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二人の焦燥

 優花はコートを脱いで手近な椅子にかけると、制服のまま早々に冷蔵庫に向かった。

 ラップがかかった一皿を取り出していったんテーブルの上に置く。それから、タッパーに入っている作り置きの副菜をいくつか引っ張り出した。

(足りるかな)

 おかずの量を確認し、次にご飯の入った器の中身を確認する。朝ご飯の残りを適当な器に入れているのだ。

「急に来ちゃったけど、俺の分まで残ってるの?」

 おかずをレンジに入れたところで、長谷部がたずねた。

「大丈夫ですよ。昨日の分、いつもより多く残っちゃったので」

「作り過ぎちゃったの?」

「そういうわけじゃないんですけど……」

 優花は少し言いよどむ。しかし、長谷部が視線で先を促してくるので、さらりと説明した。

「昨日、竜があんまり食べなかったんです。食欲がないからって」

 一瞬、長谷部の目に暗い影が差す。それに気づいて、優花は慌てて目をそらした。

「食欲ないって、初めてでしたね。具合が悪いんじゃないかって、お姉ちゃんがすごく心配してて。でも、今朝も普通に仕事に行ったから、大丈夫なんじゃないかなって思うんですけど。なんとなく食欲がない日って、たまにありますよね」

 おかずの準備をしながら早口になっているのが、不自然に思えた。別に、大したことではない。昨日あったことを説明しているだけなのだ。それなのに、胸の奥が苦しくて、長谷部の顔を見ていられない。

(あの子が……木宮さんが、変なこと言うから、余計に)

 

 竜も、あんたのこと、好きなのよ。


 そんなわけない、と思っている。

 だったら、なぜ麗と付き合うことにしたというのか。同じ家に住んでいて、そんな素振そぶりもなければ、言動もない。むしろ、本当に長谷部と付き合えばいいと勧めてくるのに。

(今は、考えない。準備に集中!)

 どんどん落ち込んでいきそうだったので、無理矢理考えを振り払った。ちょうどレンジが鳴って、優花は熱くなった皿を取り出した。

「それは何?」

 出したばかりのお皿を見て長谷部がきく。

回鍋肉ホイコーローもどきですね」

「もどき?」

「余った野菜もいろいろ入れちゃったんです。にんじんとか、タマネギとか。回鍋肉というより、野菜炒めって言った方がいいかも」

 ラップをはずすと、熱い湯気と一緒に匂いが立ちのぼり、ダイニングに広がった。

「いい匂いだ」

 穏やかな口調で長谷部がそう言ったので、優花の中に安堵がうまれた。長谷部の感情が微妙に揺れ動くのを敏感に感じ取ってしまい、優花は不安になったり安心したり忙しい。

「先輩がいてくれてよかったです。おかず、無駄になっちゃうところだったから」

 そう言った途端、また長谷部の表情が変わった。一瞬、眉が上がり、そのあと少し目を伏せた。

「先輩……?」

 また不安になった。自分の言う一言一言が、こんなにも長谷部の感情に影響したことがあっただろうか。そして、それがわかりやすく表に出たことも。

「君は、ずるいね」

 ぽたんと長谷部の言葉が床に落ちた。

「全く意識されていないのも、問題だなあ」

 はああっと大きく息を吐くと、長谷部は目を閉じて天井を仰いだ。

「君は、この状況をわかってるの?」

「え?」

 優花が首をかしげたのと、長谷部の手が優花の腕をぐいっと引っ張ったのはほぼ同時だった。そのまま、優花はすっぽりと長谷部の腕の中に収まってしまった。

(え? え? え?)

 頭が真っ白になる。どくん、どくんと心臓が大きく波打ち、全身を血が激しく駆け巡る。

 さっき桃子たちと対峙したときも、長谷部の腕の中に引き寄せられたけれど、あのときはお互い上着を着ていた。制服姿の今は、よりダイレクトに長谷部の体温と匂いが伝わってくる。優花は、棒のように固まってしまった。

「家族も誰もいない家に男を引き入れるのは、どういう了見?」

 長谷部は優花の髪を指でかき上げながら、耳元で囁く。長谷部の熱い息が耳にかかって、耳から全身へぞわっと震えが走った。

「何されても、文句言えないよ?」

 長谷部の左手が優花の腰にまわり、右手が優花の頭の後ろを押さえると、更に強い力が込められた。

「な、なに、って……」

 息苦しい中、やっとの思いで声が出た。長谷部から体を離そうと力を入れてみたが、指先がかろうじて動くだけで、体をよじることすらできない。

 完全に動きを封じられている状況を理解した途端、頭の芯から、恐怖心がじわじわと広がっていった。

「わからないなら、やってみせようか?」

 ぞっとするような、ひどく優しい声だった。少しだけ長谷部の腕の力が緩んだ。そこで逃げればいいと思うのに、体が一つも反応しない。優花の頭の後ろにあった長谷部の手が、いつのまにか優花の頬に添えられていても、動けなかった。自分の指先が小刻みに震えている以外は、何も。

 息のかかる距離に、長谷部の顔があった。少し伏せたまつげの向こうにある瞳からは、切なさがにじんでいるような気がした。

 つ……と長谷部の親指が優花の頬を撫でた。反射的に、ビクッと体が跳ね上がる。

「怖くないよ」

 そうささやいて、長谷部はまた腕に力を込めた。そのとき、ついに優花の全身に大きな恐怖心が行き渡った。

(助けて、竜)

 心で知らぬ間に叫んだ。その叫びが、何をすればいいのか理解させた。

「や……やめてくださいっ……!」

 動かなかった体が、動いた。顔を長谷部からそらし、両腕で長谷部の身体を押そうとした。でも思うように離れられない。このまま逃げられないのではないか、とパニックになりかけたときだった。

「優花!?」

 バンッ!とリビングのドアが音を立てて開いたと同時に、息を切らせた竜が入ってきた。

「竜……?」

 なんでここに? と思う間もなく、竜はすさまじい形相で近づいてくると、一気に長谷部を優花から引き剥がし、

「何してんだよ!」

 叫ぶと同時に、思い切り長谷部の顔を殴りつけた。

(な、殴っちゃった!?)

 長谷部はその勢いのままそばの壁にガンッと叩きつけられた。

「優花! 大丈夫か!? 怪我してないか!? 痛いところないか!?」

 状況の理解ができず呆然としているところに、竜はたたみかけるように問いかけてきた。こんなに取り乱している竜を見るのは初めてだった。

 放心状態になりながら、大丈夫、と応えようとした。それなのに、息が少しもれただけで、声にならなかった。代わりに、両目から勢いよく涙があふれ出てくる。

(どうしよう、涙止まんない。なんで)

 ぼろぼろと涙を流す優花を見た竜の表情が、さあっと怒りに満ちたものに変化した。これは、まずい状況かもしれない。そう思ったときには、すでに竜が壁際にいた長谷部の胸ぐらをつかんでいた。

「あんた、どういうつもりだ!」

 長谷部を激しく揺さぶりながら竜が叫ぶ。

「優花のこと傷つけるなよ! 泣かすなよ! あんたなら、優花のこと大事にしてくれるって、思ってんだぞ! あんたなら大丈夫だって、思ってたのに、なんで……!」

 言葉の最後は苦しげにかすれた。そのとき、長谷部の口の端からつぅっと赤い血が垂れるのが、涙でかすむ視界の向こうに見えた。

 沈黙が降りる。肩で息をする竜の荒い呼吸音と、時折すすり出る優花の嗚咽以外は、音がない。

「君の期待通りなんて、できないよ」

 ぼそっと、長谷部がつぶやいた。そして、冷たい口調で言い捨てた。

「俺の気持ちは、君にはわからないだろう」

 一瞬にして、竜の目に新しい怒りの色が浮かんだ。

「ふざけるな! それはあんただって同じだろう!」

 再び、竜が拳を振り上げる。長谷部は抵抗する様子も見せず、目を閉じた。

(だ、だめ!)

 優花はたまらず手を伸ばし、振り上げられた竜の腕を夢中でつかんだ。

 竜の動きが、止まった。

「私、大丈夫、だ、から……、やめて……おねが、い」

 嗚咽混じりの鼻声で、ひどく話しづらかった。でも、ここで竜を止めなければいけないと思った。これ以上、竜が怒っているのを見たくない。

 竜は腕を下ろすと、乱暴に長谷部から手を離した。長谷部は少しだけよろめいたあと、口元をぐいっとぬぐった。

 気まずい静けさだった。竜の怒りは、まだくすぶっているように見えた。長谷部は目を伏せたまま黙り込んでいる。自分も、変な泣き癖がついていて、痙攣するようにすすり泣いてしまう。

 ところが突然。

「……っ」

 竜が膝から崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。

「ど、どうしたの?」

 優花もしゃがみ込み、慌てて竜の顔をのぞき込む。よく見てみると、顔は若干赤く、肩で苦しそうに息をしていた。最初は駆けつけて来たせいだと思っていたのだけれど。

(もしかして)

 優花はさっと手を伸ばすと、竜の額に手を当てた。竜がぎょっと体を固まらせたが、優花もまたぎょっとした。

「すごい熱じゃない」

「なんでもない」

 ぶっきらぼうに手が払いのけられたが、妙に弱々しかった。

「なんでもなくない。昨日食欲がなかったのは、調子が悪かったからなのね?」

「だから、大丈夫だって……」

「大丈夫じゃないから、早く帰ってきたんでしょ? あ、会社の人に早退しろって言われたんじゃない?」

 竜はうっと言葉を詰まらせ、黙ってしまった。図星だったようだ。

(なんで昨日ちゃんと見ていなかったのだろう。調子が悪いこと、竜が上手に隠してたとしても、気づいてあげなければいけなかったのに)

 今朝だって、よくよく考えればおかしいところがあったのかもしれない。でも、前日の手紙のことがあったせいか、あまり周りのことに気を配れていなかったのだ。自分のことばかり考えていたことに気づき、優花は激しく後悔していた。

「俺が早く帰ってきたおかげで、助かったんだからいいだろ」

 無理矢理といった様子で竜が立ち上がった。でも、急な動きに対応できないようで、再びふらっと体が傾き始めた。

「おっと」

 それを支えたのは、長谷部だった。

「危なっかしいな。熱があるのに無理したらダメだろ」

 それは、涼やかないつもの長谷部の声だった。

「うるさい。あんたのせいで余計に熱が上がったんだ」

 竜は長谷部から距離を取った。二人の間で、にらみ合いが始まり、また一触即発の緊張感をはらみ始める。

「あの!」

 優花はわざと大きな声を出した。竜と長谷部はびっくりして、弾かれたように優花に顔を向けた。

「竜は、早く着替えて。とにかく、休まなきゃ」

 ぽかんとしている竜を見てから、今度は長谷部に視線を移した。

「先輩は、顔を冷やした方がいいです。少し腫れてるから」

 優花に言われて、長谷部は殴られた方の頬に少し触れた。触れた瞬間「いてっ」と少し顔をしかめた。

「ほら。早く」

 ね? と優花は強引にうながした。

 竜と長谷部は呆気にとられたまま顔を見合わせ、戸惑い顔のままうなずいた。

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