夏の球技大会 予選
優花たちの高校では、毎学期末に生徒会主催の球技大会が開かれる。五月の強歩大会もそうだが、生徒会主催の行事がこの学校では案外多い。球技大会の種目はバレーだったりバスケだったりいろいろらしいが、今回はドッジボール大会だった。運動が苦手な優花にとってはまだ楽な種目だったが、問題が一つあった。それは、そのチームである。
「はあ……」
更衣室で体育着に着替えながら、優花は思わずため息をついた。隣で着替えていた百合が苦笑いで優花に言った。
「盛大なため息ついちゃってるね」
「だって……」
もう一度、優花は深く長くため息をついた。
「まあ、わからないでもないよ。まさか強歩大会のメンバーが一年間続くなんて、知らなかったし」
そうなのだ。球技大会のチームは、一年生から三年生までの混合チームなのだが、そのメンバーは強歩大会のときのメンバーそのままなのだ。百合をはじめ、河井や高山といった気心知れた一年生はいい。むしろ改めて他のクラスメイトとチームを組むより断然良い。問題は……。
「いいなー。橘さんと花崎さん。あの長谷部先輩と同じチームなんだもんねえ」
「うらやましいなあ」
後ろからクラスメイトに話しかけられた。その口調には、明らかに妬み嫉みが入っている。
(あー。またこのヒマな人たち……)
適当に返事をしながら、優花はげんなりした。このクラスメイトの女子たちは、百合に優花の悪い噂を流し込んだ人たちで、今でもこうして遠回しに敵意をぶつけてくる。嫌な気分になることには変わりなかったが、今の優花にはちゃんとした味方がいてくれるので、余計に傷つかずに済んでいた。
「あ、でもダメだよ。橘さんにはあの作業着の彼がいるんだから」
「ああ。そうだったねえ」
わざとらしく高い声をあげて彼女たちは話す。
(また勝手なこと言って)
優花は髪を一つに結びながら、いらだつ気持ちを懸命に抑えた。
竜のことは、やはりどうしてもうわさが立ってしまった。それも仕方がない話だ。中間の時だけでなく、期末考査の時も竜は優花を迎えに来ていた。明らかに高校生くらいの男の子が、作業着姿で校門前にいるのだから、どうしたって目立つ。加えてあのルックスだから、女生徒たちの興味を引いてしまったのだ。
「でも、あの彼だけじゃないんでしょ?」
「そういう噂だよ」
「いろんなところに『彼』がいるみたいで、本当に忙しいのねえ」
彼女らはくすくすと意地悪で楽しげに笑う。すると、百合がむっとしながらひそひそと話しかけてきた。
「いいの? あんなこと言ってるよ。ホントあの人たちひどい」
少し考えてから、優花は彼女たちに聞こえるようにはっきりと言った。
「……ヒマなんだよ。うわさするくらいしか、することないんでしょ」
優花の言葉に、百合が目を丸くする。後ろにいた女子たちも、一瞬黙り込んだ。
「行こう。百合」
優花は彼女たちを見ることもなく歩き出した。百合が遅れて追いかけてくる。後ろから痛いほどの嫌な視線を感じたけれど、気づかぬふりをして更衣室を出た。
「よっしゃ! 強歩大会で優勝できなかった借りを返す時が来たぞ!」
暑い体育館で、さらにめらめらと熱い闘志を燃やしているのは、強歩大会に引き続きこのドッジボールのチームのリーダーを務める、応援部団長の宮瀬大輝だった。宮瀬がいるだけで、体感温度が一度は上がる。
「優勝する気なんだ、やっぱり」
河井が丸い顔からだらだらと流れていく汗を拭きながらつぶやく。そして高山は細い体がさらにやせ細りそうな勢いで汗をかいている。
「言い方悪いけど、たかが球技大会だけど大掛かりだよね……」
優花と百合は体育館に貼られたトーナメント表を見た。
球技大会は、二日にわたって行われる。今日一日目は、クラスごとの予選大会だ。学年縦割り八クラスが、それぞれ分かれて予選トーナメントを行い、各クラスひとチームを選出する。勝ち残ったその一チームは明日の決勝トーナメントに進む。各クラスに十二チーム、合計九十六チームもあるため、同じ体育館で同時に試合をすることはできない。時間を割り振って、順番に予選を行うのだ。すでに、一組から六組までの予選が終了していて、残すところは七組と優花たちのいる八組のみになっている。
(ほんとに。勉強だけでなく行事にも力が入ってるんだよな、この学校)
優花も入学する前からそれを何となく知ってはいたのだが、ここまでの力の入れようだとは思っていなかった。
「体育祭もこのチームで行う競技があるんだよ」
さりげなく優花の隣に立ったのは三年の長谷部聖弥だった。長谷部はにっこりと爽やかな笑顔を優花に向けた。彼の周りだけは宮瀬と対照的に爽やかな風が吹いているようである。
「……そうなんですか?」
できるだけ目を合わせないように、でも無視するのも変なので努めて普通に接した。長谷部と話しているだけで、どこからともなく痛い視線を感じるのだ。
「あとは三学期の球技大会かな。二学期はさすがに受験でそれどころじゃないから、三年は参加できないんだけどね。三学期はいろんな意味でみんな進路に決着ついてるから、まあ、高校生活最後のお楽しみみたいなもんだね」
つまり、長谷部たちの卒業までこのチームの解散はないということだ。行事のたびに、さっきの更衣室のような思いをするのだろうか。
(それは少し……いや、かなり気が重い)
そんなことを考えていると、長谷部がこらえきれぬといった様子でくつくつと笑い出した。
「橘さんは案外素直に感情が表に出るね。そんなに嫌?」
そんな顔していただろうか。優花は思わず頬に手を当ててしまう。それを見てさらに長谷部が笑った。
「そんなに嫌がらずに楽しんでよ。高校三年間なんて、あっという間なんだから。楽しんだもの勝ちだよ」
「楽しんだもの勝ち……?」
その言葉が気になって、優花はそのまま言葉を繰り返した。知らず知らずのうちに、長谷部の話に引き込まれてしまっている。
「そうだよ。三年生の俺が言うんだから間違いないよ。それに……」
すると、長谷部はさっと身をかがめて優花の耳元でささやいた。
「そんなに嫌がられちゃうと俺が悲しいからね」
え? と思わず優花は顔を長谷部に向けた。長谷部はにこりと笑うと、すぐに優花から離れた。一連の動きがあまりに自然で素早くて、優花が嫌がるスキも何もなかった。
「じゃ、またあとでね」
長谷部は素晴らしく晴れやかな笑顔を見せてから、三年生たちの輪に戻っていった。呆気にとられたまま優花がその背中を見送っていると、後ろからつんつんと指でつつかれた。
「優花ぁ? なに先輩に見とれちゃってるの」
百合が冷やかしたような口調で言った。
「えっ……ちが……っ! 見とれてなんかいないし!」
ぶんぶん首を振りながらも、自分の顔が知らぬ間に赤くなっていくのが分かる。
「そうやって慌てて否定しちゃうと、肯定しているように見えるよ」
「百合が変なこと言うから……」
「先輩も先輩で、優花にしか話しかけないしさあ。なんか態度があからさまだよねえ。やっぱり優花のことが本命なんだと思うんだけどな」
「そういうこと言わないでよ」
「あ。実は優花もまんざらでもなかったりして。んー、でも優花には竜がお似合いなような気もするし。あー、先輩と並んでても絵になるから、どっちも捨てがたいかなあ……」
「ちょっと、百合。話聞いて……」
このあと百合の暴走がどうにも止まらず、優花はしばらく百合の妄想話に付き合わされる羽目になってしまった。「花崎さん、楽しそうだよね」とこっそり高山がつぶやいたのを聞いて、優花は思わず苦笑いした。
今回の球技大会で行うドッジボールのルールはいたってシンプルだ。一チーム十二名ずつで試合をする。優花たちのチームは全部で十三名いるので、一人補欠で残る。勝ち進めば次の試合で別の人が補欠になるようにする(一試合目は河井が補欠になった。理由は的が大きくてすぐに当てられてしまうそうだから)。試合開始時は、十名が内野で二名が外野に出なければならない。外野の二名は内野に入ることはできない。また、内野のメンバーは当てられたら外に出るだけで、外野のメンバーになることはできない。制限時間は十分で、内野に残っていたメンバーが多いほうが次の試合に出ることになるのだ。
「とにかく、内野のやつはうまく逃げ回れよ。相手の数はこっちでバンバン減らしてやるからな」
宮瀬がざっくりとした作戦をメンバーに伝える。こっちというのは、宮瀬と長谷部の応援部コンビのことだ。宮瀬が外野に出て、長谷部が内野に残ってうまくパスを回していくようだ。外野の残り一人のメンバーには二年生の男子が選ばれた。
(うまく逃げ回るより、当たったほうが外に出るだけで、あとは見てるだけだから楽かなあ……)
ぼんやりとそんなことを考えていたら、先ほどの長谷部の言葉がポンと頭に浮かんだ。
(楽しんだもの勝ち……)
今の考えは、楽をすることであって楽しむものではないような気がした。別にこの球技大会を楽しみにしていたわけではない。でも、楽なほうに流されている感じは嫌だった。
優花がそんな入り混じった感情を抱えながらも、チームは順調に勝ち進んでいった。なんといっても宮瀬と長谷部のコンビネーションが素晴らしかった。絶妙なパス回し、間の取り方。ボールをほとんど相手チームに持たせないまま、どんどん数を減らして行ってしまうのだ。優花たちは逃げ回っているだけで、ほとんどすることがないほどだった。
「さすが、応援部の団長副団長だね。なんていうか、すごく息ぴったり」
二試合目が終わったあと、自分たちの荷物の置いてある場所に向かいながら、百合が感心するようにため息をもらした。全然タイプの違う二人だが、短い言葉やちょっとした動きで、相手のしたいことが分かっているようだった。優花もそれには感心しきりだった。
「ホントに仲がいいんだろうね、きっと」
試合に勝った瞬間、二人でハイタッチしているのを見たとき、優花は不意に感動してしまった。ただ純粋に二人が健闘を称えあっていた姿が、キラキラとした印象で残っている。あれが本気で楽しんでいる姿なのかなと、うらやましくも思えたのだ。
(あんな風に高校生活を送れたら、楽しいんだろうな)
自分の高校生活は始まったばかりだ。素敵な友人にも巡り合えた今、あんなふうに楽しめたらいい。そんなことをぼんやりと考えていた。
そのとき、優花の体が急に勢いよく前に傾いた。
(えっ?)
反射的に、足が体を支えようと踏ん張っていた。が、体はどんどん傾いていき、その力に負けて右の足首が内側に曲がった。
そして気づいたときには思い切り転んでいた。
「だ、大丈夫!? 優花!」
百合に声をかけられて、自分がつまづいていたことに気づいた。でも、なぜつまづいたのかがわからない。体を起こしながら少し辺りを見回した。
「だっさ」
更衣室にいた先ほどのクラスメイトたちが、くすくすとあざ笑って優花を見ていた。
(まさか……?)
足を引っかけられた? それほどの近い距離にいたので、彼女たちにできなくもないことだ。
「優花、立てる?」
百合が心配そうにしゃがみながら手を差し伸べてきた。
「うん……ありがとう」
混乱する頭を抱えながら、優花は百合の手を取って立ち上がる。その時、少し右足首に痛みが走った。
(なんか、痛い……)
そう思いつつ、彼女たちの前から早く離れたかったので、とにかく歩き出した。歩くたび、痛みがだんだん大きくなっていく気がした。転んだばかりのせいだと、優花は思うようにした。
「多分、あの子たち、足引っかけてきた。よく見てなかったけど、たぶんそうだよ」
少し離れたところまできて、百合がひそひそと言った。やっぱりそうか、と優花は納得した。よくよく思い返してみれば、引っかかったものは人間の足だった気がするのだ。そんな感触が足に残っている。
「さっき優花が言ったこと、根に持ってるんだよ」
確かに、最後の一言は余計だった。最後まで適当に無視しておけばよかったのだ。でも、あの時は何か言わないと腹の虫がおさまらない気がしてしまったのだ。
「だからって、こんな陰湿なことしなくてもいいのにね。ホント、あの人たち性格悪い」
百合がかなり憤慨していた。優花も同じ気持ちだったが、自分が蒔いた種でもあったので情けなくもあった。
「いいよ、もう放っておこう。私、大丈夫だから」
精一杯百合に笑って見せた。百合はなおも心配そうだったが、仕方なさそうにうなずいた。
自分の荷物のところについて、水筒のお茶を一口飲んだ。足は相変わらずじんじんと痛んでいた。
(でも、何とか動けるかな……)
次の試合まで十分ほどだ。こうして休んでいればきっと大丈夫。優花はそうやって言い聞かせ続けた。