裏腹の気持ち
「えー、いいな。俺も車に乗って行きたいなー」
夕飯の時、優花が夏休みが始まるまで車に乗って学校に行く話をすると、竜がいつもの明るい調子でうらやましそうに言った。
「お前は元気だろうが」
じろりと数馬が竜をにらみつける。
「それに、誰がお前をわざわざ会社まで迎えに行くんだ」
「んー、やっぱり佳代姉さん?」
そのとき、数馬の堪忍袋の緒が切れた……音が聞こえた気がした。
「ただでさえ運転させたくないのに、一日に二度も佳代に送迎させるっていうのか!」
「わー。冗談です。冗談。俺は普通に自転車で行きますよ」
「冗談で済むか! 佳代に何かあったらどうする気だ!」
「それはさすがに数馬さんの心配し過ぎ」
「心配しすぎなもんか!」
また始まったよ、と優花と佳代はアイコンタクトで会話し、わーわー言い合う男二人をよそに、黙って食事を続ける。主に騒いでいるのは数馬のほうで、竜はのんきに切り返しているだけなのだが。
(今日も、いつも通りだな)
優花はご飯を口に運びながら竜の様子を見る。どう見ても、特に変わった様子がない。いつも通りの調子が良い竜だった。
(私に気をつかってくれている……というより、ここまでくると、ほんとに気にしてないだけなのかも)
竜の中で、大して気に留めるような出来事ではなかったということなのだろうか。そう思うと、こんなに気にしている自分がバカらしくもなり、腹立たしくもある。
「もーいい加減にしなさいよ。ごはん冷めちゃうから」
適当なところで佳代が間に入った。間に入るのは佳代でないとダメだ。なぜならば——。
「数馬、心配してくれてありがとね」
にっこりと佳代が数馬に向かって微笑みかけた。数馬は「おう」と小さく返事をすると、怒った表情のまま、でも照れくさそうに食事をし始めた。
(出た。聖母の微笑み)
と、竜が口パクで優花に言って見せた。この佳代の有無を言わせない微笑みを「聖母の微笑み」と名付けたのは竜だ。この言葉は竜と優花との間でしか通じない。この技が発動すると、数馬は決まっておとなしくなるのだ。
楽しげに笑う竜を無視して、優花はそのまま食事を続けた。竜はつまらなそうに少し鼻を鳴らして見せたが、すぐにおとなしく食事を始めた。
(やっぱり、普通だ。何も変わってない)
こうしてふざけている竜と接していると、こうとしか思えない。竜は何も気に留めていないのだ。
『竜も優花が好きなのかな』
昼間の百合の言葉が突然よみがえった。でも、胸の内ですぐに否定した。
(違う違う。ありえない。絶対)
自分の中で繰り返される百合の言葉に対して、優花は何度も言い返した。そうでもしないと、また頭が混乱してぐちゃぐちゃになりそうだった。
就寝時間になって、四人はそれぞれの寝室に分かれた。優花は部屋の明かりを消したが、何となく眠る気分ではなかった。少し本でも読もうか思い付き、ベッドの明かりをつけて手近な文庫本に手を出した。ベッドに横になりながらぺらぺらとページをめくったが、頭に内容が入ってこない。結局、一章も読まないうちに本を閉じてしまった。
(あー、またいろいろ考えちゃうよ)
机の上にあるスマホを寝転がりながらにらんだ。スマホの画面を開く気になれなくて、ずっと机に放置されている。病院に行ったら様子を知らせてと言われているが、気まずくて長谷部に連絡するのをためらっていた。
(でも、先延ばしにしてるのも良くない)
ずっと思い悩むのは、優花の性分ではない。どこかで思い切ってやってしまったほうがいいのだ。優花はえいっと起き上がって、勢いよくスマホに手を伸ばした。ところが。
「優花、優花」
ベランダ側の窓ガラスのノック音とともに、竜の声が聞こえてきた。
「外出てみてよ。すっごいぞ」
ベランダに出て来いということらしい。無視しようかとも思ったが、またしつこくノックされても嫌なので、しかたなく優花は窓ガラスを開けた。外に出ると、竜はベランダの柵から身を乗り出すようにして空を見上げていた。
「なによ。明日も仕事でしょ。もう寝なさいってば」
優花はせっかく勢いづけたところを邪魔されたので、少しイライラしていた。でも竜はそんなの気にする様子もなく、明るい笑顔で優花を振り返った。
「優花も見ろって。ほら、月。すっごいきれいだ」
竜が真っ直ぐと腕と指を伸ばして上を指した。つられてその指の方向を見て、息をのんだ。
「うわあ」
思わず感嘆の声が出た。視線の先には、くっきりと真ん丸に縁どられた満月がどんと夜空の真ん中にあった。街の明かりに負けないほどの大きな輝きが、ひどくまぶしかった。
「なんか外明るいなーと思って出てみたらさ、こんなに月が明るいんだよ。今日は雲がないから、ホントきれいだよな。だから思わず優花を呼んじゃった」
月明かりの下で、竜が白い歯を見せてにっと笑ったのがよく見えた。
「かぐや姫のお迎えが来そうな感じの満月だよな」
「何言ってんの。あれは秋の十五夜でしょ。こんな暑い夏に迎えに来ないから」
「あれ、そうだっけ? だって、かぐや姫のお迎えって、八月十五日だろ? 八月って夏じゃん」
「あのねえ。それは旧暦。今の暦だと九月ごろのことなの」
「へー。そうなんだ。ややこしいなあ」
「っていうか、今七月で、八月でもないし」
「ま、いいじゃん。大体同じだって」
「全然違うでしょ……」
呆れてため息をつきながら、優花は視線を竜から月に向けなおした。明るすぎる月は、周りの星の明かりも吸い込んでしまったようで、星がほとんど見えなかった。だから余計に月の存在感が大きかった。季節は違うけれど、竜の言うように本当に月からお迎えが来そうな感じがした。
「……なあ、また打ち上げあるのか?」
「え?」
何のことを言われたのかわからなくて、優花は竜を振り返って首を傾げた。竜の視線は月に向いたままだったが、横顔が小さく笑った。
「ほら、前の……強歩大会だっけ。そん時にもあったじゃん、打ち上げ。球技大会の後もあるのかなーって」
優花はびっくりして思わず竜の横顔をまじまじと見てしまった。なぜ竜が打ち上げのことをきいてくるのかがわからない。
「あ、あるって言ってたけど……なんでよ」
「なんでって言っても……」
竜の横顔が、不意に真顔に変わった。
「優花は、打ち上げ行きたいのか?」
その声のトーンは低かった。
「どうなんだよ」
視線は相変わらず月に向けたままで、竜は優花のほうを見ようともしない。唇をきゅっと引き結んだまま、ふざけた様子で笑いもしない。
(昨日と同じ……なんか、怖い)
あの時と同じ、怒っているような、いらいらしているような様子だ。今の今まで笑っていたのに、なぜ急に? 優花はまたわけがわからなくて、押し黙ってしまった。
「なんだよ。なんで黙っちゃうんだよ」
「別に……」
竜が怖いから、とは言えなかった。ともかく、聞かれたことに答えなければ。優花は必死に言葉を探した。
「この足だもん。行けないよ、打ち上げは」
そう。長谷部へのメールにはそう書こうとしたのだ。長谷部への気まずさもあって、この際、捻挫を理由に行かないことにしようと思ったのだ。そしてそのまま夏休みになり、うやむやになってくれたら……と秘かに願っていた。
「行けない、かあ。その足が普通だったら、行きたいって感じなんだな」
竜の言葉にドキリとした。
(足のことと、先輩のことがなかったら、行きたいなって思ってるのは、確かなんだよね……)
「まあ、せっかく優勝したしね。チームの人たちともだいぶ仲良くなれたし、参加してもいいかなあってちょっと思ってるよ。でも、行かないよ。みんなに迷惑かけちゃうし、お姉ちゃんに送迎させることになっちゃうし。そしたらお兄ちゃんの心配を増やすだけだから」
優花は早口でしゃべった。その間、竜は頷きもせずただ聞いていた。が、しゃべり終わると同時に横目でちらりと優花を見た。
「昨日のあいつが、迎えに来てくれるんじゃないか?」
え? と優花は眉を寄せた。竜はぱっと月に視線を戻した。
「行きたければ、そいつに頼めばいいじゃん。喜んで迎えに来てくれるよ」
長谷部のことを言っているのだとわかって、優花はうろたえた。嫌な調子で心臓がどくどくと騒いだ。
「何言ってんの、急に……」
「前の打ち上げの時はさ」
優花の言葉を遮って、吐き捨てるように竜は言った。
「あんなに行くの嫌がってたのにな。あの先輩がおまえに何したか覚えてないの?」
よく覚えている。どうしたらいいかわからなくて、ただ恐怖を感じていた時。竜が助けてくれたのだ。そのこともはっきり覚えている。
「それなのに打ち上げ行きたいなんて、どういう心境の変化なんだよ。もしかして、あの先輩のこと好きになっちゃったとか?」
「な……!」
その瞬間、頬がカッと熱くなった。同時に、全身が小刻みに震えてきた。心臓がひどく騒ぎすぎて、頭の中に反響し、くらくらするようだった。
優花のそんな様子に気づかないで、竜は月を見たまま話を続けた。
「かっこいいもんなー。背も高いし、爽やかイケメンって感じで。優花とも釣り合うよ。あの先輩も優花のこと好きっぽいし、両想いなんじゃ……」
そこまで言って、竜は優花のほうを少し見た。そしてギョッとした様子で言葉を飲み込んだ。
優花の瞳から、ぽろぽろと涙があふれ流れていた。
「なんで……」
優花はかすれ声でやっとつぶやいた。
「なんでそういうこと言うの」
自分でもびっくりした。どうしてこんなに涙が出てくるのかわからない。ただただ、心が悲しいと訴えているのだけがわかる。
「私が打ち上げ行っても、誰を好きになっても、竜には関係ない」
泣きながら優花は竜をにらみつけた。でも、心の中の自分は首を振っている。違う、こんなこと言いたいんじゃない。もっと何か、違う言葉が言いたいはずなのに。でも、優花はその言葉が何か知らない。代わりに出た言葉がこれだった。
「あんたはただの居候なんだから、余計な口出ししないでよ」
はっとした表情を竜が見せた。そして悲しげに瞳を揺らした。
「そうだな。悪かったよ」
ぷいっと竜は優花から顔を背け、月にも背を向け、それきり何も言わなくなった。竜の表情は真っ暗な影の中に入ってしまい、どんな様子なのかも何もわからなくなってしまった。優花は涙を乱暴に手でぬぐいながら、逃げるように自分の部屋に戻った。
優花は明かりを消し、ベッドの上に思い切りうつぶせになって顔を枕にうずめた。
(そうだ。竜には関係ないんだ。関係ない話。別に、竜がどう思おうが、関係ないんだから)
何度も何度も自分にそう言い聞かせた。どうにかそう思い込もうと努力した。
隣の部屋の窓ガラスの戸が閉まる音がした。竜も部屋に入ったのだ。竜のことに意識が向かい、今何を考えているだろう、とふと思ったが、その考えを慌てて頭の中から追い出した。
(もう考えない。竜のことなんか、考えない)
関係ない、と思い込む努力は何とかできても、考えないようにするというのはなかなか難しく、優花は結局外が白み始めるまで寝付けないまま、夏の短い夜を明かしてしまうのだった。