竜のうわごと
優花が家の中に入ると、いい匂いがただよってきた。キッチンのほうから、何かを炒める音がする。
「ただいまー」
リビングの戸を開けると、数馬がフライパンを動かしているところだった。
「いいタイミングで帰ってきたな」
そう言いながら数馬は火を消すと、手慣れた様子で炒飯を皿に盛り付けた。
「俺たちも、一時間くらい前に帰ってきたばっかりなんだ。病院、混んでてな」
橘家がかかりつけにしている病院は評判がいいのか、たいていは混んでいる。今は季節柄、患者が多くなりがちなのだろう。
「竜は、どうだったの?」
「いわゆるただの風邪だ。インフルとかじゃなくて、まだ良かったよ。体調が悪いのに無理しすぎてこじらせたんだな。気休めに薬はもらってるけど、とにかく休養を取れって言われたよ」
「今はどうしてるの?」
「帰ってきたあと、昨日の雑炊の残りを少し食べて、薬飲んで寝てる。熱は相変わらず高いままだから」
「そっか……」
となると、竜はしばらくの間、仕事を休むことになるのだろう。竜が家にずっといる。優花は学校から早く帰ってくる。自然と、ずっと二人で家で過ごすことになる。その状況に、耐えられるだろうか……。
それを今考えても仕方がないので、着替えるためにいったん部屋から出ようとした。すると。
「様子見に行くのはいいけど、長居するなよ」
兄は念を押すのを忘れていなかった。
「わかってるってば」
苦笑いをして、優花は二階へ上がる。
(様子……見る?)
自分の部屋のドアを開けながら、隣のドアを見る。一瞬迷って、とりあえず着替えることにした。のろのろ着替えながら、無意識に竜の部屋のほうの壁を見る。また少し考えて、部屋から出る。階段の方に行こうか、竜の部屋へ行こうか、悩む。
(……気になるなら、行くしかない)
優花は覚悟を決め、竜の部屋のドアを静かにノックした。
反応を待ったが、何もない。きっと寝ているのだろうと判断して、音をできるだけ立てないようにドアを開けた。
カーテンが閉められているので、中は薄暗い。ベッドのほうを見ると、竜は目を閉じて眠っている様子だった。少し呼吸が浅い。数馬の言うとおり、まだ熱が高いのだろう。
ふと、額にのせてあったタオルが枕の横に落ちているのに気づいた。
(のせ直しておこう)
机の上に水の張った洗面器が用意されていたので、優花はタオルを濡らして絞る。そのときだった。
「……め、……さ……」
かすれ声が、竜の口から漏れ出てきた。思わず動きを止めて様子をうかがう。
(寝言?)
竜は目を閉じたままだった。寝言、というより、この場合は譫言だろうか。そんなことを考えながら、タオルを竜の額にのせようとした。が、寸前で手が止まってしまった。
竜の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。
「……行か、ない……でよ……」
言い方が、妙に幼かった。普段の竜の口調とは違う。優花は、手を動かせないまま竜の口の動きに見入っていた。
(誰に、行かないでって言ってるんだろう)
竜は目を閉じたまま苦しげに顔を歪め、また涙をこぼしながら口を開いた。
「……母さん」
その言葉に、優花は息をのんだ。
竜の口から、初めて「母さん」という言葉が出た。
普段、育ての父のことは「父さん」と呼び、実の母のことは「あの人」と言っていた、その口から。
(竜の、お母さん)
優花は、その人のことをよく知らない。ある日突然、竜たちを置いて出て行ってしまったひどい母親。そんな母親に似た自分の顔を、竜は嫌っている。それくらいの情報しか持っていない。
(竜は、自分のお母さんのこと、心のどこかで恋しく思っているんだろうか……)
きっと、竜は母親を憎んでいるだろうし、嫌ってもいるだろう。でも、それだけではない、もっと複雑に絡み合った感情を抱き続けているのだ。いつもは、絶対にそれを見せようとしないだけで。
「母さん」と呼んだ声は小さかったが、竜の悲痛な叫びにも聞こえた。昨日、この家の人ではないと、一線を引いた発言をした竜だけれど、その線の内側はひどく孤独で、本当はとても寂しいのかもしれない。肉親と呼べる人がいなくなって、家族といえる人たちと離れて、竜が今いる場所は、ほとんど他人しかいない家なのだ。
(竜は家族のようなものだと思ってたのは、私だけだったかもしれない……)
結局、他人である自分は、竜に何もしてやれないのだろうか。その孤独な場所から、引っ張り出すことはできないのかもしれない。
ずん、と心に重い石が落ちてきたような気がした。思わず、持っていたタオルをぎゅっと握りしめてしまう。
(……もう一回、ぬらそう)
自分の手の熱で、タオルは少し温かくなってしまっていた。改めて冷やしたタオルをのせてあげようと思った。今の優花にできることは、これくらいしかない。
(今の譫言は、聞かなかったことにしよう。きっと竜が、一番触れられたくないことだ)
ゆっくりとタオルのせた。少しでも固定できるように、軽く額に押さえつける。冷たさの向こうに熱を感じる。早く熱が下がるといいねと念じながら、そっと手を離した。
そのときだった。
竜の手が素早く動き、優花の手首をぐっとつかんだ。
優花がぎょっとするのと同時に、竜の目がカッと見開かれた。
そして二人で見つめ合ったまま、沈黙する。
(な、なに? どうしたっていうの?)
優花の頭の中はパニック状態だった。状況がのみ込めなくて、体のありとあらゆる動きが停止している。
それは、竜も同じようだった。優花の手首をつかんだまま、動かない。瞬きもせず、じいっと優花を見つめている。
「……ごめん」
先に我に返ったのは竜だった。ぱっと手を離すと、はあー……と長いため息を吐いた。
優花は掴まれた手首を自分のほうに引き寄せ、無言で首を振った。大丈夫、と答えたかったけれど、心臓がバクバクと音を立て、体中に熱い血が巡って、頭が混乱して、声と考えがどうしてもつなげられなかった。
「……出てってくれよ」
その冷たい響きに、喉の奥がひゅっと詰まった。
「風邪、うつるから」
付け足すようにつぶやくと、竜は背を向けてしまった。
優花は思わず目を伏せた。視線の先に、小刻みに震える自分の指が見えた。その指先が、涙でにじむ。
(私がここにいるの、嫌なんだ……)
完全なる拒絶だった。一線どころではない、分厚い壁の向こう側に、竜が行ってしまったことを悟った。
何か一言でも声をかけたほうがいいと思うのに、何も言えなかった。優花はのろのろ立ち上がると、重い足取りで部屋を出た。
パタン、と後ろ手にドアを閉めた途端、涙がぽろりと一粒落ちた。でも、それ以上は落とさぬように耐えた。今から下に行って、兄と昼食を食べるのだ。泣いたあとなんて、見せられない。平常心でいなければいけない。
優花は袖で涙をゴシゴシ拭ってから、何度も深呼吸を繰り返した。背を向けた竜の姿が頭の中にちらつくたび、それを必死で振り払った。
なんとか気持ちを立て直した優花は、何事もなかったように兄と昼食をとった。兄の作る炒飯は久しぶりで、ほっとする。少しだけ、子どもの頃に戻った気分になった。
「お姉ちゃんたちは、今日も帰ってこないの?」
「佳代は心配だから帰るって言ってたけど、今日はまだやめとけって言っておいた。愛実がいて、病人の世話までするのは大変だろうし」
佳代を実家に行かせたのは、風邪がうつらないように、というのもあるが、佳代の負担が増えないように、という理由もあったようだ。
「お兄ちゃんって、ホントお姉ちゃんのこと好きだよねえ」
何気なく妹が発した言葉に、数馬が勢いよくむせた。げほげほと咳をしながら、あわててお茶を流し込んでいる。その顔が真っ赤なのは、むせたせいなのか照れたせいなのか。
(両方だね)
優花はそう結論づけて、にやにやしながら兄が落ち着くのを待った。
「……ったく、からかうんじゃない」
赤い顔はそのままに、数馬は力なく優花をにらんだ。
「はぁい。ごめんなさい」
そのにらみがただの照れ隠しだとわかっている優花は、軽く謝罪を返した。
数馬は脱力したように大きく息を吐くと、食事を再開した。優花もそれにならう。ほとんど食べ終わった頃合いで、数馬が言った。
「これから、百合ちゃんのうちに行くんだよな?」
百合のご招待を受けた後、兄に許可を取っておこうと思ってメッセージを送ってあった。兄からは了解の返事はもらってある。
「あちらの家の人がいたら、ちゃんとご挨拶するんだぞ」
「わかってるってば」
「こういうのは最初が肝心なんだからな」
「大丈夫だって。子ども扱いしないでよ」
「まだ子どもだろうが」
「もう高校生!」
そんなやりとりがしばらく続く。ちょっとだけうざったい気もしたけれど、心配されているのはわかるので、嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、先ほど竜の部屋で味わった息苦しさが、徐々に払拭されていくのを感じる。
「ああ、そうだ」
一通りのお小言が終わると、数馬は思い出したようにぽんと手をたたいた。
「竜が夕飯にまた雑炊食べたいって言ってたぞ」
「え……」
不意打ちで竜の名前が出てきて、ドキッとした。そんな妹の様子に気づかないで、数馬は手近にある自分のカバンから財布を取り出す。
「美味しかったから、食欲がなくても食べられるんだとさ。雑炊用の材料少なくなってたから、帰りに買ってきたらどうだ?」
言いながら、数馬は食費としていくらかお金を手渡してくる。
「うん、わかった……」
そんなこと、自分には言ってくれなかった。もう一度食べたいくらい美味しいと思ってくれたなら、直接言ってくれたらいいのに。あんな拒絶した態度、とらなくてもいいのに。兄に言った言葉と、優花に対する態度のちぐはぐさに、もやっとした気持ちが広がる。
「俺は、雑炊以外の夕飯がいいけどな」
「まあ、お兄ちゃんは病人じゃないしね」
今夜は豚肉のソテーにするよ、と言って、優花は出かける準備を始めた。