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夏葉の話

 半日だけの学校が終わって、教室がざわつき始めたときだった。帰り支度をしている優花に、長谷部新菜が声をかけた。

「ちょっとだけ、時間をくれない?」

 その口調は以前の事務的なものとは違って、少し砕けた空気感があった。それが自分に心を開いてくれているように思えて、密かに和んでいると。

「夏葉がね、話したいことがあるんだって」

 え? と思わず夏葉の姿を探した。少し離れた場所から、夏葉は優花たちの様子を見ていた。その表情からは、いつもの強気な様子は感じられず、むしろ緊張しているような感じを受けた。

「大丈夫。私が立ち会うから、変なことにはならない。あ、飯田さんは今日はお休みしているらしいから、話すのは夏葉だけ」

 桃子が学校を休んでいる事実を聞いて、少し心が重くなる。休んでいる理由はきっと、昨日の出来事のせいだから。

「百合も……その話を一緒に聞いて大丈夫かな」

 恐る恐る、確認してみた。新菜が仲介に立つとはいえ、夏葉と一対一の話ができるような気がしなかったのだ。

「もちろん。それは夏葉も了承済みよ。そうなるだろうと思ってたから。あと、兄にも連絡しておいたの。ちょっとこちらで話があるから、教室まで迎えに来ないでねって」

 新菜の根回しの良さに驚いて、優花は何も言うことができなかった。つまるところ、優花は夏葉の話を聞かねばならない状況に追い込まれてしまっているのだ。

 とりあえず、既に心配そうな表情を見せている百合のところに向かい、困惑しながらも状況を説明した。

「長谷部さんがいるなら、昨日みたいなことにはならないでしょ」

 百合がそう言ってくれたので、優花も覚悟を決めることにした。

 それから、新菜の提案で校舎裏に移動することになった。

 校舎裏は、よどんだ冷たい空気がおりていて、寒気が一層増してきた。これから何の話をされるかわかっていないせいで、余計に寒さがしみてくる。あまり人気のない場所で、落ち着いて話がしたいということだったが、場所が場所だけに不安感が募った。

「ほら。ちゃんと話したいんでしょ」

 新菜が夏葉の背中を軽くたたいた。おずおずと、夏葉が前に進み出る。

「あの、橘さん……」

 あまりにしおらしい声に、優花は驚きを隠せなかった。このあと、どんな言葉が続くのだろう。そう思うと、緊張で思わずつばをゴクリと飲んだ。

「ごめんなさい」

 夏葉は、深々と頭を下げた。

(……なんで?)

 状況の理解ができず、優花は夏葉の後頭部をぽかんと見つめていた。そのまま、沈黙が数秒間続く。

「えー……っと?」

 状況が動かないので、おそるおそる新菜の顔を見た。その視線に気づいて、新菜は小さくため息をついた。

「簡単に言うと、今までのことを謝罪したいそうよ」

 謝罪?

 それを理解するのに、また数秒かかった。理解しても、どうしたらいいのかわからなくてそのまま黙っていると。

「意味分かんない」

 憤慨した声をあげたのは百合だった。びっくりして振り返ると、百合はきつい視線を夏葉に送っていた。

「今まで、散々優花のこと悪く言ってたのに、どういうつもりなの?」

 夏葉はゆっくりと体を起こしたが、視線を合わせてこなかった。震えるのをこらえるように、ぎゅっと両手を握り合わせている。

「謝らなきゃって、思ったから」

 ひどく弱々しい声だった。目の前にいる夏葉は、今まで優花たちの見知っていた夏葉と本当に同一人物なのだろうか。疑わしくなるほどに、全く態度も空気も違う。

「なんで謝らなきゃって今更思ったの? そう思うなら、最初から悪口なんて言わなければいいのに。ホントは、何か企んでる? 昨日の今日で急に謝るなんて、おかしいよね?」

「ちょ、ちょっと、一回ストップ」

 なおも言い募ろうとする百合を、優花は無理矢理遮った。百合は少し不満げに口をとがらせたが、夏葉への攻撃をやめた。でも、油断すればすぐにでも前のめりに声を上げそうな勢いを残している。

「花崎さんの言うこと、もっともだと思う。そう思われても、仕方ない」

 夏葉はそう言ってうなだれた。百合の怒りが大きいせいなのか、その怒りを甘んじて受けている夏葉があまりにしおらしい態度のせいなのか、優花はかえって気持ちが落ち着いてきてしまった。

「私も聞きたい。なんで急に謝らなきゃって思ったの?」

 優花は、なだめるような口調で夏葉に問いかけた。夏葉が歩み寄ってくるなんて、考えてもみなかったのだ。この状況が生まれた経緯を知りたい。

「桃子は、私の友だちだから……桃子が絶対正しいって思ってたの」

 ポツポツと夏葉は話し始めた。

「友だちだから、桃子の味方でいなければいけないって思ってた。桃子が橘さんを敵だって思ってたから、私にとっても敵だった」

 でも昨日、それがわからなくなった。そう言って、夏葉は悲しげに首を振った。

「昨日の桃子は、私の知ってる桃子じゃなかった……」

 桃子が蕩々(とうとう)と持論を展開しているとき、夏葉は怖くなったのだと言う。

 思い返してみれば、あのときの夏葉は一つも言葉を発していなかった。桃子たちの後ろで、おびえた表情を浮かべながら呆然としているだけだった。

「あんなふうに人を利用して、追い詰めるような……桃子はそんな子じゃないの。あのとき、桃子を止めた方がいいって、思ってたんだけど、声が出なくて……」

 そこで、夏葉はためらうように視線を泳がせた。

「桃子たちを後ろから見ていたせいかな。おかしいこと言っているのは、麗と桃子のほうなんじゃないかって、急に思えてきたの。長谷部先輩が、思い込みだって言って怒ったでしょ。それを否定することは、できないって思った」

 優花は、内心ぎくりとした。確かに、彼女たちは根拠もなく思い込みで行動を起こした。けれど、その思い込みはある意味で正しい。否定できないと思っていたのは、優花も同じなのだ。

「一晩中、ずっと考えてた。桃子の味方でいたいけど、どう考えても非があるのはこちら側だった。だから橘さんに謝らなきゃって……いてもたってもいられなくなって。でも、直接橘さんに話しかけても、警戒されてしまうと思ったから、新菜に事情を説明して仲介になってもらったの」

 そこまで黙って聞いていた新菜が、ふっと笑った。

「ちょっと面倒だとは思ったけどね。でも、誤魔化そうとしないその姿勢が潔いと感じたから、引き受けることにしたってわけ」

 良くも悪くも、夏葉は一途な性格をしているのだと思った。友だちを助けるためならば、手段をとわない。けれど、間違っていると思えばそれを素直に認めて、謝罪できる。間違っていると思っても、それを認めることができる人は少ないだろう。優花自身、それができるかどうか自信はない。

「別に、夏葉を許してあげてって言う気はない。あとは、橘さんの判断に任せる」

 新菜はきっぱりと言い切って、優花をじっと見つめた。優花もしばらく見つめ返す。それから、ゆっくりと夏葉に視線を移した。夏葉は少し体を硬くして、きゅっと唇を結んだ。

(確かに、遠野さんはずっと私のことを悪く言ってきたから……嫌な思いをしなかったわけじゃない。できるだけ気にしないように、スルーしていただけ)

 今までのことを考えれば、百合の言うとおり、何か企んでいる可能性はなきしもあらずだ。実際のところ、今の夏葉がどう考えて行動しているのか、優花たちにも、仲介している新菜にもわからない。

(今、遠野さんは誠心誠意謝っているように思える。それに私だって、全く悪くないわけじゃない)

 それならば、答えは一つしかなかった。

「遠野さんの気持ちはわかった。もうこれで、終わりにしよう」

 はっきりとした優花の声に、夏葉は一瞬きょとんとした表情を見せた。新菜は、納得したように小さくうなずいた。百合は――。

「終わりにするって、許すってこと? 優花は本当にそれでいいの?」

 その声色に怒りはなく、ただ心配そうな様子だけが聞き取れた。優花は自分自身に確認するように、大きくうなずいた。

「うん。これで一区切りにしよう。仕切り直せばいいんだよ」

 これまでは、それぞれに絡む人間関係のせいで、敵対するような位置関係になってしまっていたけれど、そんなしがらみを一度取り払ってしまえば、優花と夏葉はただのクラスメイトという間柄になれる。謝罪する側とされる側という関係で居続けるのは、優花の望むことではないのだ。

「優花がそう言うなら、私ももう何も言わない」

 百合はちゃんと意図をくんでくれた。それが嬉しくて、つい百合に微笑みかけると、同じように微笑み返してくれた。

「じゃあ、これで和解成立ね?」

 新菜が一同を見渡した。優花と百合はしっかりとうなずく。夏葉は「ありがとう」と小声で言いながら、ぎこちなくうなずいたのだった。

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