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怪我の帰り道

「サドル上げるけどいい?」

 長谷部が優花の自転車を見てそう言った。

「はい、どうぞ……」

 ぼんやりとしたまま、優花はうなずいた。長谷部がねじを回しているのを見ながら、さっさと帰ってしまった竜のことを考えていた。

(もう、会社着いたよね。どっちにしてもお昼ご飯食べる時間あんまりないだろうな。お腹空かせて帰ってくるかも。いや、それはいつものことだけど)

 小さくため息をついた。家で竜とどんな顔して会えばいいのかわからない。別に悪いことをしたわけでもないのに、ひどく罪悪感でいっぱいだった。

「さて、準備できた」

 サドルを調整し終わった長谷部が、手についたほこりを払いながら微笑んだ。

「ここから二人乗りはまずいから、校門出たところからでいいかな」

「はい……」

 結局、長谷部が家まで送ってくれることになってしまった。行きがかり上、それしか優花の帰る手段がなくなってしまったのだ。そしてどういうわけか、宮瀬が百合を送っていくことになった。百合は「近いから大丈夫です」とかなり遠慮していたが、「長谷部だけにいいかっこさせるのもいやだ」というわけのわからない理由で、百合は宮瀬と帰っていった。

(巻き込んじゃったな、完全に)

 百合に申し訳なさでいっぱいだった。竜と一緒に帰れば、自分も百合もいろいろ面倒はなくて済んだのだ。なぜあそこで言葉に詰まってしまったのか悔やまれた。

(でも、だからってすぐに帰ることないじゃない。残された方のことを考えなさいよね、バカ)

 罪悪感が、むかむかした気持ちに変わっていった。でもまた考えていくと罪悪感に変わった。いろいろな感情に振り回されながら、長谷部について歩いていると。

「……何してるの、兄さん」

 校門から出たところで、凛と澄んだ声を背後からかけられた。優花と長谷部は振り返った。

(長谷部さん……?)

 そこに立っていたのは、優花のクラスの学級委員の長谷部新菜はせべにいなだった。手に持つかばんをぎゅっとにぎりしめ、軽く睨むようにつかつかとこちらに近づいてきた。

(あ、そういえば……兄妹なんだっけ、この二人)

 以前、高山と河井から聞いた話を思い出す。でも、二人のまとう雰囲気があまりにも違うので、今の今までその事実を忘れていた。

(やっぱり、似てない、かな?)

 このツーショットを見るのは初めてだ。球技大会中も、二人が話しているのを見たことがなかった。今改めて兄妹として見ているけれど、やはり似ている要素が見当たらないような気がした。

「この自転車、橘さんのでしょう?」

 とげとげしい口調で新菜が尋ねた。でも、長谷部は動じなかった。

「そう。今から橘さんの家まで送ってあげようと思って。ほら、彼女今は足がこんなだから」

「なぜ兄さんがそこまでするの」

「別に。お前には関係ないだろ」

 突き放すように長谷部が言い捨てた。その冷たさに、優花は驚きを隠せなかった。

「あまり手広く女子と仲良くするのは、いかがなものかしら。いい加減なことをしていると、お父さんの堪忍袋の緒が切れるわ」

「だから、お前には関係のない話だろ。言いつけるなら言いつければいい」

「言いつけたところで、兄さんはうまく言い逃れるだけでしょう」

「そうだよ。だから、勝手にしろ」

(兄妹げんか、こんなとこでしないでほしいんだけどな……)

 しかも原因がどうやら自分にあるらしい。優花が間に挟まれて困っていると。

「橘さん」

 新菜の視線が突然優花のほうに向いた。眼鏡の向こうで、新菜が鋭く睨んでくる。

「あなたもどうかしている。今日のことでまたおかしなうわさが立つの、わかるでしょう。それなのに、こうしてこの人と歩いているなんて。そんなにうわさを立てられたいの」

(長谷部さんもやっぱり知ってるんだな、私のうわさ話)

 ただ、新菜は知っていたとしても別段態度を変えてきたことはなかった。あくまで、クラスメイトの一人として接してくれていた。

 でも、今は少し違う。そこはかとなく、敵意のようなものを感じる。

「俺が送ってあげるって言ったから送ることになっただけだ。別に橘さんは悪くないだろう」

 今度は長谷部が新菜をにらみ返した。しかし、新菜は呆れた顔で首を振るだけだ。

「そんな事情、みんなにわかるわけない。こういう場合、橘さんが悪者になってしまうのよ。兄さん、そういうのわからないんでしょう」

「じゃあなんだ。俺はどうしたらいいんだ?」

 皮肉っぽく長谷部が口の端をあげた。

「何もしなければいいのよ。何もしなければ、波風立たない」

 きっぱりと新菜が言った。でも、それをさらに上回る潔さで長谷部が言った。

「そんなの無理だ」

 新菜が眉を吊り上げた。

「なぜよ」

「俺は」

 一瞬、長谷部は優花のほうに視線を送った。

「俺は、彼女のこと、結構本気で気になってる」

 新菜が目を丸くした。優花もまた、目を丸くした。

(えっと……どういうこと?)

 優花の心臓が急にドキドキと騒ぎ始めた。長谷部が言ったことも、自分の心臓の騒ぎ具合も、わけがわからなくて、ただ今の状況を見守るしかなかった。

「兄さんがそんなふうに言うなんて、初めてね」

 冷ややかな口調で新菜がそう言った。でも、表情には動揺の色が見え隠れしていた。

「もう、知らない」

 ぷいっと視線を逸らすと、新菜は優花たちの脇を通り過ぎ、来た時と同じようにつかつかと歩み去っていった。また長谷部と二人残されて、優花は呆然とその背中を見送った。

「……ごめんね。行こうか。じゃあ乗って」

 いくらか気まずそうに長谷部がささやいた。

「は、はい」

 優花はまだ遠くに見える新菜の背中を気にしつつ、恐る恐る荷台に腰掛けた。



 自転車が進み始めてからしばらくは、優花が道案内するだけで、これと言って特に会話がなかった。黙々と、でも快調に自転車をこぎ続ける長谷部の背中を見ながら、優花の頭の中はいろいろなことが駆け巡っていた。先ほどの長谷部兄妹の会話のことや、宮瀬と帰った百合のこと、そして竜のこと。いろいろなことがいっぺんに起こって、優花は何から整理をつけたらいいのを考えていた。でも、どれもこれも優花がどうにかできる範疇を超えていることがわかるだけで、何も解決しなかった。

「聞きたいことがあるんだけど」

 真っすぐでなだらかな道に入ったとき、長谷部が独り言のように尋ねてきた。

「あの彼って、結局橘さんの何なの?」

「……竜のことですか?」

「ああ、そういえばそんな名前だっけ」

 どこかのタイミングで聞かれるとは思っていた。だから、答えもだいたい用意していた。

「竜は、私の義理の姉のいとこなんです」

「いとこ?」

「いろいろと事情があって、今、うちに居候してるんです」

「ふうん。居候、ねえ」

 長谷部はそのまま黙りこんだ。自転車の車輪の音と、夏の生ぬるい風の音だけがしばらくの間流れた。

「そりゃあ、強敵だな」

「え?」

 そこでちょうど信号が赤になり、自転車が止まった。そして長谷部は肩越しに振り返りながらにっこりと微笑んだ。

「あっちのほうが、君と一緒にいる時間が俺より長いってことになるからね。結構なハンデだ」

「ハンデ、ですか?」

 今一つ言っていることがわからなくて、優花は首をかしげる。

「まあ、その方が俺は逆に燃えるけど」

「燃える?」

 言われたことをオウム返しにするだけで、優花は意味がよくわかっていない。それが伝わったのだろう。長谷部は楽しげに笑い始めた。

「案外、君は鈍いんだね」

 なんだか、以前同じようなことを竜に言われた気がする。いつのことだったかと思い返していると、再び自転車が進み始めた。先ほどよりももっと軽快な走りになっている。優花の髪が大きく後ろになびいた。

「ねえ、橘さん。夏休み、一回デートしよっか」

「はい?」

 唐突過ぎて、何のことかわからず呆気にとられた。すると、長谷部はいよいよ楽しそうに声を弾ませた。

「さっき妹にも言ったけど、俺、いつになく本気なんだよね。君のことが気になって仕方ない」

 それって、つまり……。と考えが一つの答えに至ったとき、優花の頭の中が一瞬にして真っ白になった。心臓がバクバクと激しく鳴り始めて、めまいがするようだった。

「でも、俺はまだ君のこと知らなさすぎるし、君も俺のことよく知らないでしょ。だから、今度デートしよ」

 思考回路が停止している状態であまりにも自然に言われてしまって、思わずうなずきそうになった。でも優花はぶんぶんと首を振り、かろうじて思考を整えた。

「ふ、ふざけないでください。何を急に……」

「ふざけてなんかないよ。確かに、急な思い付きだったけど」

 突然自転車が止まった。ハンドルから手を離して振り返った長谷部の表情は、楽しげな声とは裏腹に真剣そのもので、優花は息をのんだ。

「俺、自分からこんなこと言ったことないよ」

「う、うそです、そんなの」

 中学の時は女泣かせで有名だったと、河井が言っていたではないか。それは、いろんな子と付き合っていたということではないのだろうか。

「女の子から勝手に告ってきて、まあとりあえず付き合ったことは色々あるけどね。断る理由なかったし」

 優花の心を読むように、長谷部が言った。

(なんか、さりげなくすごいこと言ってるよ、この人)

 パニックになりかけの頭の隅で、冷静な自分がさらりとそんなことを考えていた。

「でも、なんかどの子もつまらなくて、結局長続きしなかったな。その点、君は違うね。なんか、面白い」

「面白いって……それ、ほめてるんですか?」

「ほめてるつもりなんだけどな」

 すると、真剣な眼差しがふっと和らいで、長谷部は困ったように優しく微笑んだ。

「正直言って、この気持ちが本当に好きかどうか、俺自身がよくわかってないんだ。でも、君のこと気になって仕方ないのは確かだよ。気づくと、なんか、考えてるんだ。君のこと」

「そ、そんなこと、言われても……」

 告白されたことなら、何度もある。そのたび、優花は即座に断ってきた。誰かと付き合う気なんてなかったし、トラブルに巻き込まれるのがもう嫌だったのだ。

 でも、これは今まで経験してきたものとは違った。告白、というにはまだはっきりとした形のないものだった。長谷部自身の戸惑いが、嫌というほど伝わってきてしまうのだ。

(好きかどうかわかってないなんて、そんなのなんて答えればいいのよ。私だってわかんないよ)

 優花がうつむくのと、長谷部が再び自転車をこぎ始めたのはほとんど同時だった。先ほどと同じように、軽快に自転車がどんどんと進んでいく。

「こんなこと言われたって困るよね。ごめんね。俺も、こんなこと言うつもりじゃなかったんだけど」

 一人ぐちをこぼすように長谷部がつぶやいた。

「でもさ、デートの件、考えておいてよ。俺、君のこともっと知りたい」

 優花は何も答えなかった。長谷部も、答えを期待している様子はなかった。

 それからは、また優花が道を教えるだけで、会話という会話がなかった。優花の家の前に着いた後、優花がお礼を言う間もほとんどないまま、長谷部は足早に帰って行ってしまった。

(冷たいお茶くらい、お礼に飲ませた方がよかったのかな……)

 後になって、優花はぼんやりと考えた。でも、長谷部を家に上げたとなると竜が何と思うだろうか、という考えが頭にふと浮かんだ。しばらく考え、なぜ竜がどう思うかなんて気にしているのかがわからなくて、優花は足の痛みも忘れてぐちゃぐちゃと思い悩んでしまうのだった。

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