百合の誤解
ゴールデンウィークになったが、優花は特に予定もなく、基本的には家にいた。家事をして、買い物に行って、ちょっと数馬たちと外食したくらいだった。百合はもともと両親と旅行の予定が入っていたとかで、連休中に会う約束はできなかった。でも、連休が明けてしばらくしたら、強歩大会がある。百合がいれば、知らない人がたくさんいるグループであってもなんとかやり切れるのではないかと思っていた。
そして連休明け初日。優花はいつも通り登校した。自分の荷物をロッカーにしまって、ちょうど立ち上がったとき、廊下の向こうから百合が歩いてくるのが見えた。少しうつむき加減で、おさげ髪が下に小さく揺れている。
「百合、おはよう」
優花は明るくあいさつした。ところが。
「あ、お、おはよう……」
百合は目も合わせず、足早に優花の横を通り過ぎた。あからさまにおかしな態度の百合にあっけにとられていると、今度はクラスの女子が二、三人まとまって廊下の向こうから歩いてきた。その中に、優花と同じ中学出身の子がいた。彼女は優花と目が合うと、小さく鼻で笑った。
「教えてあげたのよ。感謝してね。友だちなら本当のことも知らなきゃダメでしょ」
すれ違いざまに、彼女は小さな声で優花に耳打ちした。そして横にいた友達とくすくす笑いあいながら教室に入っていった。
(……まさか)
彼女は百合に何か言ったのではないだろうか。優花の、中学の時に流れていた根も葉もないうわさ話。
優花は教室に入った。百合はのろのろとした手つきで教科書を机にしまっていた。そこに、先ほどの女子たちが百合を楽しげに囲んだ。百合は困った顔でうつむいた。女子たちは何か一言二言を百合に言って、自分たちの席に散っていった。百合はうつむいたまま自分の席に座った。周りを見ようともせず、優花のほうを見ようともせず、ただそのままうつむいていた。
(百合も……信じたのか)
優花も一人で静かに自分の席に座った。そのまま、朝のホームルームを迎え、休み時間もお昼休みも、以前のように一人で過ごした。百合は引っ張られるように先ほどの女子たちの輪の中に入っていたが、ずっとうつむいたままでいた。一度だけ優花と目が合ったが、すぐにそらされてしまった。
(そっか。また、離れて行っちゃったのか)
帰りのホームルームの後、優花は百合に話しかけもせず、以前のようにさっさと教室を出て行った。それを百合が悲しげに見送っていることなど、知る由もなかった。
・・・・・・・・
「なあ。優花」
優花がまた一人きりで過ごすようになってから三日が経っていたころ。優花が夕飯の用意をしているところに、突然真面目なトーンで竜が話しかけてきた。
「最近、元気ないよな」
どきりとして、一瞬手が止まる。でも、すぐに素知らぬ顔で準備を続けた。
「別に。そんなことないよ」
「いや。そんなことあるだろ。百合の話もしないしさ」
「だって別に……あんたに話すことなんかないから」
「ふうん」
意外にも竜は食い下がってこなかった。優花は少し不思議に思いながら、これ以上突っ込まれないことに安堵した。それから優花は黙々といつもの通りに野菜を刻み、スープの味を調え、魚の焼き加減を確認した。竜もその間ずっと黙っていたのだが、ついにまた話しかけてきた。
「なあ、優花」
いったい何なのだろうか。優花は返事をしないで、ひたすら準備に集中することにした。
「聞いてると思うから言うけどさ」
竜はお構いなしに話し続けるつもりのようだった。それでも振り向かないで優花は作業を淡々と続ける。
「百合は、いい子だよな」
何を急に。優花はまた返事をしなかった。今はあまり百合のことは考えたくない。まもなくある強歩大会も今は憂鬱でしかたない。いっそのこと休んでしまおうかと思ったが、そうなるとほとんど話したこともないクラスの男子二人と、全く知らない上級生とのグループの中に百合がぽつんと一人でいることになり、それはとても可哀想だと思えた。一緒にいたところで、どうせ話などしないのだろうけれど。
「あの子、すごく悩んでるみたいだったぞ」
え? と優花は思わず竜を振り返ってしまった。
「なんで知ってるのよ、そんなこと」
「んー。会ったから。今日、公園で」
公園で? 特に声を出して聞いたわけではなかったが「そうなんだよ」と竜は大きくうなずいた。
「何か話したの……?」
尋ねずにはいられなかった。考えたくなくても、実は気になって仕方なかったのだ。百合が何を考えているのかを。
竜はしばらく思案顔だったが、突如にやっと笑った。
「教えなーい」
「……は?」
思い切り眉をひそめてしまった。一体全体何なのだ。わけがわからない。
「自分でちゃんと話しなよ。百合は友だちだろ?」
友だち。そう呼んでいいものかわからなかった。連休前ならそう呼んでいたかもしれない。でも今は、関係が変わってしまっている。結局、上辺だけの友だちだったのかもしれないと思い始めていた。
「大丈夫だよ。俺を信じて。百合は本当にいい子だよ」
そうやって抽象的な言葉を繰り返すだけで、竜は詳しく語ってくれなかった。
もやもやしたまま就寝時間になった。さっさと寝ようと電気を消した時、スマホがチロリンとかわいい音を立てて一瞬光った。メッセージが来た合図だった。
(こんな時間に……)
迷惑メールだと思った。そうでなければ竜が嫌がらせで送ってきているのだ。他に優花にメッセージを送るような相手が思い当たらない。さっさと消してしまおうと画面を見て、優花は目を丸くした。メッセージの相手は、百合だった。
明日、お昼休みに話しませんか?
一言だけ書かれていた。何かの罠じゃないかと、不安になった。百合の後ろにはあの女子たちがいる。百合をつかって、何かしようというつもりではないかと疑っていた。
(でも、百合はそんなことするだろうか)
ふと、竜がしきりに「百合はいい子だよ」と繰り返していたのを思い出した。そんなの、竜に言われなくても優花がよく知っている。
考えに考えた末に、優花は「いいよ」と一言だけ返した。するとすぐに「ありがとう。それじゃ、中庭で待ってます。おやすみ」と返ってきた。再び「おやすみ」とだけ書いて送った。
(話……か)
いつの間にか、竜が「話をしろ」と言っていた流れになっていることに気づいた。もしかして、竜が百合に何か話したから、こんなメッセージが届いたのだろうか。竜はいったい何を話したのだろう。
優花は少し不安を覚えつつ、明日が来るのを待った。
そしてお昼休みになって。優花はお弁当を持って中庭に出た。中庭はお弁当を食べる生徒たちの人気の場所だ。ベンチや、花壇の石段のところに腰掛けたり、中にはレジャーシートを持ち込んでピクニック気分で食べている生徒もいる。今日は天気もいいので、さらに人が多いように思えた。
百合の姿を探す。生徒たちの輪の端のほうに、百合が校舎の壁に背を預けて待っているのを見つけた。優花は恐る恐る百合に近づいた。百合も優花に気づいて向き直った。高々三日四日話していないだけなのに、二人は妙なほどよそよそしくなってしまっていた。
「話って?」
優花は小さな声で尋ねた。百合は困ったように目を伏せて、持っていたお弁当の包みをぎゅっと握った。
「ここだと人が多いから、場所変えようか」
百合はそう言って、こっちだと優花を案内した。二人がやってきたのは裏庭の木の下だった。こちらは日当たりが良くないためか、人気がなく、昼休みの騒めきは遠かった。初夏の空気も、ここだけは少しじめっとして冷たく感じられた。
百合はしばらく手に持っているお弁当の包みをぎゅっと握りしめたまま背を向けて立っていた。優花は特に話しかけもせず、ただ百合が何かを話すのを待っていた。
(……自分で話しな、か)
ふと、昨夜の竜の言葉が思い浮かんだ。待っているだけではだめなのかもしれない。百合と本当に友だちでいたいのなら、自分から尋ねなければならないのかもしれない。どうして、急に態度が変わってしまったのか。どんなうわさ話を吹き込まれたのか。そして一番の問題は、百合がどう思っているかなのだ。こうして呼び出されたのは、きっとそのうわさ話を確かめるためのだろう。
(確かめて、どうするつもりなのだろう)
嘘だと言ったところで、信じてもらえるのだろうか。どうせ離れていくだけの結果になるのではないだろうか。そう思うと、優花は怖くて結局何も尋ねられなかった。
「優花」
突然、百合が思いつめた表情で振り返った。びっくりして、優花は思わずびくりと体を震わせた。
「あの、あの」
百合はぎゅっと目をつぶったかと思うと、勢いよく深々と頭を下げた。
「ごめんなさいっ」
垂れ下がった百合のおさげが、小さく早く揺れていた。百合は頭を下げたままさらに強くお弁当の包みを握った。
「急に、おかしな態度とって、本当にごめんなさい」
この状況に頭がついていかず、優花はぽかんとしていた。百合はまだ頭をあげない。おさげの揺れが止まったとき、ようやっと謝罪されているのだと気づき、優花はうろたえた。
「ま、待って……。百合、顔をあげて」
てっきり、うわさを確かめられるのだと思い込んでいたので、いきなりの謝罪が理解できなかった。恐る恐る顔を上げた百合は、今にも泣きそうに目を潤ませていた。
「ごめんね、優花。私がばかだった。誰を信じるか、よく考えればわかるのに」
「信じるって……?」
「優花を信じなきゃいけないのに。良く確かめもしないで優花と距離を置いちゃうなんて。本当にばかだった。もうあの人たちと一緒にいない。私はまた優花と一緒にお弁当食べたり、おしゃべりしたい。本当にごめんなさい。だから……」
「百合。ちょっと、ストップ」
百合の勢いに飲まれそうになって、優花は面食らいながらも慌てて言葉を挟んだ。
(そうだった。百合は勢いづくと止まらないんだ)
一瞬、二人の間に沈黙が下りた。さあっと頭上の若葉が風に揺られて優しい音を立てた。百合と優花の髪もそよそよとゆるく揺れた。
「あの……百合。私と、一緒にいていいの……?」
優花の言葉に、百合は目を丸くした。そして、大きく何度も頷いた。
「もちろん! むしろ、それは私が聞きたい。嫌な態度取っちゃったけど、もし優花が許してくれるなら、私は一緒にいたいよ」
また風が、今度は先ほどより強めに吹いた。二人の髪を大きく揺らして、包むように空へ舞いあがった。そして、優花の左の瞳からぽろりと涙が一粒落ちた。
「え、え? 優花?」
百合があたふたと慌て始めた。それを見ていたら、右の瞳から、また左の瞳からと涙が次々に零れ落ちていった。優花は慌ててそれをぬぐったが、止まらなかった。どうしようもなくて、優花は両手で顔を覆うと、そのまましゃがみこんでしまった。
「大丈夫? 優花? 優花?」
百合も隣にしゃがみこんで、優花の背中をさすった。それが温かくて、ますます涙があふれてきた。
「優花。大丈夫?」
何度も何度も百合が尋ねてきた。優花は頷くのが精いっぱいで、何も言葉にならなかった。今あふれているこの感情を、なんと表せばいいのかわからなかった。一つだけ解かるのは、この涙は百合の手のように温かいということだけだった。