百合の部屋
それからおよそ三十分後。優花は百合の家の前にいた。正確には「花崎医院」の看板の前にいる。百合の父親が経営する病院と、花崎家が普段住まう家は同じ敷地内にあって、中でつながっているという。
「あ、優花。ここ停めていいよ」
家のほうから出てきた百合が指し示したのは、病院の小さな駐輪場だった。今は診療時間外なので、一台も止まっていなかった。
「大丈夫なの?」
「自転車で来る人、少ないから。ほら、発熱してる人が自転車なんかで来たら危ないじゃない」
今朝の竜のような人が自転車で一人来る事を想像して、確かに、と納得する。花崎医院は内科・小児科なので、特に自転車で来る人は少ないのかもしれなかった。
優花は百合に案内されて、玄関の扉をくぐった。すると、白衣を着た男女二人がにこやかに出迎えてくれた。
「初めまして。百合の母です」
そう言って微笑む姿が、ふわっとした百合の雰囲気に重なった。
(似てるなあ)
親子だから似ていて当然なのかもしれないが、同じような空気をまとう人が同じ場所にいて、何だか不思議な気分になった。
「優花さんのことは百合からよく聞いてますよ。ホントに可愛らしいお嬢さんね」
母親の言葉に、でしょ? となぜか得意げに胸を張る百合。優花の何をどんなふうに母親に説明しているのだろうか、と優花は曖昧に微笑みながらちょっと不安だった。
「百合の父です。今日はようこそいらっしゃいました」
柔らかく上品な物腰で、百合の父親が軽く会釈をした。こちらもまた、どこというわけでもなく百合に似ている。こんな穏やかな空気感の中で百合が生まれ育ったのだと思うと、妙に感慨深くなった。
「じゃあ、お母さんたちはもう出かけるけど、ちゃんとおもてなしするのよ」
「うん、わかってるよ」
百合がしっかりうなずくのを見届けて、百合の父母は「ゆっくりしていってね」と優花に告げて去って行った。
「これから患者さんの家に定期診療に行くんだよ」
二階にある百合の部屋に向かう途中で説明してくれた。午前の診療が終わったあと、近所への診療に回り、また午後の診療があるという。
「やっぱり忙しいんだね、お医者さんは」
「そうだねえ。午前診療が長引いて、診療先に行きながらおにぎりかじってたりすることもあるんだよ」
階段を上がりきったところに。柵が立っていた。その柵のすぐそばに、茶色と黒色ののトイプードル二匹が短い尻尾を素早く振って待っていた。キラキラした瞳が、百合に向けられている。
「優花、動物大丈夫だっけ?」
「大丈夫……だと思う。飼ったことないから、わかんないけど」
犬が出ないようにしながら百合が柵を開ける。優花はその隙間に滑り込むようにして入った。犬たちは百合の足にじゃれついたり飛び跳ねたりして、遊んでくれとねだっているようだった。
「こっちがブラウンで、こっちがブラックっていう名前なんだ」
犬の頭を撫でながら百合が言う。茶色のほうがブラウンで、黒色のほうがブラック。
「見たままなんだね?」
「お父さんのネーミングセンス、ちょっとアレなんだけど、まあ、わかりやすいでしょ」
「シロとかクロとか名付けることもあるもんね」
ブラウンとブラックは、百合にじゃれつきつつも優花のほうをチラチラと見ていた。誰? 誰? 誰なの? という興味津々な瞳をしている。
「この子たち、結構おじいちゃんおばあちゃんなんだ。私が幼稚園の時から飼い始めたから。でも、まだまだ元気」
ということは、犬たちは十歳くらいの歳だということだ。動物を飼ったことがない優花でも、犬の十歳が年寄りの部類に入ることを知っている。
「人なつっこいから、優花とも遊びたいみたい」
百合がそう言うのを待っていたかのように、ブラックのほうがとことこと優花のほうに歩み寄ってきた。手をちょっと近づけてみて、と百合が促すので、おそるおそる手を伸ばす。ブラックはくんくんと小さな鼻で匂いを嗅ぐと、ペロッとひとなめした。不思議な感覚に、思わずぎょっとなる。
「大丈夫。仲良くなれそうだよ」
その言葉に半信半疑になりながら、優花はブラックの頭を人差し指でそっと撫でた。ブラックは尻尾を振りながら優花が撫でるに任せている。どうやら本当に大丈夫らしい。同じようなことをブラウンでもやった。これで犬へのあいさつが完了したということのようだ。
しばらく二匹を撫でてやってから、百合は優花を自分の部屋へと案内した。百合がドアを開けても、二匹は入らなかった。お座りして廊下のところで待っている。
「こっちは入っちゃダメってしつけてあるの。賢いから、絶対入ってこないよ」
「百合が部屋にいる間、この子たちどうしてるの?」
「二匹で遊んでたり、寝たりしてるよ。あとで一緒に遊んであげようか」
犬と遊ぶって、どうやるんだろう。猫なら猫じゃらしが思い浮かぶけど、犬は……ボールを投げたりとか? でも室内だし……?
優花は密かに首をひねった。が、考えてわかるはずもない。そのときが来ればわかるだろう、と開き直ることにした。
犬を触ったあとだから、と百合がウェットティッシュを渡してくれた。触った感じは全く汚れているように見えなかったし、むしろきれいな毛並みだと思ったけれど、そこはちゃんと線引きしているらしい。
「じゃ、ここ座って」
百合は床に敷かれた座布団を指す。いや。座布団なんて言い方は似合わない、パステルピンクのカバーをつけた丸くて可愛らしいクッションだ。
改めて部屋を見回すと、百合らしいという言葉がぴったりな部屋だった。白を基調とした壁紙、机やベッドも基本は白い。布団はパステルパープル。クローゼットの扉はやはりパステルピンク。床に敷かれたナチュラルブラウン色の絨毯は少しふわふわしていて、このまま寝転んでも気持ちよさそうだと思う。座った優花の目の前にはパステルピンクの小さなテーブル。そこに上品そうなクッキーが、ちょっと高価そうなお皿の上にきれいに並べられていた。
「紅茶入れるね」
百合が保温ポットからお湯をティーポットに注ぐ。しばらく蒸らしてから、これまたちょっと高価そうなティーカップに、手慣れた様子でお茶を注いでいく。
(やっぱり、お嬢様なんだなあ)
お金持ちな雰囲気に、ちょっとドキドキしてしまう。紅茶一つにしても、茶葉から煎れるのと、ティーバッグを使うのでは全然違う。
「どうぞ」
カチャリと小さな音を立ててソーサーとともに紅茶が優花の目の前に置かれた。透き通った赤いお茶から、優しい湯気が立ち上っている。ふわっとさわやかなお茶の香りが鼻に届いた。
二人で「いただきます」と言って、一緒にカップに口をつける。じんわりとした温かさがお腹の中に広がってほっとする。ふうっとため息をつくと、百合も同時に息を吐いた。息が合いすぎて、思わず笑ってしまった。
「さてさて、どこから話してもらおうかなあ」
ちょっとおどけた感じで百合が微笑む。空気が堅くならないように気を遣ってくれているのだ。それをありがたく思いながら、優花は時系列に話し始めた。
「なるほど……つまりはこういうことだ」
百合は神妙な表情をしてから、紅茶を一口飲んだ。そして静かにカップをソーサーに下ろす。
「優花が迂闊にも誰もいない家に先輩を招き入れちゃって、ちょっと事案が発生しそうになったけど、たまたま熱で早退してきた竜が助けてくれて、それはいったんはおさまったけど先輩とは何となく気まずい感じで、今度は熱でネガティブモードになってた竜の言った言葉に引っかかった優花が、うっかり口をすべらせて告白しちゃったと」
「迂闊……事案……うっかり……ハイ、そのとおりです」
昨日の出来事が素晴らしいダイジェストになった。優花は改めて自分の情けなさを突きつけられた気がして、思わず縮こまる。
「まあ、私も人のこと言えないんだけどね」
ぺろっと小さく舌を出して百合がいたずらっぽく笑った。百合が言っているのは、無警戒に圭輔しかいない家に行ったときのことだろう。でも、百合と圭輔は幼なじみで、昔から圭輔の家に寄ることが普通だったのだ。無警戒というよりも、いつも通りの行動だったはずがいつも通りではなくなってしまったのだ。
「百合とは状況がちがうよ。私が考えなしで……」
優花が否定するのを、百合は首を横に振って遮った。
「考えなしは、私も同じ。よく考えれば、わかることだったの。思い返せば、圭輔のほうはちょっとずつ変化してたんだよ。私だけが、幼い頃の感覚のまま変わらなくて、気づけなかった。だから、私も変わらなければいけないんだなって、最近やっとわかってきた」
そう言う百合が、少し大人びて見えた。きっと、百合がこれまでちゃんと考えてきたからだ。一歩先に行かれた気がして、ちょっと寂しくなった。
「それにしても、どれもこれも今はどうしようもなさそうだね。先輩との気まずさは、時間が経たないとなかなか解消しないだろうし、竜とのことは、竜の体調が元に戻らないことには返事が聞けないしね」
「返事は……聞かなくてもわかる」
え? と百合が首をかしげた。優花は、思わず目を伏せた。
「竜は、そんなこと言われても困るって、思ってる」
はっきり言われたわけではないけれど、何となく態度で察している。今は高熱が出ていて、うやむやになっているだけなのだ。
「そうなのかなあ? 前も言ったけど、竜は優花のこと好きだと思うんだよね」
百合は真面目な表情をして優花を見つめた。
「私、そんなにたくさん竜と会ったことがあるわけじゃないけど、竜は優花のこと大事にしてるなあって思ったんだ。なんだかんだ言って、最後まで優花の味方っていうか」
「それは、私も感じるけど……そういう『好き』とは違うよ。お世話になっている家の妹だからって、義理堅く思ってるだけだよ」
行くあてのなかった竜を、他人同然である橘家が受け入れた。竜が橘家に恩義を感じるのはある意味当然であって、自分はたまたまその家の人間だっただけで、自分が「橘優花」でなかったならば、そんな義理堅い感情ですら持ってくれなかったのだ。
「それだけじゃないと思うんだけどなあ……」
「ううん。それだけだよ」
優花がきっぱりと言い切ったせいか、百合はそれ以上言い募ることはしなかった。
(それだけじゃないって言葉に、浮かれちゃいけない。期待しちゃいけない)
竜の背中を思い出す。あれは、確かにはっきりとした拒絶だった。優花を踏み入らせない空気を放っていた。
だから、期待できる余地など、何もないのだ。
「じゃあ、優花の言うとおり、竜が断ってきたとして。そのあとはどうするの?」
「そのあと……?」
優花は首をかしげた。
「何事もなかったかのように、そのままでいられる? 再アプローチするつもりある?」
百合の言葉を頭の中で繰り返して、ざっと血の気が引いた。
「……何にも考えてなかった」
どうしようどうしようと思い悩むだけで、これからどうするなんて一つも思い浮かんでいなかった。
竜が復活してきて、冷静に物事が見られるようになったとき、自分はどうすべきなのだろう。
「さ、再アプローチはない」
辛うじてその答えだけは出た。そもそも、アプローチした事なんて一度もないし、しようと思ったこともない。
「私、別に竜と付き合いたいとか、そういうこと考えたことなかったし……」
「でも、好きなんでしょ?」
優花は思わず「うーん」と唸ってしまった。そして、思いつくまま言葉を並べてみた。
「好きっていうのと、付き合うっていうのが、うまく結びつかないっていう感じ……? というか、付き合うって、何するの?」
考えれば考えるほど、わからなくなってきた。漠然としたイメージはあるけれど、結局どういうことなのかがわからない。何を以て「付き合う」になるのだろう――。
「眉間にしわ寄ってるよ」
思考の渦にはまりかけたとき、百合が人差し指で優花の額をトンと軽く小突いた。
「優花の悪い癖。考えすぎだよ。って、私が質問したせいかもしれないけど」
百合は一口お茶を飲むと「私が思うにね」と前置きを付けてから言った。
「その人のことが好きなら、ずっと一緒にいたいとか、もっと話がしたいとか、いろんなことが知りたいとか思うじゃない? それが自分だけじゃなくて、お互いでそう思ってるわけでしょ? そうすると、自然と一緒にいる時間や話す時間が増えるよね? それが『付き合う』なんじゃないかなあ?」
優花は自分の胸に手を当てて、心の中の自分に問いかけた。
竜とずっと一緒にいたい? もっと話がしたい? いろんなことが知りたい?
問いかけたら、すぐに答えが返ってきた。
「そう思うことが、好きってことで、付き合いたいってことだ……」
ぽとんと言葉がこぼれ落ちた。
今、優花の中で「好き」という感情と「付き合いたい」ということが自然と結びついた。同時に、空しいことにも気づいた。
「それを、片っぽだけで思ってるから、片思いなんだよね」
どんなに強く思っていたとしても、がんばって手を伸ばしたとしても、それは一方通行で、決して自分の思うとおりにならない。もし相手も同じ感情を抱いてくれたなら、お互いに手を取り合えたなら、それは奇跡なのだ。
「優花がもし付き合いたいって思うなら、もしダメだったとしても再挑戦してみてもいいんじゃないかな? 今は一緒に住んでるわけだし、チャンスはあると思うんだよね」
百合は励ますように言った。再アプローチを勧めてきているのだ。優花は目を伏せ少し考えたが、力なく首を横に振った。
「私、今まで通りでいい。付き合うとかしなくていい」
「……なんで?」
少し非難がましい目をして百合が問う。優花はきつく目を閉じた。
「ホントに無意識だったんだもん。改めてアプローチとかするエネルギーがない。だったら、今まで通り、同じ家にただ一緒にいる関係でいい。付き合うとか付き合わないとか、そういうのは要らないから、今みたいに一緒にいられたら……」
「でも、竜はいつか出ていっちゃうでしょ?」
優花は目を開いてハッと顔を上げた。百合が、怒っているような悲しんでいるような瞳で優花を見つめていた。
「竜は、佳代さんのいとこで、やむを得ない事情で優花の家に住むことになった『他人』でしょ? ずっと優花の家にいるわけじゃないよね?」
「あ……」
頭の奥の方がすうっと冷たくなっていった。
今は、まるで家族のように一緒にいるけれど、竜はあくまで「居候」なのだ。優花の隣の部屋からいなくなる日が、いつかやってくる。成人したら? お金が貯まったら? そのタイミングはいつになるかわからないけれど、そんなに遠い未来の話ではないだろう。
「働いている人と、何の約束もなしに会うのって、難しいんだよ。圭輔と過ごしているとよくわかる。お互い、生活リズムが微妙に違うんだもん」
百合と圭輔が、頻繁に連絡を取り合って時間を合わせていることを、優花はよく知っている。その時間がなかなか合わないことがあって、苦労していることも。
「同じ学生でも、きっと難しい。同じクラスだったとしても、難しいと思う。それこそ、付き合っている状態でもないと……。毎日いつでも一緒にいられる、今の優花の環境のほうが特殊なんだよ」
帰る家が同じだから、いやでも毎日顔を合わせるし、話もする。でも、別の家に帰るならば、高校生の優花と働いている竜では、すれ違うことすら難しい。ちゃんと約束して会おうとしない限りは。
「……現状維持は無理じゃない?」
百合の問いに、優花は答えられなかった。百合の言うことが的確すぎて、図星すぎたのだ。
「そういった意味では、飯田さんの行動力はすごいよね。長谷部先輩と少しでも一緒にいたくて同じ高校を受験したりしてさ。好きすぎて、今回はちょっと変な方向に突っ走った感じはあるけど、先輩のことが好きで行動してるのは間違いないし」
そうなのだ。だから、優花は彼女の行動を責められないのだ。正しいとか正しくないとかそういうことではない。「好き」を原動力にしているその行動は、優花には無いもので、まぶしくも見えた。
「いつか竜が家から出て行っちゃう日に後悔しても遅いよ? 私、何でも協力するからね。仮にダメだったとしても、私がたくさん慰めてあげる。……あ、そうだ。そのときはケーキバイキング行こう!」
後半の提案に勢いがあって、優花は思わず吹き出した。
「百合が行きたいんでしょ?」
「そうだけど、そうじゃないの」
百合は少し口をとがらせたあと、優花の両手を包み込むように握った。
「辛いことのあとに楽しいことがあるってわかっていれば、行動できるかもしれないでしょ? だから、優花もがんばろう。やれるだけやってみよう」
百合のキラキラした瞳に見つめられ、反射的にうなずきそうになる。でも、優花はうつむいただけだった。がんばろうと思えるほど、今の優花には覚悟もエネルギーも足りなかった。せっかく百合が応援してくれているというのに。そう思うと、優花は余計に落ち込んでしまった。
「いいんだよ、優花のタイミングで」
優花の心の内など既に見透かしているというように、百合は微笑んだ。
「私はずっと優花の味方だよ。何でも協力するし、相談だっていつでも聞くよ。それに、竜からはっきり返事をもらったわけでもないんだから、簡単に諦めないで。……そうだ。うまくいったらケーキバイキングでお祝いしよう」
さも素晴らしい思いつきをしたかのように百合が言う。途中まで感動して泣きそうになっていたのに、優花は再び吹き出してしまった。
「結局、ケーキバイキング行くんだ」
「もちろん」
二人で声を出して笑い合う。それだけで、心にかかっていたもやが少し晴れた気がした。悩んでいるだけではない、ちゃんと笑える自分がいることにホッとしたのだった。