竜のファインプレー
優花の涙が落ち着くのを待っていると、あっという間に昼休みの終わりの時間になってしまっていた。お昼ご飯も食べていない、優花も目が真っ赤でとても人前に出られる状態ではない、百合も話が終わっていない。そんなわけで、二人はそのまま五限目の授業をさぼることにした。授業をさぼるという行為を考えてみたこともなかった優花は、ちょっとドキドキしていた。それは百合も同じらしかったが「もし見つかっても、優花と一緒に怒られるならいいや」とおどけて笑っていた。案外、百合のほうが度胸があるかもしれなかった。
並んでお弁当を食べながら、百合はぽつぽつと連休明けからの出来事を話してくれた。
「朝、普通に登校してたら、あの子たちが突然話しかけてきてね……」
そして聞いたのだ。優花の中学時代のうわさ話を。その話を自分の中でどう処理してよいかわからないまま学校に着き、優花に会ってもぎくしゃくした態度しか取れなかった。そうしている間に、またクラスメイト達が追い打ちをかけるようにまた違う話を吹き込んできて、何が本当なのかわからなくなってきたという。
「優花も、何か気づいてるみたいに、私と自然と距離を取っちゃったし、やっぱり本当なのかもとか、思い始めちゃって、でも信じられなくて……。悩んだまま、いつもの公園に行ったら、竜に会ったの」
すると、百合は気まずそうに苦笑いをした。
「竜に悩んでいること話したら、怒られちゃって」
「怒られた? 竜に?」
優花は信じられずに聞き返してしまった。竜はそんなこと一言も言っていなかった。教えないとはぐらかされただけだ。
「うん。あのね」
百合は、その時のことを細かく語った。
・・・・・・・・
その日も、百合は優花が何も言わずさっさと帰ってしまったのを、悲しい気持ちで見送っていた。例の女子たちが「一緒に帰ろう」と誘ってきたけれど、百合はやんわり断ってひとりで学校を出た。でも家に帰る気にならず、優花といつも話していたベンチにやってきて、一人でため息をついていた。
「あー。百合」
顔をあげると、明るい笑顔で手を振っている竜がいた。竜は百合の近くまで来ると、きょろきょろと辺りを見回して怪訝な表情になった。
「優花は?」
答えられずにいると、竜は百合の隣に座った。
「けんかでもした?」
竜の問いに、百合はふるふると弱々しく首を横に振った。
「へえ。優花もここのところ元気がない感じだからさ。けんかでもしたのかと思ってたんだけど」
そうか、優花も元気がないのか。と、百合の胸がチクチクと痛んだ。
「俺でよかったら話聞くけど」
え? と百合はちらりと竜を見た。竜は人の好さそうな笑顔で百合を見ていた。
「大丈夫。優花には何も話さないよ」
本当かな、とちょっと心配になったが、百合は話すことにした。このことを誰にも聞いてもらえず、もやもやしていたせいもあったのだろう。百合はここ数日あった出来事を話した。
「あのね、優花と同じ中学だった子から聞いたんだけど……。竜は知ってる?」
「なにを?」
「優花の……いろんな話」
「いろんな話って? 例えば?」
「例えば……」
話しながら、クラスメイトの子たちの声や表情がよみがえってきた。彼女たちは、楽しげにこう言ったのだ。
『橘さんて、中学の時いろいろ男子のことであったんだよ。例えばね、人の彼氏を捕って、すぐに振っちゃったことがあったの。一回だけじゃないのよ。もう何回も。何人の男子や女子が泣いたかわからない。でもあの顔でしょ? 男子って美人に弱いから、すぐに騙されちゃうのよ。だから、花崎さんも好きな男子がいるなら気を付けたほうがいい。橘さん、人の彼氏だと思うと奪いたくなっちゃうみたいだから。花崎さんに近づいたのだって、きっと新しい男が周りにいないかリサーチするためなのよ。新しい環境で、新しいターゲットをね。だから、ほんとに気を付けたほうがいいよ』
登校しているときに話されたのは、まずこれだった。それから、休み時間、昼休みと、いろいろ話された。
「何て言われたの?」
竜の声色が少しきつくなった。でも、百合はもう吐き出したくて仕方がなかったので、かまわず続けた。
「優花の家は、親がいないから……夕方はいろんな男の人を連れ込んでいるとか……。先生にも成績をよくしてもらうために色目つかっているとか。実は援助交際してるとか……駅前で知らないおじさんと一緒にいるの見たことがあるって……」
「それでさあ」
突然、竜がイライラした声を発したので、百合はびくっとなって口をつぐんだ。
「百合はそれを聞いてどう思ったわけ?」
「どうって……それは、まさか、そんなバカなって……」
と、竜が冷たい視線を投げつけてきた。知らぬうちに背筋に悪寒が走った。百合が知っている竜は、明るくて、調子が良くて、少年みたいに無邪気な笑顔をしている。でも、今の竜はまるで苛立ちを隠していない。
「そんなバカなって思うなら、なんで優花と一緒にいないんだよ。別にいつも通りにしていればいい話だろ」
「それは……」
なぜ一緒にいないのだろう。竜の言うとおりだ。どうしていつも通りにしていられなかったのだろう。
答えないでいると、竜が盛大なため息をついた。
「俺が教えてやろうか? 百合はその話を信じてるんだよ。だから一緒にいられないんだ」
「そんな……」
否定しようとしたが、あっさりと竜にさえぎられた。
「いいや。そうだね。そうでなかったら、優花と今ここに一緒にいるはずだよ。そんなバカな。うそだって思いながら、優花ならあり得るって考えているんだよ」
違う。そんなことない。はっきりと言いたかったが、なぜか言葉にならなかった。竜の一言一言は、いちいち百合の心にぐさぐさと突き刺さっていった。
(私、あり得ることだなんて、思っていたの……?)
自分でも顔が青くなっていくのが分かった。そして、考えれば考えるほど、竜の言うとおりだと思えてきた。自分は、優花を信じたいと思う一方で、何か確かめるということもせず、ただその話を鵜吞みにしていたのではなかったのではないか。
黙り込んでしまった百合を見て、竜はまたため息をついた。今度は小さかった。
「よく考えなよ。そのクラスメイトと、優花と、どっちが信じられるかってさ」
竜はぱっと立ち上がると、素早く自転車にまたがった。
「じゃ、俺会社に戻るから。またな」
竜はにかっと白い歯を見せて笑った。え、と思う間もなく、竜は颯爽と自転車をこいで去って行ってしまった。そうして取り残された百合は、しばらく呆然としていたのだったが、やがて腹を決めた。
・・・・・・・・
「竜が……」
優花は驚いてしまって、言葉が見つからなかった。
(教えないとか言って……こういうことだったの?)
昨日の竜の態度からは想像ができなかった。今朝も、いつも通りに優花をからかい、いつもの調子で言い合いをして出てきたのだ。まさか、百合にそんなことを言っているなんて、思ってもみなかった。
「竜に怒られて、自分のバカさ加減に気づいたの。優花にすごく悪いことしてるって。だから、早く謝らなきゃって……。ホントにごめんね。優花はそんなことする人じゃないって、わかってたはずなのに」
何度目のごめんねだろう。優花は小さく微笑んで首を振った。
「いいの、もう。私も……ごめん。百合はもう離れていって戻ってこないと思ってた。私も百合のこと信じていなかったね」
中学の時の友だちのように、優花の話も聞かず離れて行ってしまうものだと思い込んでいた。でも違うのだ。ちゃんと話をしなかったから、離れて行ってしまったのだ。思っていることをちゃんと話せていたら、一人ぼっちでいることはなかったかもしれない。
百合も首を振って、照れくさそうに微笑んだ。
「そうだ。竜にあとでお礼言おう。こうしてちゃんと話そうと思えたのも、竜のおかげだもんね。偶然だけど、あそこを通ってくれてよかったあ」
「あ……そう、だね」
百合の言う通り、こうやって丸く収まっているのは竜のおかげなのだ。竜がいなかったら、今でも優花は一人でお昼ご飯を食べて、一人で寂しく家に帰っていたのかもしれないのだ。
(まさか、竜が昨日公園を通ったのって、偶然じゃないとか……)
優花の元気がないことを悟って、原因が百合だと見当をつけて、わざと公園の前を通ったのではないだろうか。何となくそんな気がしてきた。考えれば考えるほど、そんな気しかしてこなかった。しかし、本人に問い詰めたところで白状しないだろう。偶然だと言い張るに違いない。容易に想像できた。
「今度また一緒にクッキー作ろう。竜も一緒に」
ニコニコと百合が言ったところで、五限目終了の鐘がなった。とうとう一時間も話し込んでしまっていたのだった。二人は休み時間の人の流れの中に入り込み、六限目は普通にちゃっかり授業を受けた。特に何も言われることなく帰りのホームルームになり、優花と百合は以前のように一緒に教室を出た。少しあのクラスメイト達からの嫌な視線を感じたが、気にならなかった。
(きっと、大丈夫。一人じゃないってわかったから)
今、心強い味方がいるのがわかった。百合。兄の数馬と義姉の佳代。そして。
(悔しいけど、あいつもか)
にかっと白い歯を見せて笑う竜の顔が心に浮かんだ。優花はこっそり苦笑いした。
(仕方ない。竜の好きなものを夕飯にしてあげよう)
竜が好きなメニューはハンバーグとカレーといった、小学生が好きそうなものだ。どちらにしようかなと考えながら、百合とおしゃべりして帰る道は、とても安らいで、幸せな時間だった。