毎朝の日課
まぶたの裏にちらつく光を感じて、優花は長いまつ毛を億劫そうに持ち上げた。
(……もう朝かぁ)
目覚ましはまだ鳴らない。今感じた光はなかったことにして、優花は再び目を閉じる。が、その瞬間にけたたましく目覚ましのアラームが音を立てた。すぐにアラームを切り、再び優花はまどろみ始める。この二度寝に入る瞬間の心地良さが好きだ。学校がなければいつまでだって眠っていられる。朝は得意ではないし、入ったばかりの高校もまだ馴染めなくて面白くないし……。
と、今度は隣の部屋から目覚ましアラームが聞こえた。兄の部屋だ。いや、正確には元・兄の部屋だ。九つ離れた兄は、結婚してからは一階の寝室で寝起きしている。今、優花の隣の部屋にいるのはーー。
「優花、優花。どうせまだ寝てるんだろ。起きないと遅刻だぞ」
壁越しに声がかかった。その明るすぎる声に、寝起きの優花はカチンとなって言い返した。
「とっくに起きてたんだから。あんたこそ遅刻するよ、竜」
すると、軽やかな笑い声がして、
「相変わらず寝起きは不機嫌だな」
と返してきた。優花はますます不機嫌になる。
(もう。毎朝毎朝嫌なヤツ!)
優花はぷりぷり怒りながらベッドを出た。近くに掛けてある、まだ真新しい高校の制服に手を伸ばす。優花の通う高校は、今時珍しくセーラー服だ。ブレザーより着替えが楽だと思う。リボンも結び方さえ慣れてしまえば何てことはない。朝の身支度が早く済むのは優花にとって重要だ。
リボンを結んで部屋を出たところで、隣の部屋のドアも開いた。
「おはよう。今朝も俺のおかげで遅刻しないですむぞ」
ニッと白い歯を見せて笑うのは、先月からこの橘家に居候している葉山竜だ。歳は優花と同い年である、が、彼は学校の制服ではなく青い作業服を着ている。真新しい作業服のはずだが、すでに機械油などで黒ずんでいるところが見られる。
「毎朝恩着せがましい」
思い切り睨みつけると、竜は笑いながらわざと震えてみせた。
「そんなに怖い顔して。そんなに美人なのに台無し」
「うるさい! さっさと下に行って」
優花が拳を振り上げると、竜は愉快そうに階段の方へ逃げていった。
振り上げた拳をおさめて、優花は洗面所へ行った。鏡の自分と目が合って、更に気分が悪くなった。優花は自分の顔が好きではない。この顔のせいでたくさん嫌な目にあってきた。
色容の良い唇、よく整った鼻筋、長い睫毛の下の大きな瞳、それらがバランスよく配置されている。長くて艶やかな黒髪が風になびけば、すれ違う人が思わず振り返る、優花はそんな美少女だった。あえて難癖をつけるなら、すっきりと一文字にのびる二つの眉毛が、気の強そうな印象を与えることぐらいだろうか。事実、気の強い性格をしている。気の強い美少女は、この性格のせいで人とぶつかることが多く、加えて、この顔のせいで同性から反感をかいやすかった。
さっさと鏡から目を逸らして、ダイニングへと向かった。そこには、既に朝食を頬張る竜と兄の数馬、キッチンを忙しく動き回る義姉の佳代がいた。
「おはよう、優花」
「優花ちゃん、おはよう」
兄の数馬、続いてその妻の佳代が優花を見て微笑んだ。
「おはよう」
優花も微笑みで返した。優花が心安らげる人はこの二人だけだ。兄は歳が離れているのでけんかなどしたことはない。むしろ兄のほうが妹を猫かわいがりし、だいぶ甘やかしていた。義姉の佳代は、兄が高校生の時からの付き合いで、よく家にも遊びに来ていた。兄を取られて少し嫉妬したこともあったが、いつしか本当の姉のように慕っていた。だから二人が結婚することになったとき、優花は誰よりも喜んだものだ。
「おはよう~、ベビーちゃん」
優花は佳代の膨らんだお腹にもあいさつした。今、佳代のお腹には七か月になる赤ん坊がいる。朝起きたとき、家に帰ってきたとき、眠る前のあいさつが日課だ。徐々に成長していく赤ん坊を想像するのが楽しくてしかたなかった。話しかけたときにお腹が動いたときの感動といったら。予定日の夏が待ち遠しかった。
「毎朝よく飽きないね。感心するよ」
竜がご飯と味噌汁を口に流し込みながら茶化した。
「産まれたら大変なんだぞ。こんなふうに佳代姉さんが朝飯作る余裕なんかなくなるんだから」
「それなら私が朝食作るもん」
「朝起きられない優花が、どうやって作るんだよ」
「起きられるわよ」
「俺が起こしてやってるのにか」
「違う。自分で起きてるもんっ」
「どうだか」
すると、 わーわーと言い合う二人を黙って見ていた数馬が特大のため息を漏らした。
「いい加減、早く食わないと遅刻するぞ」
え? と二人は同時に時計を見た。
「お兄ちゃん、早く教えてよ! ほんとに遅刻しちゃう」
「数馬さん、早く止めてくれたらよかったのに」
「元はと言えば竜がいけないのよ」
「そっちこそ、いちいち反応するからーー」
竜が何か言いかけ、優花が口を開いて応戦しようとしたとき。
「だから、いい加減食え!」
ついに数馬が怒鳴った。優花と竜はピタリと動きを止めた。そしておとなしく席に着いて朝食を食べ始めた。その横で数馬は「まったく、毎朝毎朝」とぶつくさ文句を言いながらコーヒーをすすった。佳代は苦笑いしながらお腹を撫でた。
「毎朝、数馬が怒鳴るまでがお馴染みの光景になっちゃったわね」
そういえばそうだと、優花は密かに胸の内で頷いた。竜が来るまでは、朝はもっと静かだったはずだ。そう、先月、中学校の卒業式が終わったあの日、竜が来るまでは——。