二人の後悔
長谷部が保冷剤で頬を冷やしている間も、優花が薬箱を探っている間も、竜は着替えに行かないで、ずっとソファに座ってにらみをきかせていた。
「だから、着替えて寝てなさいってば……」
消毒液をガーゼにつけながら優花は再度促したが、竜は頑として首を縦に振らなかった。
「また二人きりにするわけにいかないだろ」
竜が動こうとしないのは、また長谷部が変な気を起こすのではないかと心配しているためらしい。気の立っている竜が、警戒してガルガルうなっている犬のように見えた。
「君がいるとわかってて、何かするわけないだろ」
少しだけ苦笑いをして、長谷部が言った。
「ホントに、いいタイミングで登場するよね」
「偶然だよ」
言い返す竜の口調が、また弱くなってきた気がした。息づかいが少し荒いのは、やはり熱が上がっているせいなのだろう。
しかし、長谷部がここにいる以上、竜は動く気がないらしい。優花は竜の説得をやめて、長谷部の傷に向き直った。
殴られた拍子に、口の中と唇の端を切ってしまったようだ。口の中はどうしようもないとして、外側の傷は少し手当をしようと、薬箱を棚から引っ張り出してきたのだった。
「しみると思うんですけど、動かないでくださいね」
消毒液をしみこませたガーゼで、傷の周りをそっと拭く。長谷部は目をぎゅっと閉じて顔をしかめたが、おとなしくしていた。丁寧に血を拭き取ると、唇の皮が少し剥けている部分があった。多少血がにじんでいるけれど、たいしたことなさそうでほっとした。
しかしながら、傷の場所が場所なので、これ以上処置できることはない。優花が薬箱に道具をしまっていると。
「ごめんね」
不意に、長谷部のつぶやきが耳に届いた。顔を上げると、長谷部の申し訳なさそうな表情がそこにあった。
「怖い思いさせて……ごめん」
先ほどの出来事のことを言っているとわかって、胸の奥が苦しくなる。たまらず、目をそらしてしまった。
「……いえ」
何と返していいかわからず、結局は素っ気ない返事になった。しん……と部屋の中が静まりかえる。
「も……もう少し、冷やしててくださいね。あ、そうだ。ご飯どうしますか? お腹、空いてますよね」
気まずい沈黙に耐えかねて、優花は明るい調子で言いながら、薬箱を抱えて立ち上がる。ダイニングのテーブルに戻ると、そこには再び冷めてしまったおかずがそのまま置いてあった。もう一度温め直そうか考えていると。
「まだ食ってないのかよ」
独り言のように竜が言った。
「ちょっと、いろいろあって、帰るのが遅くなっちゃったから……」
優花は思わず口ごもる。いろいろあった出来事の中で、竜が間接的に関わっていることもあり、話していいのかどうか判断に迷ったのだ。
「君の元カノが突撃してきたんだよ」
唐突に長谷部が口を開いた。
「君と別れた原因は橘さんだって、訴えにね」
竜は眉をピクリと上げる。ややあってから、何かに思い当たったような表情を浮かべると、片手で頭を押さえた。
「違うって、言ったんだけどな」
うなるようにつぶいてから、チラリと優花を見た。なんだか今にも泣きそうに見えて、ドキッとした。
「巻き込んで悪かった。優花は関係ないのに」
「ううん、別に……」
優花は力なく首を振った。関係ない、と言う言葉が妙にきつく胸に響いた。
しばらくの無言のあと、長谷部が短くため息をついた。
「それだけなら、否定するだけで終わりだったんだけど、俺のせいでややこしくしたかな」
訝しげに竜の眉間にしわが寄った。
「今日の騒動の原因は、半分は君で、半分は俺ってことだよ」
そこで長谷部は保冷剤をテーブルに置いて立ち上がると、自分のコートに手をかけた。帰るつもりなのだとわかり、優花は慌てた。
「先輩、食べないんですか?」
「うん、帰るよ」
早々にコートを羽織ってしまった長谷部は、小さく微笑んだ。
「このまま俺がいると、彼が休めないでしょ」
思わず竜を見やる。この短時間で更に顔色が悪くなっているように感じた。先ほどよりもやや前傾姿勢になってきているのは、力がなくて体を支えられないからなのかもしれない。
「見送りはしなくていいからね。じゃ、またね」
言うが早いか、長谷部はバッグを持つと、さっとリビングから出て行った。見送りはいらないと言われたけれど、追いかけた方がいいのではないだろうか。一瞬迷っているうちに、玄関ドアの開閉音がして、すぐに静かになってしまった。
「あいつに……」
ため息交じりの声が聞こえて、優花はぱっと竜を振り返った。
「悪かったって……謝っておいてくれないか?」
え? と優花が思わず聞き返すと、竜はやや気まずそうに目を伏せた。
「殴ったのは、さすがにやりすぎだった……。夢中で、考えるより先に手が出て……」
うなだれる竜の隣に、優花はそっと座った。
(確かに、やりすぎだったのかもしれない。けど、竜は私のために怒ってくれたんだ)
その事実は、ただ純粋に嬉しかった。
「助けてくれて、ありがとう」
自然に言葉が出た。すると、なぜか竜は歯を食いしばるような表情になって、ぼそぼそとつぶやいた。
「助けるとか、そういうんじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
「……いや、なんでもない」
竜は、ぷいっと顔を背けてしまった。照れているのか、他に思うことがあるのか、その横顔から読み取れることはなかった。
「そんなことより、結局何があったんだよ。ややこしくなったって、いったいどういうことなんだ」
わかりやすく話をそらされた気がした。何かの話題に触れないようにしている、と直感が働いた。竜が元気な状態であれば「言いかけて途中でやめないでよ」と問い詰めたかもしれないが、今はそんな悠長に話している場合ではない。
「話、長くなりそうだから、あとで話すね」
「あとでって……」
「元気になったら話すよってこと。今はちゃんと休んで。さっきより顔色悪くなってるよ」
竜は不服そうな表情を浮かべていたが、やがて「わかったよ」と力のない声で言った。そして、おぼつかない足で立ち上がり、ふらふらとリビングの出口へ歩いて行く。
「あとで飲み物とか持っていくね。ちゃんと水分取らなきゃダメだよ」
は? と竜が怪訝そうに振り返った。なんでそんな表情をするのかわからなくて、優花は首をかしげる。
「持ってくるって、どこに」
「どこって、竜の部屋でしょ?」
なぜ当たり前のことを訊くのか不思議に思っていると、竜は盛大なため息をついた。
「数馬さんに、入るなって言われてるだろ」
居候初日に言ってた兄の言葉だ。お互いの部屋に入ってはいけないというルールは、竜も優花もちゃんと覚えているし、兄が妹を思う気持ちから来ていることも充分わかっていたから、しっかりそれを守っていた。でも。
「今はそんなこと言ってられないじゃない。それに、机に飲み物置くだけだよ?」
「ダメだ。入ってくるな。これは約束だから」
わかったな? と念を押し、竜は今度こそリビングから出て行った。
(律儀っていうか、頑固っていうか……)
しかし、病人がいるのに何もしないというわけにもいかない。優花は少し考えてから、スマホにメッセージを打ち始めた。
それから三十分ほど経った頃。手早く昼食を終えてから、優花がにんじんを細切りにしているときだった。テーブルに置いてあったスマホが震えた。
(お兄ちゃんかな)
そんなことを思いながら画面をのぞいて、驚いた。長谷部の名前が表示されていたのだ。
優花は少しためらいながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『もしもし、ごめんね。突然で悪いんだけど……今、家の前にいるんだ。ちょっと外に出られる?』
帰ったはずの長谷部が、なんで引き返してきたのだろう。優花がどう返答しようか困っていると。
『すぐに済む用なんだ。差し入れ渡したらすぐ帰るから』
「差し入れ?」
『そう。病気の彼に』
「……ちょっと待っててください」
優花は玄関まで向かうことにした。外に出られるか、と長谷部が訊いてきたのは、家に入るつもりがないからなのだ。それは、下手に優花を警戒させないための、長谷部の気遣いなのだとわかった。
そう思いつつも、優花はおそるおそるドアを開けた。
長谷部はドアのそばではなく、家の門の外にいた。音を立てないようにドアを閉めて、長谷部のそばへ向かう。
「これ、渡してくれるかな」
言いながら長谷部はビニール袋を差し出した。中にはスポーツドリンクのペットボトルが三本入っていた。受け取りながら、ペットボトルと長谷部の顔をつい交互に見てしまう。
「余計なお世話と思ったけど。お礼がてら」
「お礼?」
優花が首をかしげると、長谷部は決まり悪そうに殴られた方の頬をなでた。
「俺を、止めてくれたから」
びっくりして、言葉が出てこなかった。
竜と長谷部は、同じ出来事に対して真逆の感情を抱いている。その間に立っている自分は、どのような思いでいればいいのか、わからなかった。
「さっきは、魔が差したというか……正直言って、途中で止められたかどうか自信ないんだ。そのせいで、君を怖がらせてしまった。本当にごめん」
そう言って、長谷部は深々と頭を下げた。
「や、やめてください。もう、終わったこと、ですし……」
「終わったことでも、なくなったことにはならないよ」
なんと声をかけたらよいのか迷っているうちに、長谷部が顔を上げた。
「そんなわけで、お礼なんだ。彼に、そう伝えてくれるかな」
妙に居心地の悪い気分になった。
(私は二人の伝書鳩じゃないんだけど)
異なる感情から来る二人からの伝言のはずなのに、根っこは似通っている感覚。それが、優花を混乱させていた。
「……竜からも、先輩に伝えてほしいって言われてることがあるんです」
え? と長谷部は目を瞬いた。
「悪かった、だそうです。殴ったのは、さすがにやり過ぎだったからって」
理解できなかったようで、長谷部は一瞬きょとんとした顔になった。ややあって、苦い笑いが浮かぶ。
「じゃあ、これでおあいこだ」
なにが「おあいこ」なのか。ますますわからない。わかるのは、長谷部が何かを理解したらしいという、何とも曖昧なものだった。
長谷部はいくらかすっきりした表情をして、今度こそ帰っていった。
その背中をしばらく見送ってからキッチンに戻った。そのとき、優花のスマホが再び震えた。今度は、待っていた兄からのメッセージだった。
そういうことなら、仕方ないな。
渋面を作りながらその一言を打ったのだろう。その様子が手に取るように思い浮かべることができて、優花はクスッと笑ってしまった。




