二人の胸の内
コトコトと鍋のふたが音を立て始めたので、優花はガスコンロの火を消した。ふたを開けると、ふわっとした卵と出汁の匂いが広がる。湯気が少し薄らぐと、ご飯の白と細切りににんじんの赤と小さめに刻んだ小松菜の緑の色が目に入ってきた。
(うん、いい感じ)
味見をして、優花は一人うなずく。
風邪を引いて熱を出したときのご飯は、おかゆではなくて雑炊。橘家は昔からそうだった。亡き母が作ってくれていた味を思いながら作ったそれは、優花の思い出の味そのままに再現できた。
(食べられるといいんだけどなあ)
優花はお盆に雑炊と取り皿、先ほど長谷部からもらったスポーツドリンクのペットボトルとコップ、濡らしたミニタオルを置くと、そっと階段を上がり始めた。
竜が部屋に引っ込んでから、三時間ほど経っている。その間、竜は全然出てこなかった。寝ているのだろうが、熱を冷やすものもなく、ただ寝ているのは辛いはずだ。そろそろ喉も渇いている頃かもしれない。
竜の部屋の扉の前に来て、優花はふうっと口から息を吐いた。はやる気持ちを抑えて、トントン、と静かにノックした。しばらく待ったが、部屋の中から反応はない。
「竜、開けるよ」
小さな声で言ってから、ゆっくりとドアを開けた。薄暗い部屋に、ドアの隙間からの光が帯のようにのびていく。光の先に、机と椅子と、その上に無造作に脱ぎ捨てられた作業着が見えた。足を忍ばせて入ると、ベッドで布団をかぶって寝ている竜がいた。荒い息づかいと、時々唸るような声が聞こえてくる。熱が高くて苦しいのかもしれない。
「寝てる……?」
ひそっと声をかけてみた。反応はない。
優花はお盆を静かに机の上に置くと、濡れたタオルを手に取った。
(起きちゃうかな)
そおっと竜の額にタオルを乗せてみる。ぴくりと竜のまぶたが動いたが、目を開ける様子はない。むしろ、いくらか表情も和らいだように見えた。
(冷たいのが気持ちいいのかも)
優花は下に行き、小さなプラスチックのたらいに水を入れ、再び竜の部屋へ行った。竜はまだ目を閉じたままだ。額に乗せておいたタオルはすでに熱を持っていて、冷たさを感じられなくなっていた。タオルを水に浸してもう一度乗せ直す。すると、竜の目が薄く開いた。
「あ、起きた?」
ぼんやりとした眼差しが、優花の方を向いた。しばらく間があってから、竜は小さく口を開いた。
「優、花……なん……」
かすれ声で竜が言う。いろいろ言いたいことがありそうだが、上手く声が出ないらしい。でも、優花には大体わかった。
「お兄ちゃんに理由を言って、竜の部屋に入る許可をちゃんと取ったよ。そろそろ帰ってくるかな。あ、お姉ちゃんと愛実は実家に遊びに行ってたんだけどね、そのまま泊まることになった。お姉ちゃんと愛実に風邪うつっちゃうと大変だからって、お兄ちゃんが言って」
この数時間の内で、竜を心配した佳代は一度帰ってきたのだが、数馬の説得に従い、再び実家からの迎えの車に乗って行ってしまったのだった。
竜は返事をするのも億劫なようで、視線とため息だけ返してきた。
「喉渇いたでしょ? 飲む?」
竜は小さくうなずいて、どうにかこうにか半身を起こした。優花がスポーツドリンクを入れたコップを差し出すと、ちびちびと飲み始める。コップを持つ手が少し震えている。それだけで、体が相当辛いのだろうと感じ取れた。
「そのスポドリ、先輩が持ってきてくれたの」
優花の言葉に、ピタッと竜の動きが止まった。その瞳に警戒の色が現れたのを見て、優花は慌てて説明した。
「心配しないで。先輩はうちの中に入ってないよ。門の外でこれを渡してくれた」
そう言うと、警戒の色はすっと消えた。
(熱のせいなのかな。感情が隠せないみたい)
怒りや憤りといった感情を、竜が表に出すことは皆無に近い。感情の浮き沈みも、見せることはほとんどない。だから、今こうして素直な感情を見せてくれていることが、不謹慎にも嬉しく思えた。
「竜に、お礼だって」
この言葉を言った途端に、また訝しげな表情に変わった。
「止めてくれた、お礼って言ってた」
「……そうか」
そう言って、竜は再び飲み始めた。やや不本意そうだが、それ以上何も言うことはなかった。
「お腹空いてないかもだけど、少し食べる? 雑炊なんだけど。お母さんが昔、私が風邪引いた時作ってくれてたんだよね」
飲み終わった頃を見計らって、優花は雑炊の入った鍋のふたを取った。部屋の中に、出汁の香りが漂う。我ながら、納得のいくものができたと満足している。
「わざわざ、作ってくれたのか?」
その声色に、感動と戸惑いが入り交じっている。
「そこまでしてもらう理由がないのに……」
「どういうこと?」
おかしなことを言うと思って、即座に聞き返した。竜は目を伏せると、持っていたコップを両手でギュッと握りしめた。
「俺、この家の人じゃ、ないから……」
その瞬間、優花の心の底にすぅっと冷たい風が入りこむ。竜の口調から、卑屈な響きを感じた。
そこまでしてもらう理由がない。この家の人ではない。そこには、どうせ俺なんか、という思いが表れていた。
「何でそんなこと言うの?」
そうつぶやく自分の声が、思った以上に震えていた。
熱のせいなのだろう、とは思った。体調が悪いと、普段は出てこないネガティブな感情が表に出てきやすい。しかし、裏を返せば、隠している本音が出やすいともいえる。
この家の人ではない。そんな疎外感を、感じ続けていたのだろうか。橘家に来てから、ずっと。
「そんなふうに、言わないでよ。一緒にご飯食べて、いろんなこと話して、笑ったり怒ったりしてきたじゃない。まだ一年もたってないけど、そうやって一緒に生活してきたじゃない。今更、この家の人じゃないなんて言わないで」
「優花……」
びっくりした表情で、竜は優花の訴えを聞いていた。
優花はただ、悲しかった。もっと近い目線で竜と一緒にいるのだと思っていた。けれど、竜は一線引いた外側にいたのだ。いつも、たった一人で。
その事実は、優花の胸の奥を鋭くえぐった。
「確かに、竜がうちに来た最初の頃は不安だった。どんなふうに生活が変わっちゃうんだろうって。でも、今は私……竜が来てくれて、よかったと思ってるよ。竜は、私のこと、ちゃんと理解しようとしてくれたでしょ。そういう人、私の周りには……お兄ちゃんたち以外にはいなかったの」
数馬や佳代ではない、ちゃんと理解しようとしてくれた、初めての他人だ。一番身近な他人が、竜だ。孤独で寂しかったくせに、強がっていじけていた自分の心を、優しく開いてくれたのだ。
そんな、竜が。
「私、竜が、好きなの……」
言葉が、こぼれ落ちた。
自分の口から声が出ていたことに気づくまで、時間がかかった。気づくまで、優花は竜を見つめ、竜もまた驚いた表情のまま見つめ返していた。
(私……何を言った?)
無意識に、優花は自分の口を手で押さえた。
(何、言った?)
急速に、記憶が数秒前に戻った。
自分は、確かに、声に出して言った。その声は、はっきり自分の耳にも届いていた。
「好き」と。
激しい羞恥心が胸の奥から突き上げてきた。優花はその場にいるのが耐えきれなくて、逃げるように竜の部屋から飛び出した。かすかに竜が呼び止める声がした。そんな気がしたけれど、無視して階段を駆け下りた。
キッチンに着いたとき、大した距離を走ったわけでもないのに、息が切れて鼓動は早鐘のように鳴り続けていた。
(何、言ってるの、私……)
足の力が抜けて、上手く立てない。優花はよろよろと椅子に腰掛けると、大きく息を吐いた。
息を整えるために、深呼吸を繰り返した。徐々に冷静さが戻ってくる。冷静になればなるほど、何であんなことを口走ったのかわからない。
もう一度、大きくため息を吐くと、優花は顔をテーブルに突っ伏した。
想いを伝えたかったわけではない。告白して付き合いたいとか、そういうことは全く考えていなかった。別に、今までのまま、家族みたいな感じでいられれば、それでよかった。
逃げる必要なんて無かった、と後悔した。話の流れで、どうにでもごまかせた気がする。それこそ、家族として好きだということにすればよかったのだ。でも、逃げたことで、どんな種類の「好き」なのかを、はっきりさせてしまった。
(これから、どんな顔して家にいればいいの?)
何もなかったかのように振る舞う? この際、はっきりさせた方がいい? でも、はっきりさせるって、何を……?
(もう一度伝え直すの? ううん、無理。絶対)
改めて想いを伝えるのは、相当な胆力が必要だ。もし仮に、それができたとして、竜から返事を聞くのが怖い。今まで、家族のように仲良くやってきていたのに、それが崩れてしまう。そんなことになったら、それこそ家にいるのが辛くなる……。
そのとき、玄関ドアの開く音がして、数馬の声が聞こえた。ハッと顔を上げると、ちょうどリビングのドアが開いた。
「おかえり、お兄ちゃん」
ただいま、と言いながら、数馬が「ん?」と首をかしげた。
「優花、顔赤いぞ」
「え」
思わず頬に手を当てた。今は手も身体も熱っているせいで、顔が赤いかどうか自分ではわからなかった。
「竜の風邪がうつったんじゃないか?」
「まさか。今日の今日で」
力なく微笑み返しながら、この体中の熱りは決して風邪がうつったからではない、と思った。
「まあ、そうだよなあ。気のせいかな。――お、雑炊作ったのか」
数馬は鍋のふたをパカッと開けながら言った。
「うん。風邪の時は、雑炊だよねって思って……。竜に作るついでに、夕飯も同じにしちゃおうかなあって」
竜のとは別に、もう一鍋作ったのだ。竜のは胃の負担を考えて細かく刻んだ野菜しか入っていないが、自分たち用のは鶏肉を入れてあった。
そこで、数馬は一さじすくって味見をした。うん、とうなずいて、優しく微笑んだ。
「美味くできてるじゃないか。お母さんの味と同じだ」
「よかった」
いろんな意味でホッとしている。味に問題ないことも、数馬が優花の様子を見て「気のせい」で済ませてくれたことも。
「ところで、竜は?」
内心、ギクッとした。ここに勘のよい佳代がいたならば、何か問われていたかもしれない。
「起きてた。まだ熱は高そうだったけど。雑炊と飲み物置いてきたよ」
話せる範囲の事実だけを話した。普通に話せたと思う。そう思うのに、何か突っ込まれるのではないかとビクビクしていた。
「じゃ、俺も様子見てくるか」
そう言って、数馬はネクタイを外しながら部屋から出て行った。階段を上がる足音が小さく響いてくる。
(食べる準備、しよう……)
優花はのろのろと立ち上がり、食事の支度を始めた。
しかし、優花の動揺は続いていた。まだ熱い鍋の縁を素手で触ってしまったり、持った器を滑り落としてしまったり(運良く割れなかったが)、食器棚の扉が開いているのを忘れて頭をぶつけたりと、散々だった。




