内緒の女子トーク
翌日の午前中。優花は学校を休んで、数馬に病院へ連れて行ってもらった。幸い骨に異常はなく、少し悪化した捻挫ということだった。二、三週間で完治するだろうという話だったが、松葉杖にしばらく世話になる必要があった。そうしないと、左足に負担がかかって、今度はそちらを痛めてしまうかもしれないという。何だか大げさなことになってしまった、と思いながら、素直に松葉杖をついて歩くことにした。
「まったく。優花は変なところでガマンするんだから。一人じゃどうしようもないことだってあるんだから、こういうことはちゃんと言え」
と、数馬に怒られた。その通りだ、と反省していると。
「でも、優花がそんなに球技大会に張り切るタイプだとは思わなかったな。捻挫までするなんて」
そう言われたときに、本当は違うんだけど、とは口が裂けても言えなかった。捻挫の原因は球技大会ではなく、あのクラスの女子たちに足を引っかけられたことだ。でもこれを知っているのは百合とそのクラスメイト本人たちだけだ。他はみんな球技大会が原因だと思っている。
(そういうことにしておいたほうがいい。いろいろ面倒だし)
本当は言いたいことが山のようにもあったが、ここで優花が反撃してしまえば彼女たちの感情にさらに火をつけてしまうだけだ。それは中学の時に学習している。だから、百合には「内緒にしておいて」と昨日電話した時に伝えた。わかった、と返事はあったけれど、少し不服そうであるのが伝わってきた。
「もし、また似たようなことがあったら、絶対やり返してやるんだからね」
と頼もしい声で百合が言ったときには、思わず笑ってしまった。百合がそれだけ怒っているせいか、優花の腹の虫はいつの間にやらおさまってしまった。
(お兄ちゃんにほんとのこと言ったら、百合の怒り方以上になりそうだし)
ただでさえこの捻挫で心配をかけ、その上今日は仕事を遅刻までさせている。もうこれ以上兄の負担を増やしたくない。
「しばらくは無理に家事とかしなくていいからな。夏休み始まるまでは学校まで送ってやるから」
病院からの帰り道、数馬が運転しながら言った。
「帰りはどうするの? 学校、半日で終わるよ」
学校は夏休みまで授業らしい授業はほとんどなく、半日で終わる。妹の問いに、数馬は渋面を作って答えた。
「仕方ない。ここは佳代に頼むか。距離も近いし、あとそんなに日数もないし」
というわけで、佳代が帰りは迎えに来てもらえることになった。少しでも自分で出かけられる自由ができて佳代がひそかに喜んだことも、数馬には内緒だった。
「おじゃましまーす」
その日のお昼過ぎのこと。優花の家に百合がやってきた。今日学校で配られたプリント類を持ってきてくれた、というのは名目だ。二人には、昨日の出来事について話したいことがたくさんあったのだ。百合が家に来るなり、二人は早々に優花の部屋に向かった。今なら竜もいないので、隣の部屋で会話を聞かれる心配もない。
「どうしよう、どっちから話そうか。私から話してもいい?」
百合がわくわくした様子でそう言った。もう話したくてうずうずしているのだ。優花が小さく何度も頷くと、百合は真面目なトーンで話し始めた。
「あのね。宮瀬先輩が言ったんだけどね……」
それは、宮瀬と一緒に帰ったときに話した内容だった。
* * * * * *
「あんなの、初めて見たよ」
歩き始めてしばらくしてから、宮瀬がぽつりとつぶやいた。
「あんなの、ですか?」
百合はオウム返しに尋ねた。その時、百合はかなり困っていた。宮瀬と同じグループだとは言え、直接そこまで話したことがあるわけではなかったし、そんな中いきなり二人きりで帰るはめになってしまって、どう接したらいいものかわからなかったのだ。だから、とりあえず宮瀬が言ったことをくりかえすしか対応が思いつかなかった。
「橘さんて、彼氏とかいるのかな?」
百合の問いに答えるのではなく、逆に宮瀬が問いかけてきた。
(え? 宮瀬先輩がそれを聞く?)
長谷部はきっと優花狙いなのだというのはわかっていたが、実は宮瀬もなのだろうか? と急に思いついた。百合の中で勝手に三角関係の図が思い浮かぶ。
「いない、ですよ」
少し緊張して答えた。すると、宮瀬は「へえ」と返事をしながら難しい表情になった。そして、真面目な口調でこう言った。
「ねえ、花崎さん。もしよかったら、長谷部のために協力してやってくれない?」
「え? 長谷部先輩?」
百合は思わずきょとんとした。自分の考えと的がずれていたからだ。
「そ。なんか、あんなの初めて見たからさ」
「あんなの?」
もう一度、百合は尋ねた。宮瀬は小さくため息をつきながらうなずいた。
「さっき、橘さんを迎えに来たやつがいただろ? 長谷部のやつ、なんていうか、張り合ってたよな、そいつと。無理やり間に割り込んで、橘さんを奪ったみたいな感じになってたけど。ああいうの、らしくないんだよね。いつもの長谷部がすることじゃないよ」
「……そうなんですか?」
百合が知っている長谷部は、同じ中学出身だという河井と高山からの「女泣かせ」という情報と、優花から聞いた打ち上げの時の一件だ。女の子のことになると、態度が変わるのではないだろうか。そんなふうに百合は思っていた。
すると、宮瀬が苦笑いを浮かべた。
「すっごいプレイボーイだと思ってるんでしょ、あいつのこと」
図星を突かれて、百合は黙った。宮瀬は「そうだよなあ」とさらに苦笑いを深くした。
「確かに、あいつは基本女子には誰にでも優しいし、ああいう感じだからかなりモテるよ。ホント、うざいくらいに。告ってきた子とはとりあえず付き合っちゃうくせにすぐフッたりするから、行動にちょっと問題があるにはあるんだけど」
いや、ちょっとじゃないだろう。と、百合が心の奥底で思っていると。
「でも、自分から誰かを狙いに行ってるのは、見たことがないね。今までも、橘さんへの態度だけは他の女の子とはちょっと違うよなぁとは思ってはいたんだけど、まさかあんなことするなんてな。さっきはびっくりした」
「びっくりって……、長谷部先輩は宮瀬先輩に言ってないんですか? その、自分は優花が好きだって」
すると、宮瀬の苦笑が、困り笑顔に変わった。
「言ってないね。というか、たぶんやつも気づいてないんじゃないかな。自分がしてること」
「気づいてないって……」
百合は何といえばいいのかわからなかった。誰がどう見たって、長谷部は優花を狙いに行っているようにしか見えないではないか。だからこそ、優花はクラスメイトから嫉妬されたりするのではないか。
(案外、長谷部先輩って、鈍感なのだろうか)
そんな結論に達した。そして、気づいていないのは最も質が悪いことだ。そう思えてならなかった。
「だからさ、親友としては応援してやりたいんだよ。初めて本気になったんなら、成就させてやりたいじゃないか。頼むから、協力してくれない? この通り」
宮瀬は立ち止まって、百合に手を合わせてお願いした。通行人が何事かと振り返ってきて、百合は居たたまれなくなった。宮瀬の熱い眼差しも胸に迫ってくるものがあった。そして百合は思わず「できるかぎりは」と頷いてしまったのだった。
* * * * * *
「なんでそこで頷いちゃうの⁉」
優花は思わず声を上げた。
「だって……断りづらかったんだもん。というか、断る理由がなくて」
気まずそうに百合が言葉尻を濁した。
「何を協力すればいいかはわかんないんだけどね。とにかく、そういう話だったの。そこでうちに着いちゃったから、詳しい話はしてないの。はい、今度は優花の番」
百合は無理やり話を打ち切って、優花に話題を振った。
(えぇぇ。この話題からの私の話って……)
いろいろ話がつながりすぎて怖くなった。百合の今の話と、優花が体験した昨日の出来事が組み合わさると、足りなかった部分が補われていく。
優花が一通り話し終えたところで、百合がますます興奮した様子で目を輝かせた。
「うわ! 宮瀬先輩の言ったとおりだ。ホントに気付いてなかったんだ。というか、わかんないって言ってるの長谷部先輩だけだよ。それってもう告白と一緒でしょ! なんでわかんないの⁉」
「ちょ、ちょ、百合。声が大きい」
二階にいるとは言え、一階にいる佳代に聞かれないとも限らない。いや、佳代に聞かれる分にはまだいいが、佳代を通じて数馬に知られるのは気まずいことこの上ない。
「で、で? 優花はどうするの? デートしてみちゃう??」
少し声を抑え気味に、でも興奮は冷めやらぬ様子で百合が両手こぶしをつくって尋ねてきた。
「ど、どうするって……どうしよう?」
「悩んでるならデートしてみちゃえばいいじゃない。昨日の宮瀬先輩の話聞いてたら、長谷部先輩、悪い人に思えなかったし」
「まあ、悪い人じゃないとは、私も思ったけど……」
それは正直な感想だった。長谷部の戸惑いや、不器用さといった、彼の本心に少し触れてしまった。そのせいか、いつの間にか警戒心もなくなってしまっている。でも、優花の心に昨日から引っかかっていることがずっとある。
「でも、竜が……」
「へ? 竜?」
百合のちょっと間の抜けた問いかけで、心の声が知らぬ間に漏れていたことに気づき、優花は慌てて口を押えた。でも、言ってしまった言葉はもう戻らない。
「竜がどうかした? というか、昨日あれから竜はどうだった? 大丈夫だった?」
「うん、まあ大丈夫だったんだけど……」
昨日、少し残業をして帰ってきた竜は、いつも通り過ぎるほどいつも通りだった。腹減ったと言いながらリビングに入ってきて、いつもの調子でご飯にがっつき、いつもの調子で優花をからかってふざけ、夜は普通に部屋に入っていった。今朝だって、いつもと変わらない様子で出て行った。長谷部との一件は一切話題に触れられなかった。だから、かえって気になっていた。竜が何を考えているのか。
「きっと、優花に気をつかって何も言わなかったんだろうね」
その百合の言葉に、優花の心がずんとまた重く痛んだ。優花もそう思ってはいたが、改めて人から言われると重みが増す。
すると、百合が突然ぽつりと言った。
「竜も優花が好きなのかな」
「え⁉」
今度は優花が大声を出してしまった。百合がしいーっと人差し指を口に当てる。
「な、な、なんで急に」
かすれるほどに声を抑えて優花は思わず尋ねた。百合は「んー」と首をかしげながら言った。
「別に根拠はないけど。何となく今そう思った」
「何となくって……」
「こっちが三角関係だったかあ。すごいね、優花。どうする? どっちにする?」
生き生きとした表情の百合に対して、優花は思い切り脱力してしまう。
「すごいねって、他人事だと思って。私は……」
(……私は?)
優花の言葉が途切れる。
(私は、何を言おうとしたのだろう)
今確かに、何かを言おうとしていた。でも、その言葉はどこかに吸い込まれてしまったかのように、急に消え去ってしまった。
「私は、どうしたの?」
百合が言葉の続きを待っていた。優花は目を泳がせながら、言葉を探した。
「私は……別に、興味ないもん」
そう。どうするとか、どっちにするとかではない。そういうことに、今は興味がない。そういうことにしよう。よくわからないのは、優花も同じなのだ。
「興味ない、かあ。どっちにでも転びそうな感じなんだねえ」
百合はかえってわくわくし始めてしまった様子だった。きっと、いろいろ想像して楽しんでいるに違いない。やれやれ、と秘かに苦笑いしていると。
百合が満面の笑みを浮かべてこう言った。
「でも、どっちにしても私は優花の味方だからね。どんな小さいことでも悩んだら相談してね」
「……うん。百合もね」
優花と百合は互いに微笑みあいながらうなずくのだった。