約束事は守ること!
一通り掃除が終わると、今度は慌ただしく出掛ける準備に取り掛かった。その光景を、ララはボロソファーに座りながら、横目で見ている。
「ララ、行かないの?」
真咲は、似合わないダウンジャケットに袖を通していた。
「行かない。だって、今日おじいちゃんの書斎に入れるんでしょ? それに、外に出るなって言ったじゃん」
ララは、いつになったら入れてもらえるのか、ずっと待っていた。早くしないと、暴れ出してしまいそうなぐらい待ちきれない。目がだんだん細く涙目になり、口が字に書いたようにへの字になり始めている。ここまでならまだしも、クッションを抱きながら揺れ始めた――真咲はわかっていた。この後、ララがとんでもない声でぐずり始めるのを。
「そうだったね」
オルバは、洗面所から出て来ると、思い出したかのように微笑みながら言った。
「ララや、そんなに入りたいかい?」オルバは、ララの意思を確認するかのように再度訊いた。
「もちろん! だって、昨日から楽しみにしていたんだから! それに、外に出るなって言ったじゃん」
ララは、首を伸ばして微笑んだ。この家に来て一番の笑顔だった。オルバも、もうこれ以上は訊くまいと言った顔で茶箪笥に近寄ると、引き出しから鍵を取り出す。ララは、ボロソファーに座りながら、体を前後に忙しなく動かし、ワクワクしてオルバを見ていた。
「お義母さん!」
真咲は、血相を変えてオルバに近づき、ララに聞こえないように耳打ちした。
――本当に大丈夫なんですか? お義父さんの書斎に入れても……
真咲は耳打ちしながらも、ララの様子をうかがっている。ララは、また自分が除け者にされているみたいで嫌な気分になったが、そんなことも気にせず、真咲の耳打ちは続いた。
――あの部屋には……
「大丈夫。誰もララを襲って喰いはしないよ」オルバは、真咲を煙たそうに手で払った。
「でも――」
真咲は、まだ納得いっていないみたいだ。そこに、レジュリーが慌ただしく髪を櫛で梳かしながら現れた。
「どうしたの?」
「いや、ララがお義父さんの書斎に入るって……」
「本当に入るの!?」
レジュリーは、髪を梳かしている手を止めて、オルバを見た。その顔は、母親に向かって「何考えているのよ?」と訴えている顔だった。
「じゃあララや、行こうか」
オルバは、二人の視線を無視して、ララを書斎へと連れ出した。やっとかと、ララは重い腰を上げオルバについて行く。ララがチラッと二人を振り返ると、二人は納得していない気持ちと我が子が心配な気持ちが入り混じったララがとても喜ぶ顔で見ていた。
これで障害をクリアして、ララは一人留守番をすることになり、いよいよおじいちゃんの書斎に入れる。
「ララや――」
ギシギシなる階段を二人で上がっていると、オルバが振り返り、ララの肩に手を回し横に並ばせた。
「いいかい、おじいちゃんの書斎はちょっと変わった場所なんだよ」
「変わった場所?」
「何というか……、とても神聖な場所なの」
「よくわかんない」ララの眉間のしわが、いつもより深くなった。
「まあ、入ればわかるよ。でもその前に、おばあちゃんと約束をしてくれないかい?」
「約束?」
ララをまっすぐ見るオルバの目は、とても意味深で、ちょっと恐いぐらい真面目な目をしていた。その目を見たララは、生唾を飲んで、オルバを見つめていた。
「いいかい――」
一、書斎の窓は絶対に開けない事
二、誰が来ても開けない事
三、書斎を汚さない事
四、火をけして使わない事
五、誰も怒らせてはいけない事
「誰も怒らせないって、どういうこと?」
ララは、オルバと一緒に書斎に向かいながら訊いた。よくわからない約束事の中で、最後の約束がとくにわからなかった。
「入ればわかる。その前に、ララに見えるかが問題じゃが――」
オルバの笑顔が、ララには不敵に見えた。そして、意味深な言葉だけが、ララの頭に残った。
おじいちゃんの書斎の部屋のドアに、白い朝の陽が当たって少し寒そうに見えた。太陽が出ていないわりには、外の光りがとても神秘的にドアを演出している。二人が近づくと、またドアの下が凍っているように見えた。
いよいよ、入ることができる。何だろう? こんなにワクワクするのは、幼稚園の年長のとき、家族で夏休みに初めて水族館に連れて行ってもらった時以来だ。それも、もう四年前になる。魚たちが、大きな水槽の中で泳いでいたり、ララより大きなトドに餌を与えたり、それは楽しい思い出だ。しかし、これから入るおじいちゃんの書斎には、それと同じぐらい、いや、それ以上のスリル待っていそうな気がした。ララは、期待に胸を躍らせながら部屋の前に立つ――床が若干湿っていたが、凍ってはいなかった。
ララは、部屋の前でオルバと向かい合うと、ついに念願の書斎の鍵をもらった。
「このまま入るのもいいが、一回下に行ってココアでも飲むのもいいよ。中はかなり寒いはずだから」
オルバはドアを眺めながら、入ってもいないのに部屋の中の様子がわかるような言い方でララに言った。そのオルバの遠い目は、ララに好奇心と恐怖心の二つをあおった。ララは、ギュッと鍵を握りしめた。
「大丈夫よ。でも、その前にみんなを見送りするわ!」
本当はすぐにでも入りたいのだが、ここでいい子を演じていた方が、後々いろんなことがやりやすいはず。この家にいる時間は限られている。それなら、ことがスムーズに運んだ方がいいと、ララは考えた。その演技は本物の女優で、小学四年生とは思えないほどの策士だった。
ララがいい子を演じながら微笑むと、オルバの優しい目がララを映した。
「ほほほ。いい子だね。それじゃ、留守番をよろしく」
ララは、階段をオルバと一緒に降りた。
でもララの心は、もうおじいちゃんの書斎のことで一杯になっていた。階段を降りながら、オルバにバレないように、おじいちゃんの書斎を何度も振り返る。おじいちゃんの書斎のドアが、窓から差し込む曇り空の怪しい白光りを浴びて黒光り、まるで早く来てほしいとララを手招きしているように見える。ララは、後ろ髪を引かれる思いで階段を下りた。ギシギシとなる階段が、ララの逸る気持ちを反映するかのように、テンポの速い音を奏でた。