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夏の球技大会 決勝

(……痛い)

 目覚ましの音と同時に目を開けた優花が、朝一番に思い浮かんだ言葉はこれだった。むくりと起き上がり、恐る恐る足を床におろした。

「……った!」

 反射的に右足をひっこめた。じんじんと足首が痛んでいる。そっと触れてみると、熱を持って腫れていた。心なしか、昨日よりも腫れてきている気がした。

(寝れば良くなると思ったのに……)

 昨日つまずいてから、優花は足の痛みをごまかしごまかし、そのまま球技大会に出続けた。チームは予選で優勝し、今日の決勝トーナメントに進出することになった。試合中は少しがまんしていれば普通に歩いたり走ったりすることができていたが、帰りのホームルームが終わり、いざ自転車で帰ろうとした頃には、痛みがどんどんひどくなっていった。でも、誰にも心配されたくなくて、百合にも、数馬たちにも内緒にしていた。みんなが寝たあと夜中にこっそりと湿布を貼り、痛みが引くのを願いながら寝たのだが。

「優花。起きてるかー? 朝だぞー。学校だぞー」

 壁の向こうから、竜の明るい声が聞こえてきた。もう毎朝恒例の行事になっていて、今では優花も怒る気にならない。特に今は、痛みに意識が行っていて言い返す気分にもならない。

「おーい。起きてるのかー?」

「……うるさい。起きてるってば」

 優花はもう一度そっと足をおろし、何とか立ち上がった。歩くたび痛みが走ったががまんするしかなかった。



「優花。足痛いんじゃないの?」

 外に出て自転車を出しているとき、竜が唐突にそう言った。

「別に」

 努めて答えたが、内心どきりとしていた。ばれないように普通にしていたつもりだったのだが。

「なんか右足引きずってる感じに見える」

「そんなことないよ」

 優花はさっと自転車にまたがった。その時また痛みが走ったけれど、気づかないふりをした。

「早く行かないと遅刻しちゃうよ。先行くからね」

 これ以上話しているとさらに追及されてしまいそうだったので、優花は何か言いたげにする竜を無視するようにさっさと自転車をこぎだした。右足がペダルをこぐたびにぴきっと痛む。でも構わずこぎ続けた。おかげで、学校に着いたときにはますます痛みがひどくなってしまっていた。

(まずいなあ。これ、保健室とか行ったほうがいい感じかな……)

 今は触らなくてもわかる。かなり腫れている。これを保健室の先生にみせたら、病院に行きなさいと言われるだろう。場合によっては、家に連絡されてしまうだろうか。それはどうしてもいやだった。佳代の出産を前に余計な心配をかけたくなかった。

 結局、優花は足をかばいながら保健室ではなく教室に向かった。一年生の教室が一階で本当に良かったと思う。これでは、階段を上がるどころではない。

(問題は、球技大会か……)

 朝のホームルームの後から、さっそく決勝戦が始まる。勝ち進んでしまっているがために、優花はクラスの応援という名目で休むことができない。補欠に回してもらうには、足が痛いことを言わなければならない。でも、ずっと見学していたら、昨日の女子たちにまた何を言われるかわからない。それは悔しくて、優花のプライドが許さなかった。ホームルームの後、優花は何事もなかったかのように着替え、足の痛みを隠したまま体育館に向かうのだった。



 決勝戦は、八チームしかいないため、予選とは少しルールが変わる。まず、試合の時間が、十分から十五分に変わる。次に、初戦で負けた場合も三位決定戦のトーナメントがあるので、どのチームも最低二試合は行わなければならない。そして、今回は補欠がないことが新たに加わった。決勝に進んだチームがたまたま十三名のところばかりだったので、人数を合わせるための補欠が必要なかったのだ。

(二試合目で負けてくれたら、もう出なくて済むけど……)

 しかし、宮瀬の勢いを見ていたら、負けるなど到底考えられなかった。そして優花の予想通り、初戦は怒涛の勢いで勝ち、二試合目(つまり準決勝)は多少苦戦していたものの、見事に勝ち進んだ。残すは決勝戦のみだった。

 初戦からずっと無理をしていたので、足は限界にきていた。わざと当たって外に出て休むということもできたけれど、それは優花自身が許せなかった。もし自分が当たってしまったせいで勝てなかったら……と思うと、それはとても悔しかったのだ。

「ここまで来たら優勝しかないぞ。気合い入れていくぞ」

 応援部らしく宮瀬が声を張り上げると、チームのメンバー全員も揃えて声を張り上げて返事した。その中に優花の声もしっかり混ざっていた。

 優花は自分でもびっくりするほど、ここまで来たら優勝したいと本気で思うようになっていた。宮瀬の熱さに感化されているのかもしれない。長谷部の「楽しんだもの勝ち」という言葉が、ずっと引っかかっているせいかもしれない。ともかく、チームのこの盛り上がりの中に身を置いていたい、強くそう思っていた。



 三位決定戦終了後、いよいよ決勝戦となった。体育館は異様な盛り上がりを見せている。決勝戦で優花たち八組のチームが相対するのは、三組のチームだ。コートの周りをぐるりと取り囲む応援集団は、一年生から三年生までの三組と八組の生徒たちだ。それ以外のクラスの生徒は、体育館二階の応援席にびっしり座っている。

(足が痛いとか、言ってられないよね)

 あまりの観客の多さに少しびくびくしながら、優花は深く息を吸った。ゆっくり息を吐いていると、多少は痛みが逃げていくような気がするのだ。

「優花、緊張してる?」

 隣にいた百合が尋ねてきた。優花の深呼吸を、緊張のためと思ったらしい。

「私もすごいドキドキしてる。こんな中で決勝戦まで来ちゃうなんてすごいね」

「ホントだね……」

 そのとき、ポンと肩を後ろからたたかれた。振り向くと、長谷部が優花と百合の肩に手を置いて相変わらずの爽やかスマイルをしていた。

「ここまできたら、なるようにしかならないからね。勝ち負けはさておいて、楽しんでやろう」

 はい、と返事をしながら、楽しむ余裕があるだろうか、と優花は自問した。とにかく、この足の痛みのせいで負けるようなことにはしたくなかった。

 

 ピイーっとホイッスルが鳴り、試合開始のボールが投げられた。最初にボールを取ったのは長谷部だった。素早く外野の宮瀬にパスを回し、宮瀬があっという間に一人にボールを当ててしまった。どっと耳が痛いほどの歓声が沸いた。しかし、相手も決勝まで残ったチームである。こぼれたボールをすかさず拾いに行き、すぐに攻撃に転じた。優花たち内野は素早く当たらぬように逃げる。

ったぁー……)

 足に力を入れた途端に、ずんと重い痛みを感じる。危うく転びそうになったがどうにか持ちこたえた。幸い、味方がボールをキャッチしてくれたので、今度は八組が攻撃に転じた。激しいボールのラリーが繰り広げられる。そして今度は河井が当たってしまい、外に出ることになってしまった。これで同点になった。再び始まるボールの応酬。こちらがまた一人を当てて行けば、敵もまた一人を当てて外に出す。どちらも一歩も引かない様相で、ファインプレーが出るたびに体育館に歓声が響き渡った。

(うう。まだ十五分経たないかな)

 一年生で残っているのは優花だけになっていた。何とか今まで当たらずに済んでいる優花だったが、足が動かなくなりつつあった。反応がどんどん鈍ってきているのが嫌でも分かる。ほとんど気合で乗り切っていた。あと少し。あと少しだけ我慢すれば。その一心で動き回っていた。

 ところが、あと五分もないというところで本当の限界がやってきてしまった。足を前に出そうとした瞬間、優花は体勢を崩してしまった。それを逃さない敵ではなかった。ボールは真っ直ぐ優花をめがけて飛んできた。

(わ! あんなの取れないし!)

 ボールが優花の腕に鋭く当たって跳ね上がった。おおー!という大勢の声が巻き起こる。ボールの勢いに耐え切れず、優花はそのまま床に転んだ。しかし。

 わーっ!

 先ほどよりも大きな歓声が館内に沸き起こった。

(え?)

 優花が顔をあげると、跳ね上がったボールは床につくことなく、長谷部がきっちりとキャッチしていたのだ。ボールに当たっても、それが床につかなければ当たったことにはならない。優花は内野に残ることができたのだ。優花が残ることで、八組チームは一歩リードを保てるのだ。

「大丈夫? 橘さん」

 ボールを持ったまま長谷部が振り返る。

「はい……」

 返事をしながら、立ち上がろうとした。しかし。

「……っ」

 右足を少し床に着いた瞬間に全身が崩れ落ちてしまった。歓声が、ざわつきの声に変っていく。

「ちょっとタイム!」

 長谷部が審判に向かって大声を上げた。心配そうにチームメイトたちが優花の周りに集まってきた。優花は何とか立ち上がろうと頑張ってみたが、一度倒れてしまったせいか、もう足が言うことをきかなかった。

「優花? 大丈夫? どうしたの?」

 百合がすぐ隣にしゃがみこんで尋ねてくる。答えようかどうしようか迷っていると。

「橘さん、もしかして、足が痛い?」

 長谷部もしゃがみこんで尋ねてきた。優花は答えずにただうつむくしかなかった。

「そうなの? 優花、足のどこが痛いの? ちゃんと教えて」

「……右の、足首」

 百合のすさまじい勢いに負けて、優花は観念して答えた。すると、百合が優花の靴下をそっとおろした。それだけで激痛が走り、優花は思わず顔を歪めてしまった。

「うわ、すごい腫れてるじゃない……。これ、今痛めたんじゃないでしょ。今痛めたなら、こんなにすぐ腫れないもん。なんで言ってくれなかったの」

 百合が涙目になってそう言った。怒っているようにも見えて、優花はただうつむくしかなかった。

「花崎さん。今はそんなこと言ってる場合じゃないよ」

 たしなめるように長谷部が二人の間に入った。百合がはっと胸を突かれた表情になり、しゅんとうなだれた。

「とりあえず、橘さんはこれを冷やさないとダメだね。救護班のところに行かなきゃ。今すぐに」

「でも、あと五分ないし……」

 長谷部の言葉を優花はさえぎったが、さらにそれを長谷部が遮った。

「あと五分なくても、君はもう動けないでしょ? こんなになって、試合続けさせるわけにいかないよ」

「その通りだな」

 長谷部の後ろで宮瀬が大きくうなずいた。

「橘さん、十分に頑張ったよ。これ以上無理しちゃダメだ。……花崎さん、代わりに出てくれる?」

 宮瀬が百合のほうを見た。百合は力なくうなずいた。それを見届けてから、宮瀬はパンと手を叩き、いつも以上に張り切った声を上げた。

「よし。じゃあそのこと審判に伝えてくるよ。そしたらすぐに試合再開だ」

 チームメイトたちは一瞬顔を見合わせてから、はいっと気持ちのいいほどそろった返事をした。

「ごめんなさい……」

 優花はうつむいたままつぶやいた。とうとうばれてしまった。あともう少しで終わりだったのに。もう一歩で優勝というところだったのに。悔しくてたまらなかった。

「謝らなくていいよ。宮瀬も言ってただろ。十分がんばったって。とりあえず、コートから出なきゃ」

 長谷部が手を差し伸べてきた。いつもなら、誰かに頼らず立ち上がる。でも、今は何か支えがないと立ち上がれない。仕方なく優花はその手を取った。しかし……。

「……っ」

 手を取っても、立ち上がれなかった。右足をかばって左足をつかいすぎたのだろう。左足で踏ん張ろうとしても、力が入らないのだ。右足でももちろん立ち上がれるはずがない。

「あれ。しょうがないね」

 長谷部は困ったように笑った。そして、何の迷いもなく、優花をふわっと横抱きにしてしまった。

(え、え、え⁉)

 違ったどよめきが場内を包んだ。悲鳴のような黄色い声も混じっている。でも長谷部は全く意に介した様子もなく、優花を横抱きにしたままスタスタとコートの外に歩いていく。

(なにこれ! 恥ずかしすぎ! 公衆の面前でお姫様抱っことか!)

「ちょ、ちょっと、あの! おろしてください!」

 優花はじたばたともがいた。足に痛みは走るけど、かまっている場合ではない。とにかく降りなければならない。それしか頭になかった。

「いやいやいや。こんな役得、他にないからね」

 長谷部はにっこりと微笑んだ。すがすがしいほどの爽やかさである。その笑顔が目と鼻の先の距離にある。近すぎて、優花はほとんどパニックだった。

「役得って……私は何の得もありません!」

「ほかの女の子なら俺がお姫様抱っこすれば大抵喜ぶと思うんだけどなー。やっぱり君、変わってるね」

「よ……よくもそんなさらっと言えますね……!」

「事実だし。それに、今ここでおろしても、歩けないでしょ」

「そ、そうですけど……」

「だから、おとなしくしててよね」

 結局、体育館の隅に設置されている救護班のところまで、優花は長谷部に横抱きにされたまま連れてこられてしまった。その間の羨望と嫉妬の眼差しと言ったらひどかった。

長谷部はそっと優花を椅子におろすと、かたわらに片膝をついて優花を見上げた。まるで王子様のような仕草が似合いすぎで、図らずもドキッとしてしまった。

「ここから応援しててね。優勝してくるから」

 不敵に、でも優しく長谷部は微笑んだ。そして、颯爽とまたチームの輪に戻っていった。 

 おかげで、救護の女生徒たちにも軽く睨まれてしまった。保健室のおばちゃん先生だけが「若いっていいわねえ」とうきうきした様子で処置してくれた。


 数分後、試合が再開された。優花は救護班の位置から試合の様子を見守った。そして試合終了十秒前。外野の宮瀬が内野の長谷部にパスを回し、素早い動きであっという間に敵チームの一人を仕留めた。その瞬間、試合終了のホイッスルが鳴った。

 宮瀬チーム念願の優勝が決まった瞬間だった。

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