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竜の昔話

「俺、今でも覚えてるよ。父さんに初めて会った時のこと」

 帰り道に、歩きながら竜はぽつぽつと話し始めた。

「三歳か、四歳のころだったな。あの人に連れられて行ったところに、父さんがいたんだ」

「あの人……?」

 優花が尋ね返すと、竜は視線を落とし、少し吐き捨てるように答えた。

「俺の母親」

 血のつながっていない育ての父は「父さん」と呼び、産みの母のことは「あの人」と言う。それだけで、竜の親に対する感情が推し量られた。

「あの人、さ、仲間はたくさんいたんだよ。ずいぶん派手でうるさい仲間がさ。そういう連中に俺が愛想よく笑って見せるだろ? そうすると、ちやほやしてお菓子とかたくさんくれるんだ。そうやって愛想よくしておけば、あの人も機嫌がよかったしな」

 そういえば、佳代が言っていた。幼いころの竜は人懐こい子どもで、すぐに馴染むことができたと。でも、今の話を聞くと、竜が愛想よくしていたのは、周りの機嫌を取るためだったのだと思えた。小さい子どもが、どうにかして生きていくための手段だったのかもしれない。

「だから、父さんに初めて会った時も同じようにした。愛想よく、礼儀正しくお辞儀なんかしてさ。でもそしたらさ……」

 と、そこで竜は一度言葉を区切った。優花はちらりとその横顔をうかがった。竜は視線を落としたまま悲しげに微笑んだ。

「父さんは、俺の目を見て、よろしくなって言って笑ったあと、抱き上げてくれたんだ」

 竜は目線をあげた。抱き上げられて、視界が高くなった瞬間を思い返しているのだろうか。悲しげな表情が少し明るくなったように見えた。

「初めてだった。抱き上げてくれる人なんか、今まで一人もいなかった。だから、俺、かえってどうしたらいいかわからなくてさ。父さんの腕の中で固まっちゃったこと、よく覚えてる」

 幼かった竜の孤独を思うと、胸が締め付けられそうだった。そんな孤独の中に現れたのが、葉山広樹という人だったのだろう。優花は、竜が持っていたアルバムの中の、優しげな広樹の笑顔を思い返していた。

「父さんは、穏やかで、真面目な人だった。あの人の仲間とは全然違うタイプの人だった。なんで父さんはあんな女と結婚したんだろうな。今でもわからない」

 独り言のように竜は話を続けていく。優花は何も言葉を挟まず聴き続けた。

「それでも、日奈が産まれてからしばらくは平和だったな。あの人も、まあ母親らしいことしてたし。父さんが俺の父さんになってくれて、ほんとにうれしかった。四人で食卓囲んだりさ、手をつないで買い物に出かけたりさ。これが家族ってもんなんだなって、初めて知ったんだ。それなのに……あの人は……」

 言葉の終わりがかすれ声になって、それきり竜は何も言わなくなった。竜は唇を固く引き結んでいた。その唇がわずかに震えているのが見て取れた。

(これが、竜の素顔なんだ。きっと)

 いつも明るく、お調子者に見せているけれど、本当のところは違うのかもしれない。幼いころと同じように、明るく、愛想よく振舞うことで、自分を守ろうとしているのかもしれない。優花は、そう思えて仕方がなかった。だからと言って、竜にかける言葉が何も見つからなかった。

 そのまま無言で歩き続けてから、突然、竜がいつものように白い歯を見せてにっと笑った。

「ごめん。こんなの、優花に話したって困るだけなのにさ。忘れちゃってよ」

 その笑顔は、あまりにもいつも通り過ぎて、逆に辛かった。本当は泣きたいのだろうに。悲しくて仕方がないはずなのに。竜はそんな感情を完璧に押し隠していた。そんなの違う。そんなのはだめだ。唐突にその思いが心の中でひらめいた。

「あのね、竜」

 気づいたときには、竜に話しかけていた。竜はびっくりしたように立ち止まった。優花は声をかけた自分の衝動に驚いてしまっていた。自分はなぜ声をかけてしまったのだろう。何が言いたいのだろう。考えてみても、見当がつかない。でも、この状況で「何でもない」はおかしすぎる。

(何か言わなきゃ)

「あの、ね。私、お父さんとお母さんのお葬式が終わってから、学校行けなくて、外にも出られなくて、家でずっと泣いてたの」

 なんでこんな話をしているのだろうと思いながら、とにかく思いついたまま言葉をつないでいった。

「たぶん、学校行けるようになるまで、二週間くらいかかった。その間、お兄ちゃんがずっと一緒にいてくれて、お姉ちゃんも心配して家によく来てくれてた。でも、お兄ちゃんが泣いているところ、一度も見たことがなかったの。きっと、お兄ちゃんは私がずっと泣いてるから、自分がしっかりしなきゃって、思ってたんだと思う……」

 泣いている妹にいつも寄り添って、ひとしきりの涙が枯れるまで、ずっと一緒にいてくれた兄を思い出し、知らず知らず目頭が熱くなってきた。

「でも、一度だけ。一度だけお兄ちゃんが泣いているところ見たの。私、泣き疲れたんだと思う。気づいたら自分の部屋で眠ってた。喉が渇いたから、キッチンのお茶でも飲もうかなって思って行ったら、リビングにお兄ちゃんと、お姉ちゃんがいてね。お兄ちゃん、泣いてた、たぶん。顔は見えなかったけど、肩が震えてた。お姉ちゃんがずっと、お兄ちゃんの背中をさすってたの」

 結局、自分は何が言いたいのだろう。話の着地点が見えなくて、優花は頭の隅のほうで焦っていた。

「だから、えっと、つまり……」

 泣いている自分とずっと一緒にいてくれた兄。そんな兄に寄り添っていた佳代。その絵が見えたとき、自分がなすべきことがにわかにわかった。今、自分が言いたかったのは。するべきことは。

「竜は一人じゃないんだよ。日奈ちゃんだって、いつも会えるわけじゃないけど、ものすごく好かれてるじゃない。佳代お姉ちゃんはもちろんだけど、お兄ちゃんだって結構竜のこと気にかけてるんだよ。そうじゃなきゃ、うちに来てもいいなんて言わなかったはずだし。それに、それから……」

 思わず口ごもり、うつむいてしまうと。

「それから、優花がいる」

 はっと顔をあげた。竜が、ちょっとはにかんだ、でもとても優しい笑みを浮かべていた。優花の心臓が、とくんと、ゆっくり音を立てた。

「そうだよな。今もこうして一緒にいるもんな」

 次の瞬間には、白い歯を見せてにっと笑う、いつもの竜の笑顔になった。

「そ、そうよ……。話くらいなら、いつだって聞いてあげる」

 だから、と言いながら、優花は体ごと竜から視線をそらした。

「忘れてとか、言わなくても大丈夫だから。別に、困らないから」

 直接、顔を見ることができなかった。うん、と竜が頷いたのも、気配で感じとるだけで精一杯だ。

(なんで私、こんなこと……)

 思い返せば、顔から火が出るほど恥ずかしかった。端的に表現するなら「私がいるから大丈夫」ということではないか。まるで告白みたいではないかと思った途端に、優花の頭の中は大混乱に陥っていた。

(ちがうし。絶対、そんなんじゃない。竜が、あんまりにも辛そうだったから。だからなんだから)

 しかし心の内での言い訳が何となくむなしい。そんなふうに感じていると。

「あ」

 急に、竜が声をあげた。

「雨、やんでた」

 と、竜は明るい調子で言った。優花も周りを見回してみる。

「……ほんとだ」

 気づけば、少し辺りが明るくなってきていた。竜が傘を閉じるのを見て、優花もそれにならった。下の水たまりに、小さな青空がのぞいていた。

「じゃ、帰ろう」

 楽しげに竜が笑った。無理していない、心からの笑顔だとわかる。優花の心が軽いのがその証拠だ。

「そうだね」

 二人はまた並んで歩きだした。それから家に帰るまで、お昼ご飯の話や学校や仕事の話といった、普段の他愛のない話をした。話していることは普通のことだったが、一ついつもと違うことがあった。それは、優花の心臓が始終ゆっくりと大きく鳴り続けていたことだ。それはちょっと苦しくてもなぜか心地よい、不思議な鼓動だった。

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