優花の味方
強歩大会の十キロほどを歩きとおした頃合いで、お昼休憩をとることになった。所定の場所で必ず一時間の休憩を挟まなければならないのが全体のルールだった。まだ半分の道のりが残っているのだが、普段そこまで長く歩かない優花はもう足が痛くてへとへとだった。百合も、高山も河井もそれは同じようで、レジャーシートを広げた瞬間には座り込んでいた。
「だらしがないな、一年生。運動不足だな」
リーダーの宮瀬がからからと豪快に笑った。優花はグループ全員を見回したが、元気なのは宮瀬だけで二年生も三年生も疲れている様子に見えた。疲れないほうがおかしい。チェックポイントでは、クイズを出されたり、いきなり階段ダッシュをやらされてタイムを競わされたりして、歩く以外のところでかなり消耗してしまっているのだ。一年生は事前にどんなチェックポイントがあるか聞かされていないので(絶対に外部に内容を漏らしてはいけない。それが伝統なのだそうだ)、なおのこと疲労が激しかった。
「まったくね、あいつだけだよ。毎年元気なのは」
疲れて話すのも億劫になっている一年生たちに声をかけてくれたのは、三年生の長谷部聖弥だった。宮瀬と同じ応援部で、副団長だ。宮瀬の豪快さとは裏腹に、爽やかな青年だった。サラサラの髪の毛に端正な顔立ちは、サッカー部にでもいそうな雰囲気で、男くさい応援団の中では異色だった。優花はこの時はまだ知らなかったが、彼はその見た目と部活のギャップで学校内でも人気のトップにいたのだった。
「でも、宮瀬のいるチームは上位五チームに毎年必ず入ってるんだ。あいつ、体力も抜群だけど、頭もいいからさ。だからちょっときついかもしれないけど、君たち運のいいチームに入れたんだよ」
へえ、と優花たち一年生が顔を見合わせて感心した。各学年に八クラスずつあり、それが縦割りでさらに十二のグループに分けられている。つまり全部で九十六グループが競っているのだ。その中での五位以内というのはかなりの好成績である。
「君たちが頑張ってくれているから、今年は優勝が狙える位置にいると思うよ」
ニコニコしながら長谷部が言うと、後ろから二年生女子が「先輩! 私たちは?」と黄色い声で尋ねてきた。長谷部は振り返ると、
「もちろん、君たちはもっと戦力になってるよ。貢献度はかなり大きいね」
と慣れた様子で爽やかに答えた。きゃあっと二年生女子たちは歓声を上げた。その様子から、この人はモテてモテて仕方のない人なのだとわかった。しかも、彼もそれを自覚して愛想を振りまいている様子だった。
(あまり、お近づきにはなりたくないな)
それは直感だった。頭の奥のほうで、警戒音が微かに鳴り響いている。失礼にならない程度に対応しよう。そう思っていたのに、長谷部は宮瀬と一緒に一年生グループの近くに陣取って昼食を食べ始めた。場所が限られているから仕方がないとはいえ、長谷部はよりによって優花の隣に座る形になっていた。あからさまに背を向けるわけにもいかず、優花はわずかに百合の側に寄ることくらいしかできなかった。
「橘さんは、自分でお弁当作るの?」
長谷部が優花の弁当をのぞきながら愛想よく尋ねてくる。優花はなるべく目を合わせないように頷いた。
「作るといっても、夕飯の残りを詰めるだけで……」
「でも、卵焼きとかは自分で作ったんでしょ?」
「まあ、今日はそうですね……」
普段の弁当は、夕食の残り物を適当に詰め、時に冷凍食品を詰め、ご飯を入れて終わりである。朝が苦手な優花は、早起きしておかずを作ったりしない。でも今日は違った。少しだけ早起きして、卵焼きとタコウィンナーを手早く作った。それから梅入りのおにぎりも握った。本当は、いつも通りに詰めるだけにするつもりだったのだが、昨日の夕食の時の竜の一言が原因で、早起きせざるを得なくなったのだ。
「いいなー。遠足。俺も弁当食べたい」
夕食の時、竜はうらやましそうに言葉をもらした。竜は普段会社で取るお弁当を食べるので、家から持っていくのは水筒だけだった。
「遠足じゃないよ。強歩大会。一応競争なんだって。二十キロだよ? 絶対筋肉痛になる。なんか、いろいろやらなきゃいけないらしいし」
この時点では、強歩大会にはチェックポイントがあるということしか優花は知らない。まさか階段ダッシュがあるとは夢にも思っていなかった。
「遠足と言えばお弁当だよなー。卵焼きだろ、唐揚げに、タコウィンナーとかさ」
「なにそれ。タコウィンナーとか小学生のお弁当じゃない」
ぷっと思わず吹き出すと、竜は憤慨したようにふくれた。
「いいじゃないか。定番だろ? あとおにぎりだよな。やっぱ梅干しかな」
「でも、作らないよ? いつも通り」
「うそだろ? 作ってよ」
「私一人分だもん。めんどくさい」
「それなら、俺の分も作って」
「なに言ってんのよ」
優花はあからさまに眉をひそめて面倒くささをアピールした。本当に面倒だったのだ。特に早起きが。
「いいじゃん、作ってよ。明日は会社の弁当とらなきゃいいんだし。適当にタッパーに詰めてくれればいいからさ」
「だから、なんで私が竜のお弁当作んなきゃならないの」
「それはさあ」
竜は一瞬迷ったように言葉を区切った。それから、ちょっと視線を下にしてぼそぼそっと答えた。
「そういう弁当、経験がなくてさ。どんなかなーって」
虚を突かれて、優花をはじめ数馬も佳代も黙ってしまった。雰囲気が変わったのを察したのか、竜は慌ててわざとらしく笑い声を立て、早口でまくし立てた。
「それがさあ、俺の父さんて超忙しかったからさ、弁当なんて作る暇なかったんだよね。だから遠足の時とかコンビニのおにぎりとか持って行ってて。まあ、コンビニ美味いから別に良かったんだけどさ」
そんなことを聞いてしまったら、作らないわけにはいかなくなってしまった。佳代が「私が作ろうか」と言ってくれたけれど、佳代はもうすぐ産休に入る手前の体なので、無理させるわけにはいかなかった。
そうして、優花は頑張って早起きして、二人分の弁当を時間ぎりぎりに仕上げた。唐揚げは鶏肉がなかったので断念したが、他のリクエストはなんとか家にある食材で間に合った。もちろん、急な話だったので、隙間を埋めるため冷凍食品にも世話になったが。
「やったー。タコだタコだ」
タッパーに詰められたおかずを見て、竜は朝からいつも以上にハイテンションになった。タコウィンナーではしゃいでいるあたりが本当に子どもっぽくて、優花は呆れ顔で笑った。
「ありがとう、優花。すっげー嬉しい」
竜は照れくさそうに、クシャっとした笑顔を見せた。それを見ていたら、早起きして少しイライラしていた気持ちがすっと収まってしまった。これだけ素直に喜ばれると、悪い気はしないものだ。
「写真撮っちゃお。記念」
と、竜はスマホを取り出してパシャッと弁当を写した。
「待ち受けにしよっかな」
「バカじゃないの」
そんなこんなで、竜は朝ごはん中もうきうきした様子で、そのテンションのまま会社に向かった。
(あのテンションで今頃お弁当食べているのかな)
そんな竜の姿が思い浮かび、おかしくなって思わずちょっと口元が緩んでしまった。
「どうしたの? 楽しそうだね」
隣に長谷部がいたことを急に思い出し、優花は慌てて首を振った。
「何でもないです」
それからも、優花はできるだけ一年生グループのほうと一緒に話そうと顔をそちらに向けていたが、ちょこちょこと長谷部は話しかけてきた。時に宮瀬も交えて絡んできた。リーダーと一緒に一年生に絡んでいる、とも思えたし、優花に話しかけてきている、とも感じた。現に、ちょっとずつだが、長谷部は優花との距離を詰め始めている。そのたびに、優花は少しずつ百合のほうに寄るのだが、限度がある。
(どうしよう。困った)
優花がうつむいたときだった。「あ」と河井が声をあげたのだ。
「宮瀬先輩、長谷部先輩。あっちで二年生の先輩たちがかまってほしそうに見てます」
河井は小声で長谷部たちに話しかけた。
「ここはバランスよく声をかけたほうが、チームワークにつながるんじゃないですか」
その言葉に、宮瀬は「おお」と感嘆の声を漏らした。長谷部は、一瞬だけ眉をひそめたが、そのあとにこやかに「なるほど」とうなずいた。
「確かにその通りだ。偉いぞ、一年生。長谷部。ちょっと行って来よう」
宮瀬は長谷部を引き連れて二年生グループのほうへ行ってしまった。ほうっと思わずため息が出た。知らず知らずに息をするのも我慢していたらしく、急に息苦しくなった。
「大丈夫? 橘さん」
河井が気づかわしそうに小声で声をかけてきた。
「あの長谷部先輩って、俺たちと同じ中学だったんだけど、すごい女泣かせで有名だったんだよ」
うんうん、と高山が激しく同意した。
「頭いいからさ、うまくその辺はやってたらしいけどね。橘さんも花崎さんも気をつけてね」
「ええ? 私も?」
百合が素っ頓狂な声をあげた。
「私はありえないよ。優花はまあ……わかるけど」
「なに謙遜しちゃってるの、花崎さん」
ちっちっちっと人差し指をキザに振って、河井は恵比須スマイルを全開にした。
「知らないだろうけど、うちのクラスの男子の間では秘かに評判なんだよ。橘さんと花崎さんがうちのクラスの女子のツートップだって。結構人気は割れてるんだからね。最近二人が一緒にいるから、特にだよ。俺たち、同じグループになったら、かなりやっかまれたんだから」
えええ? と優花と百合は顔を見合わせた。
「ちなみに、俺は花崎さん派。史寛は橘さん派」
事も無げに河井は言った。高山は顔から耳から首まで真っ赤にしてうつむいてしまった。優花と百合は開いた口がふさがらなかった。
「あ、付き合いたいとかそういうんじゃないよ。ファンクラブみたいに思っててよ。俺たちは橘さんと花崎さんの味方だし、いざとなったら二人を助けてあげるから、大丈夫だよ」
「あ……」
優花は気づいた。今、優花が長谷部に困っていたから、河井は助け舟を出してくれたのだ。うまく離れていくように、宮瀬までもうまく利用して。
「ありがとう」
小さな声でお礼を言った。河井は相変わらずの恵比須スマイルで、高山ははにかみながらうなずいた。そして意を決したかのようにまた高山が力を込めてこう言った。
「だから、やっぱり天文部入りませんか」
「だからってなんだよ。文法がおかしいだろ」
痛烈な河井の突込みが、再び高山の背中にヒットした。痛がる高山を見ながら優花と百合は肩をすくめつつ、思わず声を立てて笑ってしまった。
(男の子だけど、この二人なら一緒にいて楽しいな)
気が楽だというべきか。優花は肩の力が抜けているのを感じた。河井が言った「味方」という言葉は、思いのほか優花の心にとどめられた。一人ずつ、味方が増えている。友だちが増えていく。中学の時からは考えられなかった変化が、徐々に起こっている。入学当初は憂うつでしかたなかった高校生活も、今なら楽しいことがたくさん思い描ける気がした。