が心配そうに優花の顔を覗き込んだ。
「前みたいなことにはならないと思うよ。私もいるし。それに、優花の足のこともあるし。先輩が、優花に無理させるようなことしないと思うんだよね」
「うん……そうだね」
優花はとりあえずうなずいた。そして、百合と一緒に河井と高山のところに向かった。昇降口に行く廊下でも、校門までの道でも、三人は優花の松葉杖のペースに合わせて歩いてくれたので、だいぶゆっくりと進んでいた。進みながら、優花はぼんやりと考え事をしていた。
(私だって、先輩が前みたいに怖いことしてくるとは思ってない……そうじゃなくて)
優花が気にしているのは別のことだ。今は、竜のことが気になって仕方がない。
この数日間、佳代と数馬がいるところでは、竜は何事もなかったかのようにいつも通り振舞っていた。でも、寝る時間になって、それぞれの部屋に分かれるとき、竜は優花と目を合わせないようにしながら「おやすみ」と言ってさっさと部屋に入ってしまう。朝、いつもなら壁越しに竜が起こしに来るのだが、今、優花は目覚ましの音だけで起きている。数馬が出勤する時間の都合もあって、優花は竜より先に家を出てしまっている。朝ごはんの時の騒がしいやり取りもしていない。
(疲れるだけだから、いいんだけどさ)
と、自分に言い聞かせてみているけれど、心がもやもやしていた。
竜が素っ気ない態度を取るようになって、優花は少し戸惑っていた。日常の一コマ一コマにいつも竜がいたことに、今更ながら気づいたのだ。橘家に来た当初は、どうなるものかと不安でしかたなかったが、いつの間にか竜は日常に溶け込み、そこにいるのが当たり前の存在になっていた。当たり前だったことが急になくなって、自分の家だというのに妙に居心地が悪くなった気がしていた。
(ただの居候、なんて言うんじゃなかった)
思わず口走ってしまった言葉だったが、思い返せば思い返すほど後悔した。竜が一瞬月明かりの下で見せた、傷ついたような表情が胸に刺さっている。でも、謝るきっかけがないまま数日が過ぎてしまった。
「お、来た来た」
校門が近づいてくると、宮瀬のよく通る声が聞こえてきた。三年生が全員集まっているようだった。もちろん、長谷部もいる。長谷部と直接顔を合わせるのは、自転車で送ってもらったあの日以来だった。
「橘さん、大丈夫? 店、近いには近いけど、それで行ける?」
優花の松葉杖を見て宮瀬が不安そうに尋ねてきた。
「平気です。もうほとんど治ってるので」
優花は明るく答えて見せた。宮瀬の隣から長谷部の視線を感じたけれど、気づかぬふりをした……のだけれど。
「治ってるって言っても、みんなと比べたら歩くの遅くなっちゃうでしょ。だから橘さん先に行ってて。二年生たちももうすぐ来るだろうし、すぐに追いつくからさ」
と、宮瀬が長谷部を振り返った。嫌な予感がした。
「長谷部、橘さんと先行って、案内してやれよ。着いたら座って待っててくれていいから」
(え……えええええ~っ)
優花は思い切り叫びたかったのを我慢した。
(そういうお膳立てみたいなの、ホントやめて)
先輩でなければ、遠慮なく宮瀬をにらんでいただろう。優花が内心であたふたしている間にも、話が進んでいく。
「そうだね。じゃ、先行って待ってようか」
長谷部が涼しげに笑ってうなずいた。優花はとっさに視線で百合に助けを求めた。けれども、その百合を一瞬早く宮瀬が首を振ってけん制したのが見えた。百合は宮瀬と優花を素早く見比べて、困った表情を浮かべた。きっと百合も内心で叫んでいるに違いない。
(百合は、宮瀬先輩に協力してって頼まれてるもんね……)
ごめん、と百合の口が動いた。宮瀬の圧力を優花だって感じる。これはもうどうしようもなさそうだった。
優花は観念して、長谷部の案内で先に店に向かうことにするしかなかった。
ため息をつきそうになるのをぐっとこらえて、松葉杖をぎゅっと握りしめて長谷部の横を歩いていく。みんなの姿がだいぶ遠ざかったところで、長谷部が喉の奥でくつくつと笑いだした。
「だから、そんないやそうな顔しないでよ。悲しくなっちゃうから。ホント、わかりやすよね。橘さんて」
またそんな顔していただろうか。がまんしていたつもりだったのだが。優花は気まずすぎて目をそらすしかなかった。
「言っておくけど、この状況、宮瀬のとっさの思い付きだからね。俺、何にも言ってないから」
「はあ……」
「その顔、信じてないでしょ。ホントだからね。あいつ、一人で妙に張り切ってんの。勝手に張り切られても困るんだけどさ」
と言いながら、長谷部は困った笑顔になった。しかし、本当に困っているのかどうかはよくわからない。むしろ楽しんでいるように見えた。
「ま、この際乗っかろうかと思ってね。この間の返事も聞きたかったし。考えてくれた?」
笑顔の中で、眼差しだけが真剣になった。
(う、本題が突然来た)
どきんと心臓が大きくはねた。優花は、実のところほとんど考えていない。うやむやに済ませてしまいたいというのもあったし、他のことに気を取られていたからというのもあった。
(この際、私もこのタイミングでちゃんと断っちゃった方が気が楽かも)
変に思い悩まず、断ってしまったっていいのだ。誘いを受ける受けないは優花の自由なのだから。そう決心した、けれども。
「別に、深く考えなくっていいんだ。ちょっと遊びに行くってくらいで。明日からほぼ毎日夏期講習だとか補習だとか、本格的に受験勉強で忙しくなるから、俺もそんなに時間に融通が利かないんだけどさ。合間の息抜きに付き合ってくれたらうれしいなって」
長谷部が、最高に爽やかなスマイルで優花の顔を覗き込んだ。その距離が思いのほか近くて、また心臓がはねた。今度ははねっぱなしで、おさまらない。断ろうと思っていたその言葉が急速にしぼんでいく。
「そうだ。映画とかどう? 夏休み公開されるやつ、面白そうなのたくさんあるし、何より映画館は涼しいし」
「……か、考えさせてください、もう少し……」
反射的に出てきた言葉は、これだった。意外そうに長谷部が目を丸くした。それ以上に優花自身がびっくりした。
(断るつもりだったのに、何言っちゃってんの! 私!)
心の中の自分が動揺しながら突っ込んでいる。でも、発してしまった言葉はもう戻らない。
と、その時、後ろから宮瀬の呼ぶ大きな声が後ろから聞こえてきた。振り返れば、宮瀬が先頭になって他のメンバーを連れて歩いてくるところだった。
「お店、もうそこだよ」
長谷部が指さした方向を振り返れば、お好み焼きの暖簾のかかったお店が数メートル先にあった。
「さっきの話、期待してるからね」
後ろのメンバーが追いつく前に、長谷部が素早く優花にささやいた。その笑顔が妙に色っぽい表情に見えて、そのくせいたずらっぽい少年のようにも見えて、優花の心臓は無駄に激しく騒ぐのだった。